【追悼】
仲井富さんを偲ぶ2
トミさんとの想い出
渡辺 文学
1970年、公害問題研究会を発足させたのが仲井富氏(あつし=通称トミさん)でした。
当時私の父が事務所を二つ持っており、港区南青山の事務所は昼間使っていなかったので、半年間の約束で仲井氏が借りることとなり、反公害専門誌『環境破壊』をスタートさせました。18年間にわたっての、公害研時代のトミさんとの想い出は、言葉には急には出せないほどの中身の濃いお付き合いでした。
その後1987年に『環境破壊』誌が休刊(廃刊)となった後、私は1989年に『禁煙ジャーナル』を創刊し、事務所もいくつか変わりましたが、トミさんは常に身近にいて、なにかと相談に乗って頂きました。
そのトミさんから1月24日、すぐ近くの住まいのマンションから「ブンさん、体が動けなくて参っているのですぐ来てほしい」ということで駆けつけました。するとマンションのドアを開けたところで倒れており、足が動かないとのこと。すぐ119番をして救急車に来てもらい、旧友のKさんに付き添ってもらって市谷の東京逓信病院に運びこまれました。
延命処置を拒んでいたトミさんでしたが、結局それから3週間、同病院のICUで、寝たきりの日が続き、2月15日の午前3時前、あの世に旅立ちました。
公害研時代、トミさんとは全国各地の住民運動の現場に足を運び、多くの方々との交流がありました。
禁煙・嫌煙権運動にも理解を示して頂き、タバコのポイ捨て問題では、鋭い指摘の寄稿を頂いたこともありました。
6年前からは、毎月第2水曜日に俳句の会を主宰し「二水会」と名付けて、席亭を務めて頂き、毎月素晴らしい俳句を詠んで頂きました。
2月17日、大田区の臨海斎場で、息子さんの均君と娘の圭さん夫妻、Kさんと5人でトミさんとお別れしました。半世紀以上(54年間)にわたって親しくお付き合い願ったトミさん、これから寂しくなります。
【わたなべ・フミサト=通称ぶんがく=タバコ問題情報センター代表理事/日本禁煙学会理事/嫌煙権確立をめざす人びとの会代表】
※いろいろと書くことが多すぎて、どこから手を付けていいものやら、戸惑っております。今回は、2018年の『禁煙ジャーナル』5月号に「文さん富さんの48年間」と題して、短い文章ですが、お付き合いの中身がよくわかって頂ける内容と思います。(渡辺文学)
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文さん富さんの48年間
仲井 富
【禁煙ジャーナル 2018.5月号 No.300】より
文さんとの長い付き合いは1970年、社会党本部機関紙局というところへ配置転換となった時から始まる。やがて総選挙の惨敗で書記局の人員整理が始まった。最も多く首を切らなければならないのは、当時反戦青年委員会のたまり場となっていた機関紙局だった。江田書記長の下で首切りをやらざるを得なくなり自分も辞めた。
そこで一緒に辞めたのが文さんだった。なんとなく気が合って、その後公害問題研究会をつくり、月間『環境破壊』を創刊したのが1970年4月だった。たまたま事務所探しなどで力を貸してくれた文さんも、公害研の無給専従として一緒に働いてもらうことになった。
以来48年間(⋆2018年時点で)、兄たり難く弟たり難い関係で文さん富さんの関係は続いている。何しろ当時は37歳の老生と、文さん33歳という若さだった。彼は車の運転をする、酒は飲む、タバコは一日数十本のニコチン中毒。ときどき、横浜市で公害研の生みの親ともいうべき、助川信彦横浜市公害局長(当時)の所で会議をして車で帰る時は、ハラハラしながら乗っていた記憶がある。
その文さんがある時、突如として嫌煙権運動に目覚め、タバコを捨て、車の運転もやめた。
それ以降のことは各位がご存じのとおり。まさに嫌煙・禁煙運動の日本のリーターとして全生命を賭けて今日に至っている。
文さんはここ十年余、福島県南会津町(旧田島町)に相続した渡辺家の800坪の庭の手入れなどで汗を流している。
私も昨年夏、初めて彼の広大な旧家に泊めてもらい、庭に自生する大好きな茱萸(ぐみ)の実を少年時代以来初めて食べさせてもらった。
この空間こそが文さんの闘うエネルギー再生につながっていると感じた。文さん80歳。老生85歳。彼と出会った運命に感謝する日々である。
茱萸食べて少年恋を知らざりき 漫歩
なかい・あつし(通称トミさん)=「徘徊老人連盟会長」を自任する
(2024.3.20)
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