【国民は何を選んでいるのか】

国政選挙から読み解く日本人の意識構造(7)

低投票率の背景を探る
―女性、若者の「生活保守主義」と高齢者の「シルバー民主主義」―

宇治 敏彦


 国政選挙の投票率は近年、衆参両院とも50%台で推移している。日本敗戦直後の昭和20年代から平成初期までは70%台を記録(衆院選では14回、参院選では4回)したこともあったので、それに比べると50%台というのは「低投票率の定着」という印象をぬぐえない。「安倍自民党」が圧勝した直近の第48回衆院選(2017年10月22日投票)でも、総務省の発表によると期日前投票は全国で1,598万人(全有権者の約15%)と過去最多を記録したが、全体の投票率は53.68%(小選挙区)と衆院選では戦後最低だった2014年選挙の52.66%を1.02ポイント上回つたに過ぎない(大阪府、徳島県など9府県では戦後最低)。首都・東京では小池百合子都知事が立ち上げた「希望の党」などの動向が話題をさらったが、東京の投票率は前回より0.72ポイント下がり、53.64%にとどまった。

 無論、投票率が高ければ総て目出度しというわけではない。社会主義国や全体主義国家における選挙の投票率は極端に高いといわれる。たとえば金正日(キム・ジョンイル)総書記時代の2007年に行われた北朝鮮の立法府・最高人民会議(原則5年ごとに実施。定数687人の一院制)選挙の投票率は99.8%だったと報道されている。また2016年5月に実施された共産主義国ベトナムの国会議員選挙(定数500)でも投票率は98.77%だった。
 こうした国々では選挙とは「権利」でなく「義務」と定義づけられているので、棄権は反国家行為とみなされる。したがって投票率が高いのも当然だが、同時に「代理投票」も横行していると伝えられるから一人一票が原則の投票行為が公正公平に運営されているのか、はなはだ疑問と言わざるを得ない。

 議会制民主主義国家群で比較すると、投票率が高いのはオーストラリア(2007年選挙では95.2%)、ルクセンブルグ(2004年選挙で91.7%)、ベルギー(2007年選挙で91.1%)など。逆に低いのは韓国(2008年選挙で46.0%)、米国(2006年選挙で47.5%)、スイス(2007年選挙で48.3%)などである。日本はどの辺に位置しているかというと、60%台なら中位にあるが、近年のように50%台だとポーランド(2007年選挙で53.9%)、メキシコ(2006年選挙で58.9%)並みで、韓国や米国に次いで低投票率の国ということになる。

 そうした中で最近よく指摘されるのが若い有権者と熟年有権者の投票率が乖離しており、日本の政治全体が投票率の高い熟年層を重視した「シルバー民主主義」に傾いているのではないかという問題である。

 「若い世代を中心にした低投票率を何とか改善しよう」と旧自治省(現在の総務省)時代から選挙関係者は、さまざまな試みを行ってきた。

1、1974年7月の第10回参院選では「投票時間を1時間延長」した。その結果、前回参院選より14%近くアップして73%を記録した。もっとも、この時は田中角栄内閣の「企業ぐるみ」選挙が選挙管理委員会でも問題視されるなど、田中政権の「企業頼み」「金権選挙」への批判が投票率を高めた要因でもあったが…。

2、1997年には「投票時間2時間延長」の公選法改正がなされ、翌98年7月の第18回参院選では投票率が14%アップして58%台に乗った。この時は前年からの消費税5%のスタートや医療費値上げといった橋本龍太郎政権への批判が強く、自民党は16議席減で参院における半数割れをきたした。橋本首相は責任をとって辞任した。

3、2015年6月には改正公選法で「18歳選挙権」が認められ、全有権者数の2%に相当する240万人の若者が投票権を得た。翌2016年7月の第24回参院選から適用されたが、年代別投票率は10歳代(18歳以降)が46.78%、20歳代が35.60%、30歳代が44.24%と、いずれも全年齢平均の54%を下回った。ただ18歳では51.28%と全年代平均に近い。これは初の選挙権行使に半数以上の若者が関心を示したことを物語っている。年齢が上がっても、その傾向が継続されれば政府の苦労も報われようが、残念ながら20歳、30歳代になると投票への関心が遠のいていくが実態だ。

