【コラム】中国単信(110)
中国茶文化紀行(47)「添加茶」と「清飲」
趙 慶春
茶を飲む時、茶の湯にほかの飲食物を入れますか、と訊かれれば、抹茶や煎茶を飲む時には、おそらく何も入れないと答えるだろう。でも、紅茶やミルクの時、あなたは砂糖を入れないだろうか。このように考えると、日本では「二刀流」の人が多いと言えるかもしれない。
ところで、「清飲」という言葉をご存じだろうか。
「清飲」とは、茶湯にほかの飲食物を入れずに、茶の湯だけを楽しむ喫茶法のことである。「清飲」という言葉そのものと、その概念は日本では馴染みがないが、中国ではよく使われている喫茶専門用語である。一方、茶の湯にほかの飲食物を入れる喫茶法を筆者は「添加茶」と呼んでいる。つまり、「清飲」と「添加茶」は大きく異なる喫茶法なのである。
元代の宮廷及び民間で「添加茶」が普及し、元代喫茶文化の一大特徴になっていたのはすでに紹介したが、元代の一つ前の時代、つまり宋代の「点茶法」は「清飲法」である。
それでは「清飲」と「添加」は、いずれが先に現れたのか。歴史上では、いずれが主流なのか。さらには「清飲」はいつ現れたのか。これらの答えを得るために「添加茶」の歴史を見る必要がありそうである。
人類が最初に茶と出会った時には、「清飲」「添加」のいずれであったのかはわからない。「添加」ではなかったかと推測されるのだが、製茶概念も技術もなく、「食用」のために塩、あるいは他の「何か」を入れた可能性が高いと思われる。
では、唐代以前では「添加茶」はどうだったのだろうか。
三国魏張揖の『広雅』に
「荆巴間采茶作餅、成以米膏出之。茗飲先炙令赤色、搗末置瓷器中、以湯澆覆之、用葱、姜芼之。其飲醒酒、令人不眠。」
(荆巴の間という地域に茶を採って茶餅を作り、仕上げの時米膏を以て完成させる。飲む時、まず茶餅を赤くなるまで炙り、粉末まで搗いて磁器の中に置き、湯をかぶせるようにかけて、さらに葱や生姜などをその上にかぶせる。この飲料は酒酔いを醒ますことができ、人を眠らないようにさせる)とある。
茶の湯の中に葱や生姜などを入れたことが分かる。
一方、以前にも紹介したように、三国時代の呉の孫皓(在位264~280年)は「饗宴を開くたびに一日中かけていた。宴会に出た者は、誰もが酒を七升飲むことを決まりにしていた。すべてを飲み切れない者には口を開けて無理やり注いだ。韋曜は二升以上は飲めなかったが、手厚い持てなしを受けて少ない量が許され、密かに茶を賜って酒に代えた」とある。
この茶の湯にはほかの物は何も入っていないだろう。
史料が少ないので、全体像は見えないが、「清飲」と「添加」は併存していたと考えられる。
唐代になると、樊綽の『蛮書』
「雲南管内物産第七」に「茶出銀生城界諸山。散收。無采造法。蒙舍蛮以椒、姜、桂和烹而飲之。」(茶は銀生城界隈の諸山に産出していた。ばらばらで収穫し、採集及び製茶法がとくになかった。蒙舍蛮の人は山椒、生姜、桂皮を以て茶に加えて烹ってこれを飲む)とある。
この記述だけを見れば、「添加茶」習慣は確かにあったものの、「蛮族」で行われていたと思われがちなのだが、実はそうではない。
陸羽の『茶経』「六之飲」には、「或用葱、姜、棗、橘皮、茱萸、薄荷之等。煮之百沸、或揚令滑、或煮去沫。斯溝渠間棄水耳、而習俗不已」(或いは、ねぎ・生姜・なつめ・たちばなの皮・しゅゆ・薄荷(はっか)などを用い、これを繰り返し沸騰させ、或いは茶の湯を高くすくいあげて、滑らかにし、或いは茶を煮たてて、その沫を取り除く。こうした茶の湯はすでに溝の中の汚水と同然であるが、しかし、習俗となってしまって、なかなかやまない)とある。
つまり、「蛮族」(少数民族)以外の民衆たちも「添加茶」を愛飲していたことが分かる。しかも権威のある茶聖陸羽が猛反発した後、「習俗不已」と嘆いたことから「添加茶」習俗の根強さが伺える。
また、徐夤の『輦下贈屯田何員外』詩に、「厨非寒食還無火、菊待重陽擬汎茶」(厨房は冷食日ではないが、まだ火が起こされていない、重陽を待って、菊を茶の湯に浮かばせようとする)とあるように、添加茶習慣は消えるどころか、むしろ茶の湯に入れる「添加物」の種類が増えていた。
唐代の茶詩に登場する「添加物」は「生姜、塩、ナツメ、米粉、酥油、松粉、柏の葉、漢方薬剤」などがあり、確かに種類が増えている。
陸羽が「葱、姜、棗、橘皮、茱萸、薄荷」など数多くの添加物を茶の湯に入れることに反対したのは上述したが、陸羽が「清飲」派とは言えないようである。
《茶経》「五之煮」に「初沸、則水合量調之以塩味。」(一沸(湯の沸騰具合をはかる専門用語、魚目のような泡がちょっと出始め、音もたて始めたころ)の時、水の量に合わせて塩を入れる)とある。また、《茶経》「四之器」に「鹾簋」という道具が設けられている。これは塩入れである。一時期流行した陸羽の提唱による「煎茶法」は、厳密に言えば、塩を入れる「添加茶」である。
ただし、唐代には正真正銘の「清飲」の例もある。
たとえば、陸羽とほぼ同時代の封演の『封氏聞見記』巻六「飲茶」には、次のような記述がある。「開元年間、泰山の霊巌寺に降魔師という禅僧がおり、大いに禅宗を興していた。禅を学ぶには、寝ないことが大事であるし、また夕方以後一切食事を取ってはいけない。ただ飲茶が許される。そのため誰もが茶を携帯し、常に煮て飲んだ。それが次から次へと伝わり、やがて風習となった。」。これは恐らく何も入れない「清飲法」だろう。
結局、唐代も「清飲」と「添加」は併存していたのである。これまでたびたび触れてきた陸羽の「煎茶法」は唐代の主流喫茶法なので、唐代では「添加茶」が主流だったかもしれない。
大学教員
(2022.12.20)
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