【コラム】中国単信(138)
中国茶文化紀行(75)
「茶禅一味」・煩悩
趙 慶春
1988年の夏、長〜い長い受験勉強からようやく解放された私は人生最初の大きな喜びを迎えた——北京大学に合格したのだ。その最高の気分に浸っていたある日の深夜、トイレに行く際に両親の部屋から二人の声が漏れてきた。
「本当に大学に行かせるの?」
「北京大学だぞ」
「お金、どうするの?」
「借金できるところを探す。行かせないと我々も後悔する。親としての責任がある」
白血病の姉の治療代で莫大な借金をしていた両親が私の大学進学でどれほど苦労したのだろうか。私の人生で「北京大学」のレッテルは何度も大いに役立ったが、実は両親の苦労のおかげだったとつい最近わかってきた。家計がいっそう苦しくなるのを隠して、学資を都合つけ、明るい表情を見せていた両親の顔が今でも鮮明に脳裏に焼きついている。
こうして人間の「楽」には常に煩悩がついてまわることを覚えた。中国には古くから「人生の四大喜事」を挙げた詩がある。
久旱逢甘霖、 長い旱魃に恵みの雨にあい、
他郷遇故知。 他郷で旧知の仲間とあう。
洞房花烛夜、 花蝋燭で照らされた新婚の夜、
金榜題名時。 最上級の科挙試験に合格して「進士」となる
「喜び事」は人それぞれで、「四つ」とは限らない。しかし、それぞれの喜び事での「楽」(幸福感)は永遠に続くのだろうか。喜び事は次の喜び事を呼ぶのだろうか。
そもそも、上記の詩に見える喜びは長い旱魃という煩悩がそれまであったし、異郷で旧知に会った喜びは異郷での煩悩が大きかったからではないのか。「洞房花烛夜」は確かに至福の瞬間だが、その後の長い夫婦生活ではむしろ苦い記憶だけが残されてしまうかもしれない。「金榜題名時」もその時は輝く未来を思い描くが、職を終えた時、「悔いなし」と胸を張って言える人はどれほどいるのだろうか。
わたしたちの日常生活でも「期待が大きいほど失望も大きい」とよく言われるし、大きな喜びや幸福感の後の「虚無感」を味わったことのある人は少なくないだろう。
人生には「楽」と「煩悩」がありそうだが、煩悩は常についてまわるようである。では人間の「煩悩」はどこから来るのか?「煩悩」の根源とは?
「煩悩」は「求不得」、つまり「求めてもなかなか得られない」からで、もっと簡単に言えば「欲」があるからで、それについてはすでに紹介した。
では人間の「欲」はどこから生まれるのか? ずばり「我執」である。すなわち「我への執着」である。「我」があって、「我」が食べたいし飲みたいし、「我」は生活しなければいけないし、「我」は社会に認められたいし、「我」の存在価値も考えなければいけない。「我」が常に存在し、「我」は常に意識の中心にある。まさに「我への執着」である。この執着は人間は生まれながらに持っていて「俱生我執」ともいう。また、「我執」は常に意識の根底にあるため第七意識・末那識ともいう。
「我執」の別称である「末那識」は第七番目の意識の意であり、人間には他に「六識」があるとされている。すなわち「眼、耳、鼻、舌、身、意」という六つの身体器官の「六根」があり、「六根」によって物質世界から感知する「色、声、香、味、触、法」の「六境」があり、「六根」「六境」に基づく認識思惟を「眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識」と言う。これが「六識」である。そして「六根」「六境」「六識」を合わせて「十八界」という。
人間の諸「識」をまとめると下表の通りになる。
前五識 眼識
耳識
鼻識
舌識
身識
第六識 意識 心理学で言われる潜在意識もこの第六識に含まれる
第七識 我執 俱生我執、末那識とも言う。
我々は眼、耳、鼻、舌、身(感触など身体全般)で外部世界と接触して知識、経験、教訓などを得て、自分の(第六)意識(思想)を形成する。
「美しい、綺麗(声)、芳しい、美味しい、素晴らしい(感触)、最高(気持ち)」などの言葉には楽しさが感じられる。一方で「醜い、騒々しい、臭い、まずい、きもい、最低」といった対義語もある。前六識の概念から見ても、やはり人生に煩悩はついてまわっている。
人間は「六根」を通じて、多様な生活習慣を身につけながら成長していく。しかし、その生活習慣にはそのほとんどに何等かの反作用がついてまわる。いくつか「目に見える」例を挙げてみる。
甘いもの→虫歯、糖尿病など。
暴飲暴食、運動不足→生活習慣病。
ゲーム、テレビ、読書など→視力低下。
姿勢が悪い→腰痛など。
過激過剰の運動→関節ダメージ。
習慣的エアコン利用→免疫力の低下。
一般的には良いとされている習慣でも過度になると反動が生じる。
毎日のシャンプーとボディウォッシュ→髪と皮膚へのダメージ。
食品の衛生管理→胃腸免疫の低下。
このような生活上の習慣を長年積み重ねると、身体が悲鳴を上げ始め、「健康維持」のためにこれらの「習慣」を徐々に取り除かなければいけなくなる。程度の差こそあれ誰でも経験する現象だと言えるだろう。つまり生活をするとは何等かの煩悩と戦うことなのだ。
上述した身体の「現象」は目に見えるが、私たちの思想・意識、信念・信条、さらには社会的価値観など目に見えなくても同じだと思われる。
人間は成長する過程で多様な「意識」を取り込んでいく。金銭への欲求、地位への愛着、面子への拘り、人間関係への努力と重圧、名誉への固執、子孫や家系隆盛への責任、社会貢献への野望、そして、社会順応への工夫など。また、美徳意識、善悪意識、恥意識、罪意識、願望意識、幸福意識などなど、数えきれないほどの「概念」が入ってきて、がんじがらめにされてしまうかのようである。
身体の生活習慣病のような反作用は「見える」が、「思想・意識」の反作用は見えない。ただし、「見えない」=「存在しない」ではない。見えないからこそ、いっそうストレスがたまり、憂鬱さが増すことになる。
煩悩のない「人生」を手に入れるには、やはり根源にある「我執」を取り除く必要がある。少なくとも理屈上は。ちなみに、我執は「俱生」の性質を持つので、生まれつき、言い換えると生まれた瞬間に誕生したものである。つまり、前の六識が作動する前にすでに存在しているのである。
大学教員
(2025.4.20)
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