【コラム】
中国単信(68)

中国茶文化紀行(5)  喫茶文化の伝播

趙 慶春


 原産地の雲南、喫茶文化発祥地の四川(巴、蜀)を中心とする中国の西南地域から、茶及び喫茶文化はどのように他地域に広まったのか、詳細は不明である。ただ「貢ぎ物」として広まったのは確実である。

 『華陽国志』「巴志」に「武王既克殷、以其宗姫〔封〕於巴、爵之以子、・・・・魚塩銅鉄、丹漆茶蜜・・・・皆納貢之。其果実之珍者、樹有荔枝、蔓有辛蒟、園有芳蒻香茗、給客橙蕟」(武王は殷を亡ぼした後、その宗族の人を巴に封じ、子爵とした。・・・・魚塩銅鉄、丹漆茶蜜・・・・皆貢がせて受け入れる。その地の果実の珍しいものとして、樹には荔枝があり、蔓には辛蒟があり、園には芳蒻・香茗・給客橙・蕟がある)とある。この記載によれば、西周時代初年、「巴」王の園林にはすでに茶の木が植えられていて、茶を自分の領地の特産物として天下の覇主に貢いだことがわかる。

 また、湖南省長沙近郊の紀元前2世紀とされる馬王堆漢墓の埋葬品に「槚一箱」と記された入れ物が出土した。「槚」は茶の異名で、茶の入れ物だったようである。この事実から、その時代、その地域では茶はまだ貴重品で、日常生活にまで普及していなかったことが推測できる。馬王堆漢墓の茶も地方から中央ではなく、藩国大名への貢ぎ物だった可能性が高い。「貢ぎ」は落下傘型なので、一気に遠方まで伝わるが、広く普及することは難しかった。

 早期喫茶資料では北方に関するものがごく少数だが、左思の『嬌女詩』はその一つである。左思は斉の臨淄(今の山東の淄博)の人で、『三都賦』の作者として、その名が知られている。西晋の武帝(司馬炎のこと)の時、その妹の左芬が皇帝の妃に選ばれたのがきっかけで、妹と一緒に洛陽に入り、秘書郎という官職についた。『嬌女詩』は全部で五十六句あるが、陸羽は『茶経』の中で次の部分を抄録している。

   吾家有嬌女、   吾が家に嬌女ありて、
   皎皎頗白晰。   皎皎として頗る白晰なり。
   小字為紈素、   小字(幼児の名)は紈素と為し、
   口歯自清歴。   口の歯はおのずと清くなる。
   有姊字恵芳、   姊有り字は恵芳、
   眉目粲如画。   眉目は粲(はっきり)として画けるが如し。
   馳騖翔園林、   馳騖(ちぶ)して園林を翔け、
   果下皆生摘。   果の下で皆生で摘る。
   貪華風雨中、   華を貪る風雨の中、
   倏忽数百適。   倏忽(たちまち)数百(歩)適く。
   心為荼荈劇、   心は荼荈の為に劇(げき)し、
   吹嘘対鼎鑠。   吹嘘(吹くこと)して鼎鑠(かま)に対(むか)う。

 この詩と、さらに左思の身分を考慮すると、西晋の初めには、少なくとも洛陽の一部の官僚の家庭で茶を飲み始めたことがわかる。西晋が全国を統一する一方、降伏した呉と蜀の影響が考えられる。しかし、この時代の前後での北方の喫茶資料は極端に少ないこと、後述するが、北方の人びとには茶は身近ではなく、少女たちの「ドキドキ」の心理から茶がまだ生活常備品ではなく「珍しいもの」だったなどから、洛陽で飲まれていたこの茶も「貢ぎ物」と思われる。
 少量の貢ぎ物では喫茶習慣の定着には至らなかったが、かなり早い時期から北方の人間にも「茶」の存在を教えたことは確かである。

 茶の栽培や喫茶文化の伝播には日常生活を営む一般の人間に依存するところが大きい。人間の移動、輸送手段、情報伝播が活発でなかった時代だけに、またたく間に広がったとは到底考えられない。長い年月をかけて伝播し、広がったはずである。そして、「茶の栽培」と「喫茶文化」の伝播は同一歩調を取るわけではない。茶が伝えられても喫茶習慣が定着せず、茶の木が野生化してしまうことさえ起きる。

 朱自振・沈漢の研究によれば、伝播のルートは長江に沿う水路で、発祥地の巴蜀から、荊・楚一帯(前述の馬王堆漢墓の所在地)を経て、長江下流の江南地域へと進んでいったと考えられる。そして、喫茶文化は遅くとも三国時代には長江下流の江南地域に達していた。その証拠として『三国志・韋曜伝』が挙げられる。

