【コラム】風と土のカルテ(33)

佐久の医師たちがハッとした海外研修生の一言

色平 哲郎

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 10月、ミャンマー東部のカヤー州から研修のために来日した8人の医療者(医師、保健省幹部ら)が、長野県庁をはじめ長野県内各地を精力的に視察して回った。来日の経緯は、前回ご紹介した通りだ。

 佐久総合病院を訪れた女性小児科部長はNICU(新生児集中治療室)で、日本の看護師の手技に見入っていた。他の医療者たちも皆、急激な進歩を遂げつつある癌化学療法、そして高度な術後管理に新鮮な驚きを隠さなかった。

 長かった軍事政権、準軍事体制が幕を閉じ、やっと「自由」の空気を吸えるようになった彼らは「新しい技術」に飢えている。技術を身につければ命が救えると思っている。もちろん、間違いではない。だが、技術を生かすには「医療の基盤」が必要だ。

 佐久では、それを「地域医療」と呼び、住民の目線に近い、住民ニーズに応じた技術構築を模索してきた。その現場を見てもらおうと、佐久病院の若手医師が研修チームを南佐久郡南牧村の住民のご自宅に案内した。

 南牧村は長野県内でもかなり辺地の高原の村として知られているのだが、タイとの国境にあり、密林が点在する辺境のカヤー州から来た人々は、「こんなのへき地じゃないよね」と余裕綽々。しかし、若手医師が「患者とドクター」の関係を超えて、住民と気楽に生活習慣や家族の近況の話をするのを観察しているうちにカルチャーショックを受けた様子だ。「同じ医師として、嫉妬する」という声も聞こえた。

 考えてみればミャンマーの地域医療の大半は国家公務員の医師が担っており、「地域に入る」という発想を欠く。ほんの5、6年前まで、近隣の人が集まって話し合いでもしようものなら、逮捕されかねなかった。地域自治は危険視され、地域自体も育ちにくかった。
 そのようなところに、国家を背負ったエリートである医師が入るのは考えられない。正直に言うと、彼らは佐久の「地域医療」に面食らっていた。住民とともに医療を切り拓くことの難しさ。

 「南牧村の診療所のビジョン、ミッションは誰がつくったものですか?」という質問が研修チームから発せられた。
 「前診療所長と村長が考えました」と佐久病院の医師。
 ここで私たちも、ハッとした。

 「農民とともに」「住民とともに」をモットーとしてきた佐久病院だが、佐久病院の医師が出張して診療に当たる村の診療所のビジョンやミッションは、医師や地域リーダーが中心になってこしらえている。これで本当に「住民主体」といえるのだろうか。住民に寄り添う、住民とともに医療を切り拓くことは、そうそう簡単なことではなさそうだ。
 まして、当地の医師が住民に働きかけるならともかく、私たちが国際的な支援を通じ、医療のビジョンやミッションを語ったところで、いったいどこまで当地の住民に通じるのだろう。そんなことを考えていると、ミャンマー保健省の幹部が「ぼくは少年時代、エンジニアだった父の仕事の関係で、カヤー州にあるあの有名なダムのそばで育ったんですよ」と語った。

 そのダムは、バルーチャン水力発電所。ビルマ(現在のミャンマー)への日本の戦後賠償の第一号だ。太平洋戦争中、日本はビルマに侵攻した。この発電所は、敗戦後、日本の土木技術者たちがジャングルを開き、艱難辛苦を乗り越えて造った金字塔だ。ダムと送電線の築造によって当時の首都ラングーン(現ヤンゴン)に電力が届くようになった。

 佐久での地域医療研修も、これらの戦後賠償事業と同様、長い目で見ていくべきものであろう。一足飛びに成果は出ない。地道に関係を結び続けていくしかないのだろう。

 (長野県・佐久総合病院・医師)

※この記事は著者の許諾を得て日経メディカル2016年11月30日号から転載したものです。文責はオルタ編集部にあります。


最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