 そんな中で2017年総選挙では一批評家(ゲンロン社長兼編集長でもある)から「積極的棄権論」が飛び出し、大きな話題になった。東浩紀(あずま・ひろき)氏がネット上や雑誌『AERA(アエラ)』で呼びかけたもので、5,000人を超す賛同者の署名を得た一方、批判も勿論かなりあったようだ。ネットでは「2017年秋の総選挙は民主主義を破壊している。『積極的棄権』の声を集め、民主主義を問いたい」と主張したうえで、なぜ棄権を唱えるかについて、①大義ない選挙を仕掛けた安倍晋三首相の解散権の乱用、②政策論争を無視した数合わせの新党形成に邁進した野党、③与野党の茶番の結果、600億円を超える税金が選挙に使われる―などを挙げている。

 東氏は同年10月30日の雑誌『AERA』では、こうも書いている。
 「棄権が白紙委任と捉えられることは知っている。選挙権は民主主義の根幹をなす神聖な権利であり、みだりに放棄すべきものでもない。けれども今回についてだけは、棄権を考えるのもアリだと訴えたくなった。というのも、このひと月ほどの混乱は、候補者の選択以前に、そもそもこの選挙の『ルール』、それ自体が大きな歪みを抱えていることを示すもののように思われたからである」

 その「ルール」とは公選法だけを指すのではなく、国政選挙を取り巻く政治状況、メディア環境のすべてを意味し、「解散権の総理の占有、小選挙区制、ワイドショーに支配されたマスコミとネット、それらが組合わさり生み出された現在の日本の政治状況を意味している」としたうえで、東氏は次のような予測を披露した。

 「極右でも極左でもない、まともにものを考え訴える人々の勢力は、ポピュリズムに呑みこまれて消える運命にある。実際今回、民進党は、政権交代の夢に惑わされ、あっというまに自壊してしまった。いまは立憲民主党の伸長が伝えられるが、それも近い将来同じ困難に直面するだろう」

 東氏に賛同する立場で政治学者の中島岳志・東京工大教授が次のように論評していた(2017年11月28日、東京新聞夕刊「論壇時評」)。

 「民主主義が中道を排除し、『お祭り』化するのは、日本だけでなく世界的な傾向である。『この不毛な劇場=お祭りの反復』へのボイコットが、『積極的棄権論』だというのだ。この指摘には説得力がある。実際、選挙中にはまともな政策論争はほとんど起こらず、これまでの自公政権の検証も不十分だった。立憲民主党の誕生によって中道リベラルの受け皿ができたものの、結果は自民党の圧勝。安倍政権の不支持率が支持率を上回っていたにもかかわらず、政権与党の方針が追認された形となった。これが健全な民主主義なのだろうか。やはり日本政治の『ルール』がおかしいと声を上げる必要があるのではないだろうか」

 「ルールがおかしい」という点では片山善博氏(元総務相、元鳥取県知事)も先の安倍首相による衆院解散を「ご都合主義の衆院解散」だとして、次のように批判した。

 「衆議院の解散は内閣の不信任案があった場合に限られ、憲法第7条解散の余地はない。(中略)現実には衆議院の解散は7条を根拠に平然と行われている。なぜかといえば、かつて7条解散の憲法適合性が司法で争われた際、最高裁判所が判断を回避したからだ。(中略)百歩譲って仮に7条解散が違憲だと言わないにしても、解散は不信任に匹敵するようなことがある場合に限られるべきだとの認識は、政界でも国民の間でも最低限共有しておくべきだろう」
 「さて安倍政権のこのたびの対応である。政権は臨時国会開会の要求を3か月以上もたなざらしにした。その態度はあまりにも不誠実である。遅ればせながらやっと開いた国会で十分な審議をしていればまだましだったが、審議も何もしないまま冒頭で衆議院を解散し、国会を閉じてしまった。これでは臨時国会を開かなかったのと同じだ」(2017年11月27日、中日新聞夕刊)

 まさに正論だ。首相の解散権行使は内閣不信任案(否決されるとしても)を受けて対応するのが筋であり、吉田茂内閣の抜き打ち解散(1952年8月28日)に匹敵する暴挙である。

