■【追悼】仲井 富氏

仲井富さんと公害問題研究会

中村 紀一

 1972年11月、仲井富さんが国道16号線の公害反対運動取材のため我家を訪れた。運動の現場と人を何よりも大切にする仲井さんとの出会いの始まりであった。
以来半世紀、公害問題研究会(以下、公害研)を媒介にした多くの人々との長く親密な付き合いが続いた。
 公害研は1969年5月、仲井さんが中心となってつくられ、1970年5月からは会員頒布の月刊専門誌『環境破壊』(87年3月終刊)を発行。全国各地の反公害運動の中心的役割を担っていった。

 1974年5月、仲井さんは四谷駅近くに小さな木造モルタル造りの一軒家を借り受け、住民情報資料センターを設立。これまで収集した住民運動の原資料、ミニコミなどを整理して後の住民図書館創設への先鞭をつけた。一方、広い畳の部屋を「緑林館」と命名して住民運動のリーダーのたまり場として開放した。
 緑林とは、森林に巣喰う「盗賊」といった意味であるが、交通の便がよいこともあり、多士済々の住民運動の実践者や支援者が館に立ち寄り、住民運動のあり方について熱っぽく議論を交わしていた。イデオロギーにとらわれず、自由に真摯に住民運動を考える館の雰囲気を仲井さんは殊の外好んでいるようであった。

 1975年に入り、私は学陽書房から「住民運動」について一本まとめてみないか、との依頼を受けた。住民運動の実践者との共同執筆を条件に『住民運動“私”論』の題名で要請を受諾した。企画案を作成、仲井さんの助言を仰いだ。
 執筆者の選定・交渉に当たってくれたばかりか、「実践者との出会いの中で」という論文まで寄稿してくれた。ひとつ、ひとつ当時の住民運動の人と心情(信条)が伝わってくる、好作品であった。

 1976年7月21日『住民運動“私”論』が刷り上がった。本を受け取るとその足で緑林館に赴いた。仲井さんは「緑林館の遺産となる」と大変喜んだ。「はしがきにかえて」の中で、私は仲井さんを「住民運動の懐刀」と評価した。また、『“私” 論』の執筆者をはじめ仲井さんをとりまく住民運動の仲間を、横浜新貨物線反対運動の宮崎省吾さんは親しさをこめて「仲井一派」と呼んだ。
 1977年12月、緑林館閉館。1987年3月、『環境破壊』終刊。公害研は助川信彦会長の呼びかけもあり、「看板は下ろさずに」環境破壊の制圧と住民運動の支援に心を寄せ、応分の努力を傾けていくこととなった。
 2009年2月、『環境破壊』の復刻が「すいれん舎」の手で始まった。私は「『環境破壊』と公害問題研究会」という解題を8回にわたって執筆した。
仲井さんは第1回目の原稿に「…じつによく書けていて、私の言いたいことすべてあり、心から感謝致します」との感想を寄せ、その後も折りにふれ、心暖まる激励のメッセージを送ってくれた。
 さて、今日公害研の活動も消極的となり、会員相互の交流もめっきり少なくなっている。70年代「他生の緑」の世界で広がった運動の輪もすっかり狭くなった。いま、仲井富さんの逝去の報に接し、「会者定離」に立ち会う哀しさと共に公害問題研究会の終焉を強く実感している。
(公害問題研究会)

(2024.5.20)
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