【北から南から】フランス便り(20)

主流派経済学の誤謬
~制度派経済学の鬼才オルレアン教授の徹底批判~

鈴木 宏昌


 しばらく前に書店で買い求め、私の机の上に置かれていたオルレアン教授の『価値の帝国』(A. Orléan, L' empire de la valeur, 2011)という本を読んだ。オルレアン氏は、著名な制度派経済学者だが、貨幣論と金融に通じた専門家なので、何かの折に読んでおこうと思っていた。本の題名が抽象的なので、これも貨幣論の一種かなと考えていたが、読み出してみると、主流派経済学の土台にある市場や個人の経済行動の仮説を深く検討したすばらしい研究だった。ピケティの『21世紀の資本』とは異なり、かなり抽象度が高い専門的な本だが、言葉の問題もあり、日本では、オルレアン氏の名前を知っている人も少ないので、この本を紹介する意義があると思い、今回のテーマとした。

 なお、主流派経済学とは、1970年代からアメリカの経済学会を支配しているシカゴ学派を中心として、合理的な経済人を想定した精密なミクロ分析をその基盤とする。規制緩和、市場の効率性がその政策的命題となる。ヨーロッパや日本の経済学会もアメリカ経由で、主流派経済学が主要な地位を占めるようになっている。ちなみに、経済学のノーベル賞(スウェーデン銀行が最近作ったもの)は、ほぼすべて主流派経済学に属する人に与えられている。IMF、世銀、OECDといった国際機関もこの経済学者が主要ポストを占め、自由経済の旗振り役を果たしている。規制緩和、市場開放の流れは、アメリカ、イギリスから始まり、現在では、EU諸国全体に及んでいる。

 オルレアン氏は、フランスが誇る官庁出身エコノミストの集団であるレギュラシオン学派(M.アグリエッタとR.ボワイエが創始者で、マクロレベルの経済危機の研究が有名)と、ミクロ分析を得意とする「コンヴァンシオン」学派(社会集団の慣習や制度に着目する)にも属する制度派経済学者である。理系のエリート校であるポリテクニックを出た後、フランス経済統計局(INSEE)に入省、そこで、レギュラシオン学派の創始者の1人であるアグリエッタ教授(現在では古典の『規制と資本主義の危機』1976年の著者)に遭遇、経済統計局を去り、研究者の道に入る。現在は、社会科学高等学院(EHESS)教授、フランス経済政策学会会長を務める。

 アグリッタ教授との共著『La violence de la monnaie』(貨幣の暴力、1982年)は、貨幣の経済的な役割や影響を分析した名著として高い評価を得ている。その後、オルレアン氏は制度派経済学のもう一つの流れである「コンヴァンシオン」のグループとともに活動を行い、経済学、社会学、哲学、人類学など広く学際的な方向へ向かう。教授の主な専門領域は、貨幣、金融だが、次第に経済学の理念そのものを問いただすことに活動の軸が移った様だ。その一環として、ワルラスやフォン・ミーゼスの古典に関する論文を書いている。最近では、2008年の経済・金融危機の分析を行い、金融経済は、根本的に不安定な予測の上に動いていることを指摘した。そして、たどり着いたのが、この『価値の帝国』で、主流派経済学は独立した個人を理想モデルとしているが、その「経済人」の持つ「価値」はまったく検証されていないと氏は主張する。経済活動の主体である「個人」は、様々な制度の影響を受け、その価値意識も一定の社会制度の中で形成され、その上で行動する。社会との接点を無視する主流派経済学は空疎な迷路に入り込んでいると考える。30年以上にわたり、黙々と思索にふけってきたオルレアン教授の近著は、フランス制度派経済学がたどり着いた一つの到達点である気がする。少々専門的になるが、この本の中身を紹介してみよう。

●経済学とモノの価値
 この本は、3部から構成され、第1部で主流派経済学の基本理念を徹底に検討する。第2部では、価値の制度である貨幣の役割を強調した後、経済学の再構築のための枠組みを提案する。第3部は金融市場における価値と効率のあり方を議論している。