 投票率自体の問題からは脱線してしまったが、首相の「解散権」については与野党とも深く考えて早く決着をつけるべき問題点だ。脱線ついでに民進党関連の話を書いておきたい。去る10月31日に民進党代表に就任した大塚耕平参院議員の記者会見が日本記者クラブで行われた(11月29日)。その席で大塚代表は「わが国の民主主義は、まだ発展途上にある」として次のような歴史的経緯を述べた。

 「1889年に大日本帝国憲法が発布され、翌年に第1回帝国議会が開かれた。戦後、女性にも選挙権が与えられて国民は文字通り主権者になったが、本格的な政権交代が行われたのは2009年8月(第45回衆院選)で民主党が308議席で圧勝した時だ。それからまだたったの8年ですよ」

 だから「今後に期待してほしい」と大塚代表は言いたいのだろうが、野党分裂で民進党議員は衆院でゼロ、参院で47議席というのでは、国会内活動も限定的にならざるを得ない。特に衆院に足場を持たないのは決定的弱点である。いまさらながらに「希望の党」に未来を託して民進党を事実上崩壊させてしまった前原誠司前代表の軽挙な行動が責められるところであろう。筆者などは蓮舫さんが民進党代表時代に前原氏が新政策策定の中心人物として「All for All」(みんながみんなのために)という福祉政策をまとめたことで、自民党の小泉進次郎氏(現在は筆頭副幹事長)が掲げた「こども手当」との間で与野党間の政策論争がようやく本格化することに期待をかけたが、それも夢に終わってしまった。

 さて本題の低投票率だが、戦後の国政選挙で投票率が5割を初めて切ったのは村山富市首相時代の自社連立政権下に行われた第17回参院選挙(1995年7月23日投票)であった。有権者の2人に1人も投票に行かない44.5%(選挙区、比例代表とも)。1月17日にはマグニチュード7.2の阪神淡路大震災が発生し、死者が約6,400人、負傷者が約4万4,000人、全壊家屋約12万戸、破損家屋40万戸という大災害であった。戦後50年という記念の年でもあり、村山首相は8月15日に「植民地支配と侵略」についてアジア諸国に向けたお詫びの談話を発表した。

 そのように日本にとっては大きな節目、曲がり角の年であるにも拘わらず、有権者の2人に1人も投票に行かないとは、いったい日本人とはいかなる知性集団なのだろうか? 特に筆者は3つの点で、疑問に思っている。

 第一は、「棄権」したことへの問題意識に欠けた有権者が多いのではないかという点だ。たとえば1993年秋に行われた神戸市長選挙。投票率は20%だった。有権者の5人に4人は棄権し、投票権を行使したのはたった1人だけということだ。再選を目指す現職市長が保革相乗りで、対抗馬は革新系無所属という状況から「どうせ結果は決まっているのだから」という気持ちに有権者がなるのも無理はない。
 ところが1年数か月後に阪神大震災が起きて、被害の大きかった長田区などの再建計画を市が立案したら、住民たちは猛反発し、やり直しを求めて市長に猛然と抗議した。「それなら市長選で自分たちが支持する市長候補にきちんと投票しろよ」と言いたくなるが、それはそれと片づけられてしまう。つまりNINMBY(Not in my backyard)、「ゴミ処理場など“迷惑施設”つくるのにウチの裏庭以外なら良いよ」というのが市民感覚で、市長選挙は別物と考えるのが有権者の生の姿なのだ。

 米国の政治学者、ジェラルド・カーティス氏(コロンビア大名誉教授)に以前、この話をしたら「アメリカでも同じさ。阪神大震災の年にカリフォルニア州であった地方議会議員選挙での投票率は11%に過ぎなかった」と言っていた。
 しばしば、このシリーズで取り上げるリンカーン(第16代米大統領)の有名な言葉「投票用紙は銃弾より強い」という国においても、地方議員選挙は単なるセレモニーで、現実政治とはかけ離れているとの認識が一般的とすれば、問題点は根が深い。

 第二は女性有権者の投票率だ。日本では女性が参政権を獲得して最初に一票の権利を行使したのは1946年4月の第22回衆院選だった。投票率は男性が78.52%に対し女性は66.97%で、女性の投票率は男性より11.5%低かった。ところが1968年7月の第8回参院選および翌1969年12月の第32回衆院選で、それが逆転した(69年衆院選の場合は男性67.85%、女性69.12%と女性が1.2%近く高い)。この「女高男低」傾向は1990年代半ばまで30年近く続いた。筆者は、その理由を考えてみた。

