【コラム】
1960年に青春だった!(10)

仏文学教授も英文学教授も酒臭い文士だったのはなぜ

鈴木 康之

 高校一年生のある日、隣のクラスのおさげ髪から新潮文庫のアンドレ・ジード『狭き門』を手渡されました。これが思い違いの月日の始まり。
 勉強そっちのけにしてジード作品を6、7冊耽読しました。

 それはジードの福音に嵌まったからでも、おさげ髪との恋に狂ったからでもなくて。
 滋養分豊かな日本語がこんこんと湧き出る邦訳文に言葉の洗礼を受けた思いでした。
 新潮文庫を1冊読み終えると、別なジード作品が並ぶ巻末広告ページを眺めて余韻にひたるひとときが必ずありました。そのいずれもが新庄嘉章訳なのでした。

 早稲田の仏文学科で教鞭をとる主任教授でしたから、ボクの進路は早稲田の仏文一点張り。
 ところが甘い青年の人生は急峻隘路。早稲田の英文学科と仏文学科は気が遠くなるような応募倍率で、可能性はゼロ。

 そこで駄目もとで第二文学部という裏街道へまわりました。なんとか滑り込みましたが、たぶん合格者中のどん尻だったでしょう。
 しかしこの道、じつはこの先なしでした。二文に新庄教授の授業はなかったのです。

 人気教授の研究室は学生だけでなく出版編集者などもたむろしていてバーかカフェの体をなしていました。ボクは二文仏文の者ですがと断りつつ、新庄研究室に頻繁に隙間風のように入り込ませてもらい、顔と名前を売っていたつもりでした。

 ある夕べ、研究室に向かうと中からドアが開き、新庄さんがなんとフローベール、プルーストらの訳者で知られる京大仏文学の権威・伊吹武彦さんと出てこられました。

 新庄さんが「おお、君なんていったっけ」。覚えられていませんでした。「二文の鈴木です」「おお、呑みにいこう」。
 お二人はすでにして酒臭ぷんぷん、それが廊下に漂いました。

 早稲田通りを高田馬場駅近くまで歩き、戸塚小横の路地のカウンターバーに入りました。「浪漫亭」だったか「浪漫軒」だったか。

 止まり木に奥のほうから伊吹さん、新庄さん、ボクが腰掛けました。
 新庄さんはボクに話しかけ「おお、そうかい」と肩を抱いたり、ボクの返事に「おお、清々しくていいね」とか「おお、ご名答」とか背中をさすったり。

 先生の顔がボクのすぐ近くにある気配。ほどなくして頬に熱い触感。それがホッペにチュ、というオイタではなく、ぬるぬる濡らしながら、生温かく捺し続ける数秒間の「ベーゼー」。
 憧れてきた大先生の思いがけないオイタに、呼吸は乱れ、血は頭にのぼる。

 幸いボクの血液は頭には充ちてきても、股間には溜まってきませんでした。
 大先生はひとしきり「ベーゼー」をしては、グラスを口に運び、氷をカランと鳴らして、なんやらかんやら話して、そしてまた「ベーゼー」。ボクは升酒の塩か。

 ふと気がつくと、奥の止まり木にいたはずの伊吹先生がグラスを持ってボクの反対側に移ってきていて、同じオイタを仕掛けてきました。

 ご両所ともグラスの氷を鳴らすことも、なんやらかんやら話して仲良く頷きあう会話も、ときおりボクへのオイタも、お楽しみには等配分のルールがあるようでした。

 のちに仄聞したのですが、フランス文学東西の碩学、同席時の奇異な酒癖で、東京は高田馬場、京都は四条、五条で、多くの学生、若い編集者が濡らされたそうです。

 ボクはこの一夕でもう懲り懲り。研究室へ二度と近寄ることもなく早稲田を卒業しました。

 すでにジード、スタンダール、フローベールの人気は萎んでいました。フランス文学に限らず思想世界では実存主義という熱い波濤がうねっていたからです。
 二文の仏文科は40人弱。卒論テーマで一番人気は10数人がサルトル、二番人気がマルロー、4、5人いた女子学生は全員ボーボワール、実存主義が半数を超えていました。

 ボク1人が同じ実存主義の中でカミュでした。サルトル一派の「革命」の選択にはついていけず、カミュの「反抗」に寄り添えたのは、その源流は、悩ましく右へ左へと千鳥足のジードの考え方に親しんだからで、新庄さんのおかげかもしれません。

