【コラム】中国単信(133)
中国茶文化紀行(70)
「茶禅一味」——「茶禅一味」とは
趙 慶春
日本でも、中国でも「茶禅一味」という言葉を日常的に、あるいは講演などで使っても、すんなり通じるし、相手も決まって納得している表情を見せる。
「茶禅一味」という言葉がこのように一般的になっていて、それなりに理解もされているらしいのだが、その本質については、あまり追究されることはない。
喫茶文化を研究テーマとする筆者には、「茶禅一味」は避けて通れないテーマである。しかし、このテーマを前にすると、文字を書く手が止まってしまって固まってしまう自分に気がつく。何を、どこから、どう書けば良いのか、わからないからである。
考え事をしていると、書斎を歩き回り、さらには自宅の一階と二階を行ったり来たりし始める。また、しきりにタバコに手を伸ばし、味もわからないまま気がつけば、すでに何箱目かのタバコということにもなる。これではいかんと、気分転換に小説を手に取ってみるのだが、ただ活字が目に入って来るだけで時間だけが過ぎていってしまう。
このような筆者の癖というか、人間なら誰でも「持つ」一つの生活習慣は仏教で言う「薫習」であり、「禅」の一部だと言える。
「禅」は意外にも我々の身近にある。
「禅」という言葉からは、どんなことを思い浮かべるだろうか。「枯山水」の庭、わびさびの内装、高僧大徳の掛け軸、精進料理、それとも「明心見性」に関する創作意だろうか。いずれにせよ、これらはどれも我々の「禅」に対するイメージにほかならない。
最近、「写経」「座禅会」「法話会」などが各地の寺で開催されているようで、一般の人々の「禅」への関心は広がっているようだが、庶民生活に溶け込み、生活の一部にまではなっていない。
したがって「茶禅一味」という言葉に対しても、日常の喫茶を文化の目線で捉えているのかもしれない。それにしても「禅」とは、「喫茶文化」とは何であろうか。
「答え」はすぐそこにありそうで、なかなか手が届かないのは「茶禅一味」という言葉そのものの概念が不分明であり、「茶禅一味」について明確に書けないのは、それが理由のようである。
「茶(喫茶文化)」も「禅(仏教文化)」も自分の専門領域なのだから、専門書として執筆すれば、専門書なので読者は限られるだろうが、業績として評価される。
一方、一般書として執筆すれば、多くの方々の目に触れ、販売部数が伸びれば、自分の名前も多少は知られ、しかも印税収入もあるかもしれない。
でもまたさらに、仏教に「伝燈」という言葉があるが、もし仏法を広めるのに少しでも寄与できるなら、人生最大の喜び、いや誇りになるかもしれない。
こういった、あれやこれやの雑念が別に損得勘定など意識していないのだが、頭の中に浮かんでは消えして、集中すべきことに集中できず、心はなかなか「静」になれない。
こうした雑念はたいてい自分の欲望から発しているようで、どう書けばよいかという迷いも、結局は雑念ではないだろうか。書いては消す。またもう一度書いては消す。それを繰りかえし、とうとう一文字も残らない。
そこには焦りもあるのは間違いない。何故焦るのか、自問もした。
仕事としても、趣味としても「形」が残らず、結果を残せないなら時間の無駄遣いでしかないとも思ってしまう。だが、「自分」が欲している「結果」とは、何だろうか?
雑念が頭に渦巻き、時間だけが無駄に過ぎていく中で「茶禅一味」の本質を考え続けているうちに、ある言葉を思い出した。
「茶可以清心」である。一杯のお茶は心を清めること(鎮めること)ができるという言葉である。
禅は本来的に「清静心」への追求であり、それこそが究極の目的にほかならない。
「茶」と「禅」はともに「雑念」を消す手段であり、「雑念」を消すことができ、「茶」と「禅」は、いずれも「雑念」を消してから開ける「境地」でもある。
「茶」と「禅」はともに時間と戦って「結果」を得るものではなく、この二者は「今の時間」を生きていくものである。これこそは「茶禅一味」の本質ではないのか。
「一服のお茶」と「ひたすら行う座禅」——雑念を払拭し、頭を無にして自分・心と静かに向き合うことができなければ、「茶禅一味」を語る資格はないのだろう。
ここに至って、なんとなく「茶禅一味」について、ようやく語れるかもしれないと思うようになった。
でも、「茶」もそうだが、なぜ「禅」によって「静なる心」が得られるか?
「禅」は一つの手段なのか、それとも目的なのか?
「禅」によって求める究極の目的とは?
大学教員
(2024.11.20)
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