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  今井 正敏
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オルタ13号に加藤編集長の盟友富田昌宏さんが終戦後4年目の1949年(昭和24年)に、当時GHQの新聞課長であったD・C・インボーデン少佐が(財)日本青年館発行の機関誌『青年』の記者インタービューに応じて語った『二宮尊徳を語る』ー新生日本は尊徳を必要とするーの全文(『青年』に掲載)を紹介されている。

これを角度を変えて次のような視点から読むとGHQの日本占領政策そして二宮尊徳研究に大きな足跡を刻んだ一文だと思われる。

(1)インボーデン少佐のことを知っているのは70歳以上の人と思われるが、彼は強烈な反共主義者で占領期間中、日本のマスコミ(新聞・雑誌・NHKラジオなど)に君臨し、その絶大な権力を駆使し、軍国主義の一掃、民主化の推進、反共思想の導入、レッドパージの強行などで辣腕を振るったことで知られている。加藤編集長も編集後記で「彼が当時の学生から激しいブーイングの的にされた」と書かれ、この間の事情を物語っている。

(2)彼が多忙な業務のかたわら、これだけの二宮尊徳研究をまとめ『尊徳・二宮金次郎こそは近世日本の生んだ最大の民主主義的なーー私の見るところでは世界の民主主義の英雄、偉人と比べていささかの引けをとらないー大人物である』とまで言わしめたのは二宮尊徳の偉大さもさることながら、彼の人物を見抜く目、日本の歴史上の人物を研究する力が単なる一米国軍人、プライドを身上とする占領当事者としての域を超えていたと思われる。

(3)昭和24年当時の日本における二宮尊徳の評価は、戦前、戦中の国定教科書のなかで登場率一番、全国の小学校に銅像が建てられ、「手本は二宮金次郎」と唱歌に歌われ、二宮金次郎こそ日本人の手本として教えこまれていたので、戦後はその反動として教科書から消え、銅像は撤去され、学校でも教えなくなっていたので二宮金次郎のことを知る機会は非常に少なくなっていた。こうした中でGHQの権力者が「日本人の誇り」であると絶賛したのだから驚きを禁じえなかった。

(4)このインタービューを載せた雑誌「『青年』は主な読者が農漁村の青年層であり、戦前は発行部数も100万を超えるという有名な雑誌であったからインボーデン少佐もインタービューに応じ、祖国日本の再建に汗を流している青年に「ひとり富士のごとく孤高を描く二宮金次郎こそ、日本の現状において再認識すべき第一の偉人である」という熱いメッセージを送ったものと理解したい。

大規模な市町村合併が全国的に進行し、地方分権が声だかに叫ばれている動きの中で私達に、色々な示唆をに与える二宮尊徳に関する記事を載せた「オルタ」に感謝したい。