 ま、それはともかく、瑞々しい言葉がこんこんと湧き出る新庄さんの才人イメージは、焼き鳥屋居並ぶ路地の俗臭に紛れて消えました。

 早稲田界隈は昔日より文士たちの酒臭さが漂っていました。
 雑誌・早稲田文学の旧い記事にも、文学談義の中心には井伏鱒二がいて、丹羽文雄や火野葦平らも居並び、そしてそれぞれに文士たらんと競って耳そば立てる誰某や誰某や、そして大学教員の新庄嘉章がいた、とあります。

 誰某の中に英文科教授で、すでに文士として名の通っていた小沼丹さんがいました。井伏鱒二に師事し明治学院から早稲田に移り、芥川賞候補として名を挙げ、安岡章太郎、遠藤周作ら第三の新人群に続いていました。

 井伏鱒二のように何気ない日常の風景を描いて、掌編小説とも随筆とも呼べる飄々とした作品に仕上げる名手でした。大柄で丸顔で、穏やかな作風どおりの風貌でした。

 小沼さんにはボクが大学初日から通ったハモニカ横丁の小茶で顔を覚えてもらいました。

 小茶ではいつも一人客でした。それには訳があって、本来はハモニカ横丁のみち草のほうの常連なのですが、二回り以上も年上の文芸評論家・青野季吉さんと落語『笠碁』のような懲りない喧嘩友達。腹が立っている間は顔を見るのも悔しくてみち草には寄りつけない。
 その間、小茶でいっとき熱りを冷ますのでした。

 ボクが小茶で会釈できるチャンスはその間しかありませんでした。他の客の耳に邪魔になるお喋りは控え目にするのが小茶での呑み方。ですから言葉を交わせるのは、数少ない椅子にうまく隣り合わせになった時だけです。

 そういう機会に恵まれたとしても、英文学科教授であり、愛読していた作家でもある方に、二文仏文の学生分際が馴れ馴れしく話しかけられるものではありません。

 小茶に見えている小沼さんはご機嫌斜めの『笠碁』の人ですからなおさらです。
 仇を恋慕している最中、口をへの字にし腕組みをしています。その顔も胸元も大きく、とてもじゃありませんが声かけずらい存在でした。

 ある晩、「泉田くん、」と、ボクがペンネームで呼んでもらえる日が来ていました。

 ボクたちが立ち上げようとしていた同人雑誌の誌名の第一希望が、往年石川達三さんたちが使っていたものでした。その諾否を小沼さんを通して伺えないか当たってみたところ、数ヶ月前に石川さんがきている歌舞伎町の樽平に連れていってくれたからです。

 呑みこむ酒がチビリの割には、吐く息は大きく長く、溜息とかわらない、小沼さんのかなりの酩酊具合を表していました。
 「泉田くん、樽平に行かないか」、いきなりでした。
 小茶のおばちゃんがとびきりの笑顔を見せて「いってらっしゃい」と送り出してくれました。小沼さんにそう誘ってもらえる日が来たことを祝ってくれているのでした。

 小沼さんが足元不如意で、小茶の出口に大きな尻をぶつけたようでした。おばちゃんが「小沼さん、壊さないで」と笑って言いました。
 樽平に向かうには反対じゃないかと思うほうへ小沼さんの体はゆっくり向かいました。

 小茶からハモニカ横丁のその10数穴ほど離れたみち草の前で、小沼さんは不意に一瞬、仁王立ち、あたかも態勢を整えたつもりのように見えました。多分そうだったのでしょう。意を決したかのように薄暗い店に突入し、ボクにカウンター席に並んでつくよう指図しました。

 みち草は中央線沿線に住む武蔵野文士たちが集う別名文壇バー。ママの小林梅さんは洋服の人だったと記憶しています。

 ママがグラスをセットし終えて、かなり間をおいてから、いまさっきね、青野センセとなんとかチャンたちが、樽平に向かったみたい、いまちょうど着いたあたりかな、と、独り言のように話しました。
 「みたい」は嘘っぽい。小沼さんを気遣ってのことなのでしょうが、ベテラン・ママらしくない台詞まわしだと思い、記憶に残りました。

 樽平に行こうと誘った小沼さんがなぜみち草に向かったのか、なぜみち草の入り口で一瞬、仁王立ちしたのか、真意は分かりません。

 片や、一見鷹揚ながらなぜかナーバス、恵まれて育った大きな坊やのようにも観察できた三十代半ばの英文学科教授。片や、直接の面識はないけれど、筋金入りの社会主義理論家で知られた初老の人。
 この2人の知識人は喧嘩してこそ面白い出会いだったように思えます。

 こちらが異種犬の仲良しなら、フランス文学の碩学たちは同種猫の仲良しのごとし。

 やれやれ、それにしても、昭和の文士たちよ、あなた方は、あのころ、なにに抑圧されて、あんなに毎晩酒臭くなったのですか。

 (元コピーライター)

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