 個人的には、第1部の主流派経済学の基本理念の検討が興味深かった。オルレアン教授は、まず経済学におけるモノ(商品)の価値に着目する。伝統的に、経済学の出発点は、すべての商品はそれ自体に一定の価値があると考えられている。その価値の尺度として、古典派経済学(アダム・スミス、リカルド、マルクス)は商品の生産に必要な「労働」と考えたのに対し、新古典派は、消費者の立場から、個人の満足度(効用)と考えた。後者の場合、個人(合理的な経済人)は 自分の満足が最大化するように様々な商品を購入する。商品の価格は市場における需給関係で変動する。合理的な経済人は、価格の上がった商品の購入を減らし、相対的に安い商品をより多く購入することで、満足度(効用)を最大化する。つまり、合理的な経済人は、先見的にそれぞれの商品の本来的に備わっている価値を知っていると想定されている。

 ここで、オルレアン氏は驚くべき反論をする。商品の価値は客観的に存在するものではなく、消費を行なう個人の主観で定められると考える。個人の価値判断や行動は、一定の社会の中で他人を「模倣」することで一般的に形成される。言い換えれば、商品はそれぞれが価値を保有しているのではなく、個人の価値観により商品の価値や満足度が定まると考える。
 この主張の裏づけに、オルレアン氏は、新古典派の頂点であるワルラスの一般均衡モデルを細かく検証する。ワルラスは19世紀後半にローザンヌ大学で活躍した数理経済の創始者で、彼の関心は、無数にいる個人が自分の満足度を最大化する行動をとったときに、どうすれば経済全体の資源配分の最適化がなされるのかを数学的に解明しようとした。様々な市場における需給関係が価格メカニズムにより円滑に推移すれば(完全競争の世界)、個人はその価格シグナルを受けて、効用の最大化する消費活動を行なう。経済全体においても、それは資源が最適に配分された一般均衡に達するという命題を立てた。このワルラスの一般均衡モデルは、20世紀後半に、ケネス・アロウやドブルーにより定式化され、現在の主流派経済学の基本を形成することになる。
 このワルラス・モデルに対し、オルレアン教授は多くの点で非現実的な暗黙の前提があることを指摘する。

●「個人の選好」
 消費者は、Aの商品の価格が高ければ、相対的により安いBという代替物を購入すると想定されている。つまり、個人は先見的に自分の選好順序を認識していることになる。これも、商品自体が価値を持っているという想定から来る。さらに、商品がすべて同質的で、一定の価格で交換されるという想定も非現実的である。一定の商品が一定の価格で売れるためには、質の同質性が担保されなければならない。

●「経済人の自己完結性」
 ワルラス・モデルでは、価格のシグナルがあれば、それに応じて個人は消費パターンを変え、効用を最大化させる行動をとる。これは、結局、自分の判断のみで消費パターンを変えることになり、まったく市場でのやり取り、あるいは他人との接点などは必要なくなってしまう。経済活動の本質は、消費者と生産者といった相手のある社会的行為なので、ワルラスが想定する独立した経済人は間違っている。

●「価格調節のメカニズム」
 様々な市場における価格は需要と供給で決まるとされるが、無数の消費者および生産者がどのようにして正確な情報を得るのだろうか? とくに、様々な商品の質が異なるときに、どうして消費者および生産者はそれぞれの商品に関して正確な情報を得るのだろうか? 結局のところ、公的競売人のような公的サービスが商品の質の保証と需給の調整を行なわなければ、完全競争の状態で、一般均衡は達成できない。個人の満足の追求が、全体として、最適な資源配分を行なうという想定と公的介入の必要は矛盾している。

