【コラム】中国単信(121)

中国茶文化紀行(58)

元代の主流喫茶法と特別喫茶法
趙 慶春

 中国唐代の主流喫茶法は陸羽が考案した「煎茶法」である。宋代の主流喫茶法は「点茶法」である。では、元代の主流喫茶法は?
 元代は漢民族ではないモンゴル族による政権だった。それ以前の時代に知識人が主導してきた漢民族文化と主権者となったモンゴル族文化との衝突も当然、起きた。喫茶文化でも宋代の「点茶法」を継承する一方で、宮廷と民間の双方で「酥油、炒り米、炒り小麦粉」などを茶の湯に入れる「添加茶喫茶法」が大いに勢力を伸ばした。
 「点茶法」と「添加茶法」は並存し、元代の主流喫茶法を成していると考えられる。これらの喫茶法についてすでに詳述したので、ここでは元代の後世に大きい影響を残した二つの「特別」喫茶法を紹介する。

 <特別喫茶法一>
 忽思慧が著した《飲膳正要》には、二つの「特別」な銘茶が登場している。それは「炒茶」と「西番茶」である。
 「炒茶」とは、「用鉄鍋焼赤,以馬思哥油,牛奶子,茶芽同炒成。」(鉄の鍋を用いて非常に熱くし、马思哥油と牛乳を以て芽茶を炒めてできあがる)とある。
 「西番茶」とは、「出本土,味苦渋,煎用酥油。」(本土から産出、味が渋苦く、酥油を用いて煎じる)とある。
 「馬思哥油」と「酥油」はともに牛乳から精製された乳製品である。搾った牛乳をそのまま1~2日置くと、その表面に膜状、あるいは柔らかい固体状の塊ができる。それが「奶嚼克」、または「奶嚼口」と呼ばれる。「奶嚼克」を加熱して液状化させたのが「酥油」であり、「黄油」ともいう。一方、牛乳を専用の容器に入れて、休まず攪拌して浮き上がった塊が「馬思哥油」であり、「白酥油」ともいう。つまり、牛乳を加熱するのが「黄酥油」で、加熱せずひたすら攪拌するのが「白酥油」である。

画像の説明
(写真1:黄酥油)
 「炒茶」とは現代中国語では製茶法の専門用語で、摘みたての茶葉を鍋で炒めて植物の酸化を防ぐためで、「殺青」ともいい、緑茶の加工時によく行われる。しかし、上記《飲膳正要》での「炒茶」は現代の意味ではなく、製品茶になった芽茶を乳製品で料理を作るように炒め、それにおそらく湯を加えて、その浸出液を飲むことを指していた。
 「西番茶」の説明に見える「煎」とは、少量の油や水で焼く調理法の一つである。「西番茶」も「炒茶」同様に(1)生葉ではなく、製品茶の芽茶を(2)酥油などの乳製品で(3)「炒」や「煎」の調理法によって、再加工してから飲用に供するものである。
 このような喫茶法は、現代のモンゴル族の「ミルク茶」、白族の「三道茶」、苗族の「烤茶」として、中国少数民族の喫茶文化に継承されている。

<特別喫茶法二>
 まず、元代の茶詩である顧瑛の《登惠山》(其一)を見てみよう。
 遺像𠑊存嘗水廟,  嘗水廟に遺像が厳かに残っていて、
 長廊亦有注茶僧。  長い廊下に「注茶」の僧侶もまたいる。
 荒台旧刻無人打,  荒台の漏刻を司る人がいなくなり、
 岩壑秋清尽日登。  清らかな秋に時間を忘れたほど日を尽くして岩壑を登る。

 この詩はタイトルが示すように「惠山」に関している。「惠山」と言えば、陸羽と劉伯芻がそれぞれ「名水ランキング」の第二位とした「惠山泉」がある。陸羽と刘伯芻が挙げる「名水ランキング」第一位は異なっていて、第二位が同じ「惠山泉」なので「惠山泉」こそが第一位の名水とする向きもあり、現在でも絶大の人気を誇っている。そのため惠山泉を求めに来る人が後を絶たず、陸羽や刘伯芻を祭り、惠山泉を味わえる施設として「嘗水廟」が建てられた。
 「嘗水廟」で提供していたのはおそらく惠山泉の水で、併設していた寺院は惠山泉の水で茶を提供するサービスもしていて、寺院の長い廊下に「注茶僧」を立たせていた。
 ここで注目したいのは「注茶僧」という名前である。「注」は中国語でも「注ぐ」という意味があり、急須のような道具から茶碗やコップに注ぐと理解していいだろう。なぜなら人の往来が多い観光名所の寺院の廊下で「茶碗に粉末茶を入れて、湯を注いで点てて飲ませる」点茶方式は考えにくいからである。つまり、粉末茶ないし芽茶を使って浸出液を提供していたと見るのが妥当だろう。これはおそらく後世の「散茶撮泡法」誕生のきっかけになったと考えられる。

画像の説明
(写真2:鎌倉建長寺成道会の献茶に使われている道具。元代の「注茶僧」が使用した茶瓶はこのような形だったのではないだろうか)

(2023.11.20)
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