【コラム】中国単信(128)
中国茶文化紀行(65)
「羊羔酒」と「雪水茶」の多様化
趙 慶春
前回に続き「羊羔酒」と「雪水茶」に関する元代の文人の捉え方を紹介する。
(五)「窮酸」(貧乏くさい)文人を嘲笑する派
倪瓚「題易安室」
……
魚泳波光碧, 魚が泳ぎ波の光は碧く、
鳥飛山影寒。 鳥が飛び山影は寒し。
猶嗤陶学士, なお陶学士を笑い、
煮雪一生酸。 雪を沸かす一生は悲しい。
王冕「聴雪軒」
……
洛陽处士門深閉, 洛陽处士は門をかたく閉め、
剡曲先生琴不弹。 剡曲先生は琴を弾かず。
想在此時情思好, 思うにこの時の気分は良く、
煮茶可笑老陶酸。 雪で茶を煎じる陶学士の浅ましさを嘲笑する。
朱思本「次韻劉明叟推官」
……
龍卧有泉寒不竭, 龍が潜る泉あり、寒くとも干し上がらず、
客来無酒夜能賖。 客が来て酒はなくとも夜は楽しめる。
高談一昔添詩興, 意気高揚して長きの談論、詩興を助長し、
清絶無煩雪水茶。 「清絶」は雪水茶を煩わす必要なし。
葉顒「丁巳立春前風雪兼旬新正後尤甚山中堆積封檐人畜俱毙民間薪米価增十倍賦一詩紀事云》
斗米民間価十千, (雪により)米価が民間一斗(一升の10倍)一万になり、
山中危石正堆塩。 山中の危ない石の上にも雪が積もり(柴取りも難しい)。
地炉煮茗難充飽, 地炉で茶を沸かしても腹を満たすこと難しく、
金帳羔羊且莫嫌。 金帳の羔羊、しばらく嫌うことなかれ。
欧陽玄「灞橋風雪図」(其一)
学士烹茶掃雪時, 陶谷学士が雪を集めて茶を沸かせば、
当時已被侍儿嗤。 侍女からは嗤われた。
灞橋驢背何為者, 灞橋でロバの背に乗るは何をする者か、
直要衝寒去覓詩。 雪の寒さの中で詩の閃きを求めようとする。
王冕「済州阻雪九月廿七日客况」(其一)
滕州済州山不多, 滕州済州に山少なく、
平林大野少人家。 広い平野に人家も少なし。
解貂且問将軍酒, コートを脱ぎ、まず酒について問えば、
対雪誰言学士茶。 雪を前にして誰が学士茶に言及するだろうか。
……
引用した上記のいくつかの詩では、道も塞がれ、対応に困り果てている大雪を前にして、それでもその雪で茶を沸かす風雅の余裕があるか? あるいは腹を満たすまで食べられるか心配している時に雪水茶に興味が持てるのか? さらに雪が舞う極寒の中、敢えて外に出て作詩の閃きを得るためなどと言うのは、浅ましいと評価されても仕方がないのかもしれない。
(六)拝金批判派
方鳳「陶谷茶雪」
……
玉堂学士愛清味, 玉堂学士は清味を愛し、
取雪烹茶真快哉。 雪を取り茶を沸かすとは実に心地よい。
堪笑嬌娥党家妓, 愛嬌のある党家の妓女を笑うべし、
歌舞但知趨富貴。 歌舞で富貴となるを知るだけだから。
……
(七)羊羔酒を羨む派
程端礼「寄張伯任」
羡殺羊羔酒, 羊羔酒をしきりに羨み、
城南吏隠家。 城南の退官官吏の家。
攢眉哦柳絮, 眉をしかめて柳絮を吟じ、
呵手看梅花。 息を吹きかけて手を温め、梅花を観賞する。
官給桃花米, 上級の官給米が支給され、
隣分薄荷茶。 隣人は薄荷の茶を分けてくれる。
誰憐山寨吏, 誰が山奥の下級官吏を憐れむか、
冷廟作官衙。 うら寂しい寺を官署にするのみ。
(八)学士風流を羨む派
葉顒「庚子雪中十二律」(其一)
……
異常璀璨原非玉, 異常に璀璨たるは玉ではなく、
頃刻繁華不是花。 短い繁華を飾るは花ではない。
安得風流陶学士, どうすれば風流の陶学士に出会えるか?
松風同煮竹炉茶。 松風とともに竹炉茶を沸かす。
趙友藺「詠雪示二生」
……袁安潦倒元非傲, 袁安がみすぼらしいのはプライドのせいではなく、
陶谷風流不是貧。…… 陶谷の風流は困窮によるものではない。
(九)身分相応派
丁鶴年「詠雪三十韻(省蘭曰:如此隨手填砌,雑乱無章,不可為訓。)」
……羊羔已属将軍飲, 羊羔酒はもはや将軍の飲物であり、
鳳髓還帰学士煎。…… 鳳髓茶はやはり学士が煎じることにすべし。
郝経「橄欖」
半青来子味難誇, まだ半分青い未熟の橄欖の味は褒められず、
宜着山僧点蝋茶。 山僧が蝋茶を点てるのに宜しい。
若是党家金帳底, もし党家の金帳の中ならば、
只将金橘送流霞。 ただ金橘をお酒のともにするだけである。
(十)その他「相手を選ぶべき派」などの意見
胡奎「初春」(其一)
急霰打窓鳴不止, 激しい霰が窓をたたき続け、
坐剪紅燭到三更。 赤い蝋燭の芯を切り、夜中に至った。
莫笑煮茶無小妾, 茶を沸かすのに若い妾がいないのを笑うことなかれ、
也知掃雪小童清。 雪を掃く小童が「清」であることも知る。
虞集「陶谷烹雪」
烹雪風流只自娱, 陶谷烹雪の風流はただ自分を楽しませるため、
高情何足語家姝。 高潔な意趣を家姝(党姫)に語っても意味がない。
果知簡静为真楽, 素朴、静寂が真の楽だと知るなら、
列屋閑居亦不須。 家屋を並べて閑寂に居る必要もない。
この「羊羔酒」と「雪水茶」の典故及びその展開は元代社会、いや中国伝統文化の価値観に一石を投じたものなので、多様な具体例を挙げて紹介した。これらは「茶と酒」を比較して当時の中国思想や意識を再考するものであり、喫茶の精神性への探究でもある。この多様性は民族間の衝突、文化の相違、そして人間の「富、権力、地位、名声」などとの葛藤からであり、この多様性を背景とした「議論」の結果が「茶禅一味」概念の誕生を促したのではないかと思われる。
中国元代文学作品に酒が頻繁に登場するのは見てきたとおりだが、統治者であったモンゴル民族が北方の寒い地域から来たため、酒を好む社会になったのだろうが、「羊羔酒」と「雪水茶」典故が注目を集めるようになったのは、「たまたまの現象」ではなかったように思う。
現代社会、酒は相変わらず意気高揚の道具であり、相変わらず豪勢の代名詞である。一方、茶は高潔な一面を保ちながら、一部のブランド茶銘柄が天文学的な高価なものとなり、大金持ちしか楽しめない嗜好品になりつつある。
現代社会は「羊羔酒」と「雪水茶」が多様化していた元代社会と重なる部分があるのではないだろうか。現代人にも再考の次期がやってきているのかもしれない。
大学教員
(2024.6.20)
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