 「皓毎饗宴、無不竟日、坐席無能否、率以七升為限。雖不悉入口、皆澆灌取尽。曜素飲酒不過二升、初見礼遇時、常為裁減、或密賜茶荈以当酒」
 孫皓(242~284年、在位264~280年)は饗宴を開くたびに一日いっぱいかけた。宴会に出た者は、誰もが酒を七升飲むことを決まりにしていた。すべてを飲み切れない者も口を開けて無理やり注いだ。韋曜(274年卒)は二升以上は飲めなかったが、手厚い持てなしを受けて少ない量が許され、密かに茶を賜って酒に代えた、とある。

 この記録について、布目潮風がすでに指摘しているように、三国時代の茶湯の色が酒の色とほぼ一緒であり、混同されやすかったということである。三国時代、孫皓の宮廷ではどんな色のどんな酒が出されていたのか、断定しにくいが、蒸留酒がまだ発明されていないこと、果実酒を飲む習慣が中国にはあまりないことから、米酒の可能性が高く、今でも江南地域でよく飲まれている紹興酒の可能性が一番高い。そうだとすれば三国時代、江南の茶の湯の色は茶色、あるいは薄茶色か黄色に近かかったに違いない。少なくとも今の緑茶のような「緑」ではなかった。なぜなら緑色の酒はなく、「密かに」は難しかったからである。
 茶の色が「緑」でなかったとすれば、茶は生葉ではなく、製茶したものに違いない。また当時、紅茶やウーロン茶の製茶法がまだ発明されていないため、新茶の湯色は基本的に「緑色」になるため、孫皓の宮廷の茶はやや保存期間の長い「古い」ものだったのだろう。

 時代が少し下った唐代には現在の散茶と同じような「釜炒り散茶」があった。その例証として、劉禹錫の『西山蘭若試茶歌』が挙げられる。

   山僧後檐茶数叢、 山の僧房の後ろに茶が数叢あり、
   春来映竹抽新茸。 春が来たら竹と照らしあうように新しい芽が出てくる。
   宛然為客振衣起、 客のためにさっと服を振って立ち、
   自傍芳叢摘鷹觜。 自ら芳ばしい茶叢に近づいて鷹の觜のような鋭い形をしたよい茶の葉を摘む。
   斯須炒成満室香、 炒めあがるとたちまち部屋中に香りがただよう、
   便酌砌下金沙水。 そこで、ただちに山寺のふもとの金沙泉の水を酌む。
   ・・・・・・

 三国時代にすでにこのような「釜炒り散茶」が存在していたとしても、詩が示している通り、「散茶」はすぐ淹れて飲むのが一般的である。「散茶」は長期保存に向いていないからである。そのため孫皓の宮廷の茶は長期保存に向いている蒸し製餅茶(固形茶)の可能性が高い。陸羽の「茶経」の記述によると、餅茶は乾燥を保つために、定期的に焙る必要がある。蒸し製餅茶を一定程度保存して、さらに焙ると、その茶の湯は濃い黄色か茶色になるため、酒だと言っても見破られなかったかもしれない。

 『広雅』に「荊巴間、採茶作餅、成以米膏出之」(荊巴の間では、茶を採って茶餅を作る、仕上げの時、米膏を以ってこれを作り出す)という記載があることはすでに紹介した。これによれば、茶文化発祥の地である巴・蜀(四川)から、荊・楚(馬王堆漢墓の所在地)を経由して、江南(孫皓宮廷の所在地)に至った伝播ルートでは、喫茶習慣だけではなく、「餅茶」の製造技術や「餅茶」にして保存する習慣も同時に伝えられたようである。
 証明する資料は少ないのだが、「餅茶」は中国喫茶早期歴史上、長い間、主流であったようである。のちに唐代の陸羽が「茶経」で唱えた製茶法は蒸し製餅茶である。つまり、餅茶は陸羽が発明したのではなく、陸羽は長い伝統を踏まえ、改良を加え、製造道具及び製造法を完備させたのである。

 三国時代の茶に関する資料は上記のほか、呉普の『本草』などがあるが、辞書類か茶の薬効を紹介するものばかりで、喫茶文化は宮廷以外にどれほど普及したかを知る資料はない。真の普及は次の晋の時代になるまで待たなければならない。そして、喫茶道具や茶の入れ方など喫茶システムの構築に関する記録も見あたらず、これは唐代の茶聖・陸羽の出現まで待たなければならない。

 (大学教員)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