【人と思想】
■今こそ田沢精神の継承を 富田 昌宏
~政治教育、選挙粛正に生涯をかけた男~
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一、風は冷たいが、天気はいい、青年の父田沢義鋪(よしはる)に学ぶ
難しい課題に遭遇すると、私は原点に立ち戻って考える。私にとって原点とは、
心の師田沢義鋪である。田沢は明治神宮外苑にある日本青年館の生みの親であり、
私はここで二十数年間働いてきた。
この建物は、大正14年に全国青年団員一人一円拠金によって建てられたもの
で、当時政府の補助金や財界の支援をまったく受けず、文字通り青年運動のメッ
カとして70余年の風雪に耐えてきたのである。その建物も老朽化し、昭和54
年に再び全国の青年団員の募金を基金として新築された。地上9階、地下3階の
旧に倍する建物として生まれ変わったのが、現在の日本青年館である。総工費は
54億円。
田沢義鋪は戦前、戦中の激動期を青年と共に歩み続け、大臣のポストを断って
青年教育と選挙粛正運動に生涯をかけた。日本青年館理事長、選挙粛正中央連盟
理事長、東京市助役などを歴任し、1933年に貴族員議員に勅選された。その
間、青年団の自主性を守るため、団を利用しようとした軍部に抵抗しつづけたの
である。
最後の抵抗は、1940年に国会で軍部を批判したために議会から除名された
斎藤隆夫の応援演説で、「日本は日清・日露戦争後、中国やロシアを軽蔑し横暴を
きわめた。それがどうして大国民になれるのか」と内務、文部大臣につめよった。
拍手の終わるのを待って登壇した米内総理大臣は、謹厳な面持ちで、政府には干
渉するがごとき考えは毛頭ない旨明言した。
だがこの明言は、事実上何の役にも立たなかった。当時軍部の圧力は、議会の
みならず、政府もまた無力化せしめていたのである。
そして太平洋戦争末期の1944年、全国を行脚して青年たちと語り、その年
の3月、四国の名刹善通寺の奥殿で、四国各県の中心的指導者に向かって日本の
敗戦を予告し、戦後の祖国再建に言及、演説半ば脳溢血で倒れ、その年の11月、
永遠の旅に立った。59歳であった。当時何人もなし得なかったこの勇気ある発
言を実現すべく、戦争集結直後に『よしはる会』が結成され、1952年に『財
団法人田沢義鋪記念会』へと発展し、今日に及んでいる。私も20数年間、田沢
精神の普及につとめ、うち10年間は常務理事として活動をさせていただいた。
10数年前の田沢会総会の折、下村覚氏が一つのエピソードを紹介した。それは
父親である下村湖人(『次郎物語』の著者)に、田沢の人間像を問い質したことへ
の、湖人のひとりごとだった。湖人は風の吹き荒れる庭を窓越しに眺めながら「こ
んな日、我々凡人は”天気はいいが風が冷たい”と言う。田沢先生はきっと”風
は冷たいが天気はいい”と言われるに違いない」と。 冷たい風の中に立てば誰
しも、天気がいいという本質を見落として、風が冷たいという目先の現象に気を
奪われ、不満を口にする。田沢は違っていた。ものごとを常にプラス志向で捉え、
人生を明るくみていた。たぎる情熱の底に透徹した知性が働き、その知性は現実
を的確につかみ、将来を見通していたのである。
21世紀を生きる私は、残されたこれからの人生を”風は冷たいが天気はいい”
を心に刻みながら生きたいと思う。
二、ライフワークは「道の国日本の完成」
-青年の父・田沢義鋪-
田沢は明治42年に東大の政治学科を出た翌年、25歳で静岡県安倍郡の郡長
となった。郡主催の懇談会に青年団の代表を招いたことが縁となり、青年団との
生涯のつきあいがはじまった。青年たちとつき合って感じたことは、当時の日本
の教育は一握りの大学生だけを相手にし、働く青年に教育、学習の場がまるでな
い、ということだった。
そこで大正3年、静岡県の蓮永寺で青年25名の1週間の宿泊研修をこころみ
た。昼は郡長の仕事をし、夜は青年たちと話し合った。日本における”共みがき”
を基調にした本格的な宿泊研修のはじまりである。キャンプを張っての一夜研修
も田沢のアイデアで、わが国におけるキャンプ研修の先駆けであった。 やがて
