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有閑随感録(5)

党の指導に従わない者は罪深い人民だ――身近なできごとから

矢口 英佑


 「スチンバートルさんがモンゴルの開発、自然破壊に反対したとして逮捕されました」メールで唐突にこう知らされたのはいまから3週間ほど前のことだった。
 そのメールにはおそらくご本人が撮ったと思われる逮捕状とその文言、さらに彼の支援者が撮ったと思われる拘束される姿(ご本人か逮捕に反対した支援者のいずれか)が添付されていた。
 ネット情報に神経をとがらせる習近平共産党指導部だが、その網の目をくぐり抜けるように、こうした映像が私のところにまで届く現実は共産党指導部の予測を遙かに超えていて、情報の完全な規制や操作などできないことを教えている。

 スチンバートルさんは、今から7年前に私が監修・編集した『内モンゴル民話集』(論創社)の原作者である。その彼の逮捕理由を聞かされたとき、私は誤解を恐れずに言えば、納得していた。スチンバートルさんは長年、内モンゴル自治区ヘシグテン旗(中国の赤峰市にあり、東南沿は遼寧省、西南沿は河北省と接する)で教員を務めた。定年後は民間説話や伝説の採集に尽力し、作家として活動していて、これらの説話や伝説には自然を、草原を愛護し、その自然を崇拝する民族の信仰心が色濃く反映されていた。

 『内モンゴル民話集』の中でスチンバートルさんはヘシグテン地域の自然を次のように描写している。
 「なだらかな起伏を見せながらどこまでも続くグンゲル草原には、さえぎるものはありません。一心に草を食べながらゆったりと移動していく、遙か遠くに見えるいくつかの羊の群れは、まるでうす緑色をした絨毯の上に織られた白い帯のように見えます。見渡す限り、草の原が続く大地の向こうは、やがて空と一つとなって、牛も馬も羊もその中にとけ込んでいくようです」

 私が初めてヘシグテンに足を踏み入れたときは夜だった。飛行場に降り立ったとき、夜空の星がまるで降ってくるように光り輝き、私が知っている中華人民共和国のどの地域ともまったく違う空気の匂いであることに気がついた。それはどこか懐かしい匂いでもあった。翌日、スチンバートルさんのご自宅を訪問する際には、ご自宅から近い場所とはいえ幹線道路まで出迎えてくださり、路上での歓迎式(?)では馬乳酒と地元の強い酒が振る舞われ、歓迎の歌が披露されたのである。飾り気のない、素朴な、でも心温まる接し方はまるで古くからの親しい友人を尋ねたような気分にさせられたことが懐かしく思い出される。

 彼は私が日本語に置き換える作業に役立つようにと民話で取り上げた場所や地域に案内して下さっただけでなく、モンゴル民族の生活に根ざした食べ物などにも触れさせてくださった。それらはその後の日本語置き換え作業に大いに役立ったことは言うまでもない。
 だが、ヘシグテン滞在中に私はもう一つの内モンゴル地域の現実を知ることになった。それは降雨量の減少と、それに追い打ちをかけるような儲け至上主義の乱開発、工業化だった。その結果、地下水の過剰な汲み上げによる自然破壊で牧草地や水が失われ、草原の急激な砂漠化という危機的な状況に陥っていることだった。

 習近平指導部はモンゴル自治区の近代化促進という美名のもとに、豊かさと便利さをモンゴル民族にもたらそうとしている。しかし、それは資源の乱開発、自然の環境破壊、伝統的な生活様式や習慣の放棄をモンゴル民族に迫るもので、しかも多くが漢民族優先の富の蓄積と反映に結びついている。
 乱開発や自然破壊の直接の悪影響はその地が故郷ではない漢民族ではなく、遊牧の民・モンゴル民族が被ることになるのである。

  記憶のなかの内蒙古 草原に風と草と牛羊
  いま現在の内蒙古  草消え黄砂舞い上がる
  記憶のなかの内蒙古 地平線まで草のなか
  いま現在の内蒙古  見渡す限り砂だらけ
  ひとつの炭坑開発  ホリン河の水涸らす

 こうした戯れ歌が皮肉る現状が民話を愛するスチンバートルさんに我慢ならなかったはずである。もうこれ以上の自然破壊につながる開発には賛成できないという思いが今回の逮捕につながる行動となったに違いないのだ。
 モンゴル民族は共産党指導部からは遊牧の民として生きることが制限され、定住化の促進、羊などの飼育頭数の制限などが強権的に実行され続けて、もはやそれが常態化している。漁民から海を奪い、農民から畑を奪うのと同じである。
 スチンバートルさんのモンゴルの自然と民族とのつながりに対する思いは、怒りを通り越して、悲しみと諦観に押しつぶされそうになっていたのではないだろうか。それでも彼は抵抗の声をあげたのである。

 習近平共産党指導部の問答無用式の弾圧、抑圧にはやり場のない怒りを覚える。その一方で、日常的に起きているこうした弾圧、抑圧の事実は習近平指導部が自国の政治運営に自信がないことを証明している。それはとりもなおさず、スチンバートルさんの影響力が無視できなかったことを、中国共産党指導部みずからが明かしたとも言えるだろう。
 あの陽に焼けた、いかめしく、しかし人なつっこいスチンバートルさんの、一日も早い釈放を願うばかりである。

 (元大学教員)
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