 ①公害の多発などが女性の政治意識を刺激した ②工業の発達に伴い農業は「三ちゃん(じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃん)農業」から「二ちゃん農業」に変質し、主婦(かあちゃん)が近郊工場に働きに出て、経済力も増し、政治的関心も高めていった ③1969年から始まった映画『男はつらいよ』のタイトルが暗示するように男性に比べ女性に余裕が生まれる時代になった―などが思い浮かんだ。まさに「戦後強くなったのは女性と靴下」という流行語にも共通すかもしれない。

 ところが1995年7月の第17回参院選で男女の投票率は27年ぶりに再逆転した。以後、国政選挙における男女別投票率は男性が高い時もあれば、女性が高い時もあり、性差による特徴が消えてしまった。なぜか。筆者が思うには「生活保守主義」傾向が強い女性有権者が「投票に参加しても政治や生活がそんなに変わるわけではないし」と現実政治への失望感を強めていることが最大の原因ではないだろうか。

 第三には若い世代の投票率も低いことの意味である。18歳選挙権が導入されて以後の18歳、19歳の投票率を見ると、18歳では50%を超している(2016年参院選では51.28%。2017年衆院選では50.74%)。これは先に言及したように「初めて国政に参画できる」という緊張感や期待感が影響している(それでも全体平均より2.3%低いのだが)。一方19歳の投票率は同参院選で42.30%、同衆院選で32.34%と急落する。この裏を読み解けば「18歳の時は珍しさもあって投票してみたが、何も社会は変わらなかった。何回も行く必要はないよ。時間の無駄だ」という諦観的意識が働いているのではないか。

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 日本の人口構造が高度成長期の1970年代と40年後のゼロ金利時代とでは大きく変わってしまったことも、国民の政治意識や投票行動に大きく響いている。日本銀行が物価目標2%を達成しようと5年間努力しても達成できないのは国民の生活意識を的確に把握していないからだ。人口構造が富士山型(高齢者より若年層が多い)から池に映る逆富士山型(高齢者の急増)に変じ、労働構造は終身雇用からフリーターや非正規などが多数を占める不安定収入型社会に切り替わった。高齢者はもとより青年も女性も「生活保守主義」に徹せざるを得ないのだ。有権者の多くは「安倍一強」政治、自公連立政権を積極的に支持しているわけではない。「せめて現在の生活水準以下にならないよう安定政権で取り計らってもらいたい」と思っているから安倍自民党は安泰でいられるのだろう。

 特に年々増加する「シルバー世代」は、保守安定政権によって自分たちの年金暮らしも将来的に保証されるだろうと錯覚している点もあるので、「少数多党」化の野党支持に転ずる可能性は総体的に低い。

 そうした全体図の中で若者や女性を中心に国政選挙の投票率を以前のような60%、70%台に引き上げるのに、どんな改善策があるのか。若者世代は「インターネット投票」の導入を提案している。すぐには無理だが、総務省も研究に取り掛かる必要があろう。政党助成金制度も再検討してはどうか。「コーヒー一杯分の税金を各党に割り振ることで政治家や政党の『金権体質』をなくしていく」というお題目で始まった制度だが、政党の規模や議員数で割り振るのでなく、有権者の声にも配慮した配分にしてはどうか。国政選挙の際に「政党助成金交付先」という投票用紙も配り、その集約に基づき配るのも一案であろう(現在は政党助成金頼りに政党が離合集散する傾向もある。なお共産党は制度創設以来、受け取っていない)。

 そして何といっても政治家たちが魅力的になってほしい。暴言騒動、不倫疑惑、偽の領収書事件、総理大臣のヤジ、閣僚の失言など政治家に関する「芳しからざる噂や行為」がマスコミに報じられない日がないぐらいだ。政治家のレベルが明らかに低下している。

 「この政治家にして、この政治あり」。投票率を上げようとすれば党派を問わず誰もが有能とみなす人材を一人でも多く擁立することから始めるしかあるまい。

 (東京新聞相談役)

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