田沢は内務省に戻り、明治神宮ご造営の総務課長に抜擢された。30歳であった。
明治神宮造営事業は大正3年に開始、9年に完成するが、この間物価が高騰し、
労力が不足して行き詰まる。田沢は青年団の勤労奉仕を提案したが、当時の役人
は青年団を信用せず、「遊び半分でやられてはたまらぬ」と反対。田沢は「一日だ
けでも」とねばる。その結果、蓮永寺の合宿仲間50人が上京し10日間の奉仕
を行った。昼は人夫の1.5倍の能率をあげ、夜は学習会。かくて全国各地から
青年たちがこの事業に参加した。むこうの築山は青森、こちらの池は鹿児島、そ
こで汗を流しているのは岡山と、一回に3団くらいで、総計28団体、
1万5000人がこの事業に参加した。この事業はバラバラだった田舎の青年団
が全国規模に成長するきっかけをつくった。
神宮完成を機に、青年の殿堂をつくる話がもち上がった。団員一人ひとりが禁
酒・禁煙や縄ない等で一円ずつ拠金し、政府や財界からは一円の援助もなしに完
成したのが日本青年館であった。大正14年に完成したこの館は、当時最もデラ
ックスな建造物で、昭和初期には日比谷公会堂とともに、外国からのオーケスト
ラ公演などがここの大ホールで催された。
日本青年館の開館式で田沢は「道の国日本の完成」と題して記念公演を行った。
現代流にいえば、日本の将来は道義国家、文化国家、平和国家の完成にあるとい
う主旨である。これには伏線がある。
東大卒業前の休暇に田沢は朝鮮、満州(現在の中国東北部)を旅行した。その
時彼は、戦勝をカサに着た日本人の傲慢さと、中国人に対する非人道的な取り扱
いにいきどおり、日本民族の一人として自分が持っていた誇りと自信を失った。
旅行の結論として、
-海外発展、それが何だ。もし日本民族の情感と道義がこのままであるとするな
らば、それは発展どころか恥辱の拡大であり、民族的怨恨の種子をまき散らかす
にすぎないではないか。それでは地図の上ではどんなに発展しようとも遠からず
国の基調が揺らぐであろう。道義なくして何の国家だ。日本は東洋のならず者に
なってはならない。そのためには、今何よりも大事なことは国民性を人類的、世
界的立場に立って矯正することだ-
と書いている。この思想を具体的、理論的にまとめ上げたのが『道の国日本の完
成』である。
ただ田沢に心配なことがあった。青年館が完成し、ここが青年団の本部と思わ
れては困るということだった。日本青年館や大日本連合青年団はあくまでも連絡
機関で、青年団の本拠地は地域にある、というのが田沢の信条で、その本質を説
いた『青年団の使命』を書き、全国に配布した。とくに警戒したのは、政党によ
る利用やマスコミ、商売による利用だった。
戦前の青年団も、最後には戦力として利用されることになるが、田沢はそれに
抵抗して軍部に狙われ、ついに青年指導の現場を追われてしまったのである。
三、郷土そのものを錦にしたい
-地方自治の源流-
田沢義鋪は大正15年7月、丸山鶴吉の後をうけて日本青年館と大日本連合青
年団の常任理事をつとめ、昭和9年11月、推されて理事長に就任した、辞任は
11年4月であった。辞任の理由は、在任久しきにわたって彼の個人的色彩が青
年団にしみこんでしまうことをおそれたからである。「田沢あっての青年団」とい
う世間の評価に大きな苦痛を感じていた。
青年団に没頭したこの10年間、田沢は青年団綱領の制定、一人一研究と共同
研究の奨励、青年団講習所の開設、調査部の設置拡充など青年団強化の施策を次々
と打ち出し実践した。
特に力を入れたのは郷土振興のための布石であった。しばしば郷土振興講習会
を全国各地で開いた。それはあくまでもその地域の実態、特性に即して行われた。
静岡県焼津青年団の船上講習は一つの事例である。この講習は漁業関係者の協力
の下に、青年団員を乗員とし、中央の講師も一緒に乗り込んで漁場までの往復を
利用して講習、その他の事業をやるという仕組みである。今の洋上研修と地域起
こし運動を兼ねたものといえよう。
昭和6年から日本青年館分館の浴思館に創設された『青年団講習所』は、当時、
軍国主義的傾向が強まり、このままだと青年団の自治の芽が摘み取られてしまう、
それを防ぐには内部リーダーの養成が必要との田沢の考え方ではじめられた。当
