【コラム】中国単信(120)

中国茶文化紀行(57)

「清飲」文化の背景と影響
趙 慶春

 再度「清飲」という言葉に注目したい。
 言うまでもなく、日本の茶道は抹茶道でも煎茶道でも茶の湯に他の飲食物を入れないため、正真正銘の「清飲」喫茶法である。だが、この「専門用語」は日本では使われておらず、「清飲」という概念が日本には基本的にないと言える。ただし、「清飲以外の喫茶法がない」というわけではない。紅茶にミルクやレモン、砂糖をいれるのは一般的であるし、沖縄のぶくぶく茶に至っては、煎った玄米と白米もいれる。

 では世界を見渡したとき「清飲」と「添加茶」ではどちらが多いのだろうか。
 イギリス紅茶を始め、モンゴル、モロッコ、ロシア、トルコ、インド、スリランカ、フランス、アメリカ、オーストラリアなど、喫茶人口ではなく、国・地域で見ると、茶湯の中に何かを入れて飲む習慣のある国・地域のほうが多いかもしれない。すべて調査をしたわけではないので予測を含めてだが、これらの国々には「清飲」という概念や用語はないと思われる。

 「清飲」の概念は中国発祥の、中国特有の「審美意識」なのだろうか。歴史的に多彩な添加茶文化を持つ中国だが、現在は「清飲」喫茶法一辺倒なのだろうか。「清飲」概念は単に「物理的に他の物を茶の湯に入れない」という意味なのだろうか、それとも他の「審美意識」が織り込まれているのだろうか。
 これらの問いに答えるためには、「清飲」概念と意識が誕生した経緯と文化的な背景を考察、究明する必要がある。
 一つの新しい「単語」あるいは「概念」誕生のきっかけには、およそ二つのケースが考えられる。一つは「ある事象が初めて出現する」であり、もう一つは「既存の事象と区別する」である。「清飲」も例外ではないだろう。

 宋代の「点茶」や「闘茶」については以前、紹介したことがあるが、点てた沫を鑑賞、あるいは勝負するため、他の物をいれないのが基本である。それによって皇帝、宮廷人、官僚、文人、そして数多くの愛茶家はそれらを「美的に」「芸術的に」審美追求し、憧れの対象にした。それだけに「点茶」や「闘茶」は高度な技術を要する創作であり、誰にでも真似できるものではなかった。達成者は「勝利者」であり、群を抜いた「成功者」でもあった。そのため、「点茶」や「闘茶」は「自慢」の源にもなった。「自慢」とは、他人に吹聴し、自己顕示欲を満足させるものとは限らず、自分だけの満足として蓄積していく意味合いが強いのかもしれない。

 一方、「添加茶」も宋代で大発展を遂げた。少なくとも添加する種類の豊富さは宋代で最盛期を迎えた。これは生活スタイル、飲食習慣、気候環境と当地食材と茶の湯の融合であり、生活での喫茶方法の取捨選択の結果である。南方地域で「生姜、米」など、北方では「乳製品、肉」などが茶の湯に入れられるようになった。
 ただし、「芸術」だと自認し「点茶」や「闘茶」を追求していた文人が「生活」密着の添加茶を見下していたのは明らかである。前にも引用した「此等莫与北俗道」(このような喫茶法を北の民族に言うべからず)、「薦以羊肪何太俗」(茶に羊肪をいれるとは甚だしく俗っぽい)、「鶏蘇胡麻留渴羌,不応乱我官焙香」(鶏蘇やごまは渇羌などの民族の民に譲ろう、我が官焙龍団茶の香を乱すべからず)など「自慢気」の詩文が何よりの証拠であろう。

 しかし、この状況は元代になると一変した。
 新しい宮廷の主人は「芸術的点茶」の伝統を持たないモンゴル人だったからである。茶を生活必需品と見ていたモンゴル人や西南のチベットや北西の西域などの遊牧民族が最上等の国民になったことで、これら民族の生活スタイルが次第に広がっていったのは言うまでもない。その結果、「酥油」などを入れる北方スタイルの添加茶が宮廷や民間喫茶店などで急拡大し、点茶と龍団鳳餅文化の凋落につながった。
 その結果、優位に立っていたはずの文人たちのプライドは傷つき、異民族文化に対する心理的砦を死守するために躍起となり、何も入れない「清飲」「清茶」を新しい矜持の拠り所とした。これが元代に誕生した「清飲」の背景である。
 宋代と元代は中国喫茶史上、添加茶文化が盛んだった時代である。そして、「清飲」概念は添加茶文化が盛んだったがために誕生したと言えるだろう。

 また、「清飲」「清茶」の「清」には重要な文化要素が含まれている。中国文人が最も重要視している「清高」という概念である。
 「清高」とは金銭、地位、声名など俗世間の価値観に束縛されず、生活や人間関係で俗人と付き合わず、清らかな魂を守り抜くことである。この「清高」意識は俗世の自慢や矜持を超越し、優れた人格素質、品徳である。
 「王右軍、軒轅弥明、玉川子盧仝、林和靖」の四人を「四清」(清高四天王)として祭り上げ、茶詩の中で詠んでいたのは元代である。倹約、脱俗など喫茶活動により、茶に付与された性格は元代で「清」という言葉に集約された。言うまでもなく、これは「清飲」「清茶」の「清」でもある。「四清」や「茶の性格」などの話題については、いずれ紹介することにする。

 「清飲」「清茶」には混濁の状態から抜け出して「清明な」意識を保つ意味が込められている。モンゴル政権下で、大多数の中原の文人は亡国奴の屈辱を味わっていただけに「添加茶」は宋代から異民族の代表物という認識があった。そのため「添加茶」に対する「清飲」「清茶」には異民族文化に抗する文人の意識も強く込められていたに違いない。
 現代の中国喫茶は大雑把に言って、中原の漢民族は「清飲」「清茶」が主で、辺境地域に多く居住する少数民族は添加茶一辺倒と言っていいだろう。現在では「異民族文化に対抗」しているわけではないが「清飲」と「添加茶」の構図は元代とさほど変わっていない。

大学教員

(2023.10.20)
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