【コラム】中国単信(135)
中国茶文化紀行(72)
「茶禅一味」の「禅」とは禅宗のこと?
趙 慶春
世界の国々に対するジョークは数多くあるが、日本について一例を挙げれば、
「日本人の信仰に関するアンケート調査は次のような結果になった。
神道の信者が一億人いる。仏教の信者が一億人いる。無宗教の人が一億人いる。
さて、日本の総人口は?」
というものがある。こういったジョークはおしなべて鋭く、かつ的確にその国の国民性や民族性を表わしていることが多い。日本人が宗教や信仰に対してはかなり「曖昧」であることは確かなようである。この「曖昧さ」は「茶禅一味」についても例外ではない。
例えば、「茶禅一味」の「禅」は禅宗だけを指す? 仏教全般を指す? それとも仏法の「禅那」、「禅定」などを指す?
喫茶文化はもともと仏教との縁が深いので、筆者は長年、多くの流派の寺院を訪れ、数多くの僧侶と会ってきた。その際には「茶禅一味の禅は何を指しているのか」という質問をぶつけるのを常としてきた。
「禅宗のこと」と当然のように答えた方もいれば、「禅宗かなぁ? 喫茶は流派と関係ないので、禅宗に限る話ではない気がする」と迷いながら答えた方もいる。そして「うちは禅宗ではないので、茶禅一味とは無縁」との回答もたびたびあった。意見や見解がバラバラなことだけは確かなようである。
この「質問」は「茶禅一味」の研究には極めて重要な一つだと見ているが、いくつかのポイントを押さえておくために、まず日本の状況を見てみよう。
中国から禅宗をもたらした栄西和上は『喫茶養生記』の著者としてもその名が知られている。つまり、茶と禅は最初から深い絆で繋がれている。また、五山文学に残されている数多くの喫茶資料からは、禅宗の僧侶たちは自ら茶の木を植え、喫茶を行い、伝えられた喫茶文化を寺院の中で守り続け、「日本茶道」の誕生を促した。「茶禅一味」概念の誕生・定着及びその内容の形成には禅宗が大きく寄与したことが見て取れる。したがって「茶禅一味」の「禅」は「禅宗」、あるいは禅宗の「禅」を指すという考え方はあり得る。
しかし、「禅宗」のみを指すのだろうか。確かに「茶禅一味」の「禅」と言えば、まず禅宗そのものや禅宗の「座禅」を想起する人は多いかもしれない。
ところが「座禅」や、その境地を表す「禅那」(禅定)は禅宗特有ではなく、仏教ないし他宗教にもある「共法」(共通の法)である。そのため天台宗も法相宗も浄土宗も密教の真言宗も、皆「座禅」を取り入れている。言わば座禅は仏教各流派の共通の修行方法である。更にはインドのヨガを始めとする数多くの修行流派、所謂「外道」も座禅を取り入れている。キリスト教でさえ一部の流派は「座禅」を行っているようである。
禅宗は仏教の一つの流派であり、独自性を持つが、あくまでも仏教の基本、基礎教理を基盤として成り立っている。他のすべての流派も同様である。禅宗では「一花開五葉」という譬えがよく使われる。中国禅宗初祖である達磨(一花)から始まり、潙仰、臨済、曹洞、法眼、雲門などの五つの流派(五葉)ができたことを指している。禅宗と他の仏教流派の関係は仏教の基本教理という「太い」枝から派生した、異なる「葉」にほかならず、独自性があっても、「根」は同じなのである。
このようにひとまず説明できるのだが、これで「結論」を出すつもりはない。「茶禅一味」の中身、本質を解明するためには「禅宗」に限定せず、幅広く仏教教理全般、特に仏教の基本理念を考えていく必要があるからである。
禅宗は霊山「如来拈花、迦葉微笑」から「教外別伝」として始まり、達磨によってインドから中国に伝えられた。その後、中国固有の儒家、道教、墨家などの思想と融合して、中国の禅宗が生まれた。中国禅宗は中国伝統文化の集大成と言えるが、インド固有の仏教理念に新しい要素を加えたものである。そして、新しく加えられた要素も禅宗、いや仏教の一部分になっており、「茶禅一味」の禅を考えるには「中国文化」という新しい要素も忘れてはならない。同様に日本茶道及び日本禅宗の「日本文化」の要素も分析する必要があるだろう。
つまり「茶禅一味」の研究は「茶」と「禅」の共通性を見るだけでなく、仏教各流派の異動性の研究でもあり、比較文化の研究でもある。
一般的に一つの宗教の成立には三つの要素が必要である。「教祖、教義、組織」である。日本神道のように三要素が揃っていない、やや「特殊な」宗教もあるが、ここでは省略する。
宗教の三要素が仏教では、
教祖:釈迦牟尼仏。
教義:仏教の理念、教理。「四諦、十二縁起、因果、輪廻、五陰八識、諸相非相、方便、波羅蜜、空(勝義有)、心物一元」等々。基本的に「智慧」(般若)と「慈悲」(利他)に集約できる。
組織:本山・末寺など寺院の組織構造。
である。
第一の要素である「教祖」は宗教誕生の背景を教え、さらに基本教義の形成にかかわり、後世の流派の誕生にも影響を与える。第二の要素の「教義」は言うまでもなく、宗教の成り立つ根本的な「骨」に当たる。両者とも一つの宗教の最も重要な要素であり、常に注視される。一方、第三の要素の寺院などの「組織構造」は宗教研究では軽視されがちである。
しかし、この「組織構造」は一つの宗教の「教育伝承」の役割を担い、その宗教の存続に極めて重要であると同時に、人々に信仰を提供する「窓口」であり、俗世間との「接点」になっている。
したがって「茶禅一味」を考える時、いや、「禅」を理解するためにも、「寺院」は一つの重要な手がかりを得る入り口になる存在である。そうであるなら「俗世間」と「超世間」を跨ぐ「茶禅一味」を解明するためには「俗世間」と「超世間」を繋ぐ窓口から入るべきではないだろうか。
大学教員
(2025.1.20)
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