初、青年団指導者養成所と称したが、指導者意識を植えつけてはならないという
配慮から名称を改めた。ここにも田沢の細心の配慮をみることができる。
所長には田沢の親友、下村湖人が就任した。友愛と創造を基調にした講習所の
内容は、湖人の名作『次郎物語』第五部にそのまま描かれている。小説の中に出
てくる田沢理事長のモデルは田沢であり、開講式で次のようなあいさつをしてい
る。
「錦を着て郷土に帰るというのは古い時代の青年の理想でありました(中略)。し
かし、錦を着て帰る人が幾人ありましても郷土は依然としてぼろを着なければな
らない事情があったのであります。今後の日本が切に求めているのは断じてそう
した立身主義者ではありません。じっくり腰を郷土に落ちつけ、郷土そのものを
錦にしたいという念願に燃え、それに一生をささげて悔いない青年、こうした青
年を輩出してこそ真に輝かしい生命の力にあふれるのであります」。 この考え方
は青年団と青年館を支える基本理念であり、青年団出身の竹下元総理の”ふるさ
と創生”や”地方の時代”、”地方分権”の源流ともいうべきものである。
下村湖人は晩年、田沢の生涯とその精神を描いた『この人を見よ』(昭和30年
発行)の序文で、「明治以降で真に尊敬に値する人を数多く知っている。その中か
ら3人を挙げよというならば、私はちゅうちょすることなく、福沢諭吉と新渡部稲
造と、この書の主人公である田沢義鋪とを挙げるであろう。その中から一人とい
われるならば、私は敢えて田沢義鋪の名を挙げたい」と書いている。
30年後に発行された新紙幣で福沢と新渡部は一万円と五千円の肖像となった。
これは偶然ではない。湖人の眼力が30年後を見通していたからであるが、千円
札は田沢でなくて夏目漱石であった。自己宣伝を嫌った田沢の信条を垣間見るこ
とができる。
四、選挙浄化で全国行脚
-選挙粛正を一大国民運動に-
関東大震災後の大正12年10月、田沢は自宅に増田作太郎、橋本清之助、妹
尾幸二、坂本到に集まってもらい、政治教育を使命とする新政社の創立の構想を
打ち明け、四人の協力を求めた。事務局を自宅の一室に設け、新春を期して月刊
誌『新政』を創刊する準備をはじめる。『新政』の創刊は大正13年1月1日であ
った。
田沢は『新政』第4号に「選挙粛正の機関をつくれ」と題して表題論文を発表
した。この論文が現在の”明るく正しい選挙運動”の最初の提唱であった。そし
て後年、天下をゆり動かした選挙粛正運動のスタートでもあった。
この年、田沢は静岡県の青年たちにせがまれて3区から衆議員に立候補した。
青年たちが手弁当で田沢をリヤカーに乗せ、演説会を回るという理想選挙であっ
た。結果は僅かの差で次点だった。この体験が選挙粛正運動を決意させる導火線
となったのである。
選挙に落選した田沢は、広く国民の政治教育運動に没頭する。そして七月には
我が国で先例のない政治教育講習会を開催する計画を樹て、それを全国に発表し
た。
第一回の政治教育講習会が芝の増上寺で開かれたのは大正13年10月25日
から月末までの5日間、会員は全国3府25県からはるばる上京した42名で、
いずれも地方の篤志家や名望家であった。
この講習会は実は田沢と後藤文夫の両人によって計画されたもので、講師陣は
田沢と山下信義が中心となり、法学博士穂積重遠、経済学博士大田正孝、朝日新
聞編集長鈴木文史郎等がこれを助け、課外講師として、床次竹次郎、後藤新平、
湯浅倉平等の大物が参加した。みな田沢の運動への共鳴者であった。
田沢が実践した政治教育講習会は、やがて地方庁や公共団体でも積極的に計画
されるようになっていく。
中央での講習会と同時に政治教育、青年教育と選挙粛正の重要性を説く全国行
脚、講演の旅がはじまった。一か月間に東海道線を何回となく往復することもめ
ずらしくなく、自宅に寝るよりも寝台車に明け暮れする方が多かった。当時の行
脚日記にはこんな一文がある。
<七月の旅は、月見草とあじさいの旅であった。八月の旅は、東京から北に向
かえば合歓の花と百日紅の旅であった。西に向かえば夾竹桃の旅である>
この旅は、東京市助役を勤める二年間を除いて続行された。