 このように、ワルラス・モデルの限界を指摘した上で、オルレアン氏は経済活動における貨幣の役割を強調する。ワルラスにおいては、貨幣はなんらの機能を持っていないが、現実の社会においては、おカネ(貨幣)こそが価格メカニズムの根底にある。人は満足を得るためにおカネを重視するのではなく、おカネそのものを得るために経済活動を行なうと考える。おカネがあれば、様々の商品をいつでも購買できる。そのおカネを得ることを経済活動の目的とすれば、新古典派が想定するような、モノが本来的な価値を持つと想定する必要はない。
 おカネは、信用をベースにしている。ある社会で、おカネに対する信用がなくなれば、その価格調整機能はまったくなくなり、市場は大混乱におちいる。このように、市場で商品の売買が円滑に行なわれるのは、おカネが信用を得ていて、公的競売人の代わりに機能しているからとオルレアン氏は主張する。
 さらに、氏は、社会の中での集団の役割を強調する。人類学およびデュルケイムの社会学を引用し、価値の認識はおかれた社会の風習、信仰に影響を受けると考える。経済人が価格のシグナルのみで、経済活動を行なうと仮定する経済学は独断的で、他の社会科学と相容れない。むしろ、他の社会科学と同様に、市場での取引を社会現象ととらえ、分析することが必要とオルレアン氏は主張する。

 第3部では、氏は、グローバル化された現在の金融市場において、需給のメカニズムがまったく機能せず、金融関係者は独自の評価基準を用い、効率の概念とは無関係であることを検証する。格付け会社は、金融関係者の多数が考えている方向で企業を評価する。どんなに金融工学の数学的ソフトが進歩しても、将来予想には「不確実性」が含まれ、金融危機はいつでも発生する可能性があることを示す。

 以上が、私が読んだオルレアン氏の著書の要点である。ともかく、スケールの大きい著書であり、オルレアン教授の教養の深さに感心した。
 オルレアン氏の唱える社会学との融合は難解な部分も多いが、主流派経済学への徹底批判は強烈である。現在の経済学は、合理的な経済人を想定したモデルを設定し、その仮説の上で検証を繰り返すが、モデルの元になる経済人、商品の価値説に異を唱え、人が効用の最大化を求めて行動する前提がが間違っていると主張する。したがって、市場原理に任せれば、資源の最適配分がなされるという仮説はまったく検証されていないとする。もともと、ワルラス・モデルが示しているものは、現実の社会の分析ではなく、到達すべき理想の世界である。したがって、完全競争の市場に任せ、あらゆる規制を排除すれば理想の一般均衡に到達すると言うテーゼはまったく検証されていない。社会学、人類学などの他の社会科学が、社会事象としての人間関係や社会行動を客観的に分析、検証する方法をとるのに対し、現在の経済学は、検証されていない理念を到達すべき目標として、多くの無意味な数学的モデルとその検証に明け暮れていると厳しく批判する。
 周知のように、経済における自由主義は、ここ30年以上、世界の主流となり、規制緩和、市場開放が合言葉になっている。国の規制を排除し、市場に任せれば、より効率の高い資源配分がなされ、経済成長がもたらされるとする。ところが、オルレアン教授は、規制なき市場が効率的であることは、まったく検証されていないと考える。果たして、「経済人」「効用の最大化」という検証できない理念を使うことなしに、主流派経済学は市場経済の優越を実証できるのだろうか?

 オルレアン教授は、現在、フランス経済政策学会の会長という立場で、フランス経済学界の門戸を開こうとしている。フランスの経済学会の現状は、日本と似ていて、アメリカで勉強したミクロ経済の応用が主流を占め、大学のポストをほぼ独占している。日本と異なる点は、大学教授の資格要件であるアグレガシオンの試験そのものが中央化され、ミクロ経済の問題が主なので、手法の異なる制度学派からは、アグレガシオンが通過できない仕組みとなっている。わずかに、オルレアン教授やボワイエ教授のように一般大学の外部にあるグランゼコールや特殊な大学院大学あるいは国立科学研究所のみが制度派の拠点となっている。オルレアン教授は、制度派が結集する「経済政策学会」の会長を務め、経済学の多様化への音頭をとっているが、情勢は厳しいようだ。  2016年5月16日、パリ郊外にて

 (筆者はパリ在住・早稲田大学名誉教授)


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