当時、政治の腐敗は極に達していた。選挙に金がかかることが主因だった。田
沢は選挙粛正同盟会を結成し、具体的な運動を開始した。会員は次の二箇条を誓
約実行することとした。
1.選挙に際しては他人の請記依頼によらず、自己の所信に基づいて投票するこ
と。
2.自己の投票する候補に対し、その選挙費用として金40銭(或いはそれ以上)
を負担すること。
また、大正末期から昭和12年のころまで田沢は政治教育、選挙粛正や地方自
治に関する著書を相次いで出版した。その中には全国市町村に数万部が配布され
るものもあった。
田沢のこうしたねばり強い努力は、ついに昭和10年、岡田内閣に至って一応
の結実をみた。内閣は重要施策の一つとして選挙粛正を取り上げ、各府県に選挙
粛正委員会が設置され、一大国民運動へと発展した。田沢は民間団体で構成する
『選挙粛正中央同盟』の第二代理事長に就任し、運動の徹底化につとめた。その
努力は会が解散する17年6月までつづいたが、12年に日中戦争、16年には
太平洋戦争へと突入し、軍事色に塗りつぶされた当時の状況下では十分な成果を
挙げることは至難であったと推測される。
それから60余年が経った。政治と選挙に金のかかる悪弊は改善されていない。
かてて加えて小泉型劇場政治にまどわされて、政治をワイドショウ化する風潮が
強まった。こうした中で安倍新内閣が発足した。真っ先に取り上げたのが教育基
本法の改正であり、それは九条の根幹を否定した憲法改正への導火線であること
は明らかである。
『九条の会・栃木』では早速教育基本法改正をテーマに講演会を開き、『大平
山麓九条の会』でも広報紙で憲法と教育基本法の関連についての第一報を配布した。
時は移り、時代は変わっていくが、田沢が提唱した「道の国日本の完成」や、
「郷土そのものを錦にしたい」という呼びかけは今も生きている、否、生かされ
なければならないと思う。あえて『オルタ』誌上をお借りして、田沢義鋪を取り
上げた所似である。
(尚この一文は2002年の『杏冥庵だよりNo.9』の誌上に、故久保田忠
夫さんの求めに応じた拙文を加筆訂正したものである)。
とみた・まさひろ
(財)日本青年館元常務理事、(財)田沢義鋪記念会元常務理事)
★ 田沢義鋪(よしはる)略年譜
1885(明治18)年7月20日、佐賀県鹿島市で父義陳、母すみの長男として生る。
1900(明治33)年、鹿島中学校卒業。
1901(明治34)年、第五高等学校入学、ボート選手。優勝祝賀会で飲酒したこ
とで退学処分を受け福岡で教師をしていた姉に引き取られる。1902(明治35)年、
後藤文夫らの復学運動が功を奏して復学。
1905(明治38)年、東京大学法科大学政治学科入学。
1909(明治42)年、東京大学卒業、文官試験合格。
1910(明治43)年、静岡県属、安倍郡長となる。
1911(明治44)年、結婚。
1915(大正4)年、内務省に入る。明治神宮造営局総務課長となる。
1922(大正11)年、第四回国際労働会議(ジュネーブ)に労働代表として出席。
1923(大正12)年、大震災直後「天災避け難く人禍免るべし」の論文発表。
新政社創立。
1924(大正13)年、東京市助役に就任。
1925(大正14)年、日本青年館開館式に「道の国日本の完成」と題して記念講演
を行う。
1926(昭和1)年、東京市助役辞任。
1929(昭和4)年、壮年団期成同盟結成。
1930(昭和5)年、青年団について天皇にご進講三度。
1933(昭和8)年、貴族院議員に勅選される。
1934(昭和9)年、大日本連合青年団理事長に就任。同時に日本青年館理事長兼務。
1936(昭和11)年、広田内閣に内相として入閣を求められたが辞退。
1937(昭和12)年、選挙粛正中央連盟理事長に就任。
1942(昭和17)年、貴族院予算委員会で、東条首相と橋田文相に「時局下文教の基本
方針」について質問。
1944(昭和19)年3月、四国善通寺における地方指導者講習会で敗戦を公言。
脳出血で倒れ、同地で静養中、11月24日逝去。59歳。
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