【コラム】あなたの近くの外国人(裏話)(63)
入管法から「難民」「避難民」「在留資格」を考える①
過日、2023年6月9日出入国管理及び難民認定法の改正(?)が衆議院で可決した。2年前に否決されたと思っていた法案だ。あれは単にスリランカのウィシュマさん死亡で弁護士・市民団体の反対を受けたからなのだろうか?コロナパンデミックで下手に強制送還しにくかったとかそういう理由だったのだろうか?ほとんどの日本国民はこの改正?の意味を知らされていないように思える。
私の周囲にいる人たちの反応は…
1.生まれてからずっと日本国籍の人たちはメディアが伝える「3回目の難民申請で帰還させることができる法律になった」とその程度しか知らない。
2.帰化して日本国籍になった人たちは「うーん、仕方ないかなぁ。でもこれで逆に不法滞在者が増えるんじゃないかなぁ」という感想。
3.身分または地位に基づく在留者(永住・定住など)「いろいろな人がいるからねえ」
4.その他の在留者たちはとはこの話題にはまだふれていない。
少なくとも多数決に参加し、起立した議員と一部の政府支持者以外は意味不明な改正(?)だろう。それから私の近くではメディアでは絶対に聞えてこないゼノフォビアや特別永住者たちが外国人・出身者に対して治安を乱す怖い外国人や余計な税金を使わせる外国人が減るとでも考えていそう、言いそうだ。これはスーパー銭湯やショッピングモールから聞こえてくる話しから推測したのだ。「外国人の犯罪者が多い」とか「収容所の外国人が多くて税金の無駄」とか「生活保護は外国人が多い」等、根拠を以っているのではなく、誰かの話しをまた聞きしているものが多い。さらに国別の差別が聞こえてくる。例えば日本人の配偶者が多い国、特定の宗教信者が多い国など。実態を知らないのに。その逆にメディアを通じて「反対デモ」などが盛んに報じられていた(る)が、中には感情的過ぎて私が理解できない団体もなきにしもあらずだ。一方、難民申請中の人たちと共存する地域の人たちが支援協力していることも伝わっている。しかし、そういう話しは大きなメディアでは中途半端な扱いであることが多い。またネット上の関連記事には双方の立場で「不都合な真実(事実)」というキーワードが散見する。ここで、今回、この改正?から、難民と出入国在留管理庁の2つを自分の身近なまたは身近な人の知り合いを通して述べたいと思った。
1.【回想】約35-30年前の外国人
私が大学生だった頃、日本に住む外国人といえば、語学教師など知的な階層のイメージが強かった。そのうち、インドシナ難民という言葉が聞かれてきたが身近でもなかったし、ベトナム人が船に乗って辿り着いたというニュースを何回かテレビで見たくらいだった。難民ではないベトナム人の友だちはいたが。しかし、カンボジア・ラオスの人たちは難民でなくても身近なのはこの数年だ。当時カンボジア・ラオスの人たちはフランス語が通じる国へ逃げて日本には来ないのかなと思っていた。
さらに、バブル前くらいからフィリピンやタイ、韓国などから興行ビザで女性たちが就労のためにやって来た。
そして私が大学院生の頃、イランやパキスタン等との国と日本との間で「観光ビザ相互上陸取得」という時代があった。私は主にヒマラヤ圏で勉強していた頃だった。その時期に観光で日本に入って一時帰国し、再来日して経営管理ビザを取得した人、そのまま在留資格変更で就労ビザ延長し数年滞在したり、そのまま日本に残った人、すでに帰国したりした人たちも多い。また中国からもそれまでは(今までの)国費留学生ではなく私費留学生から就職や起業した人たちも増えてきた。中南米から日系人が就労に来ていたが愛知・浜松・横浜・群馬と居留地が固まっていたので東京近郊在住の私はあまり見かけることはなかった。たまに「アンデス音楽」を路上で演奏する見た目外国人の日本人の音を耳にすることはあったが。それでもまだまだ見た目が外国人とわかる人たちは少なかった。
そういう「見た目外国人」は京都や原宿でカメラをぶら下げていたり、駅のホームで大きなバックパック背負っていたり、御徒町で基礎化粧品や育毛剤を買い漁っていたりと、明らか観光客だ。なぜか私は町中で道を訊かれていた。道訊きも英語のみ。彼らはガイドブックも持っていなかった。
2. 【回想】難民と呼んでもらえないチベット人
だが、「見た目日本人」の外国人は身近に数人いた。国際的に(?)難民として認められていない「チベット人」たちだ。ただ国がないので「外国人」ではなく「海外出身の人」である。当時であってもすでに在日が長い人たちも少なくなかった。支援者が留学生として招聘したからだ。彼ら彼女らの多くは医師・看護師、研究者など専門職に就いた(ている)。そのほかの当時の在日チベット人たちの多くは(知り合いは30人に満たなかった)インドもしくはネパールを経由し日本へやって来た。チベット人が日本などの国に入国するのに所持していたパスポートは4種類あった。
1.亡命先の国が発行した市民としてのパスポート(ネパールはお金で買えたのでネパール人として入国)
2.インド政府が発行したインド在住難民パスポート※これがもっとも多かった
3.中国政府発行の「中国人旅行証」(正規パスポートではない)
4.中華人民共和国パスポートだ。
しかし、2~4のパスポートを持って日本に入ると「中国」と日本の役所で記載された。なかには結婚する戸籍に中国と書かれそうになって、当事者は争ったこともあり、今は彼女の努力のおかげで「無国籍」と記載されるようになったようだ。今現在多くの難民(亡命)チベット人たちはアメリカをはじめ国籍取得している人たちも多い。もちろん日本国籍取得者も。
3. 【回想】約35年前:態度が悪かった入管職員にストレスを感じた
私は修士論文を完成させるためラサから一時帰国していた。その当時、同じくラサから日本在留中の研究者の父親を訪れていた友人がいた。彼女と私は日本滞在中よく一緒に行動していた。日常の食材を買いに行ったり、生理用品を選んだり。その他いろいろお供をしたが、その話しはいずれ。
さて、彼女が日本を離れて、帰国ではなく、婚約者の家があるアメリカに出国する際のことだ。航空券を滞在期間内に取ることができず、3日後の券を取った。そのため、彼女とともに入管へ行った。入管ではフィリピン、タイ、韓国の女性が列をなすでなく、座りこんで手続きを待っていた。その夥しい人数は今でも目に浮かべることができる光景だった。私と彼女は最初の手続きと事情を窓口で担当の若い男性職員に話し、「その日にフライトがないと困るので少し多めにいただければと思います」と言った。彼は少し柔らかい表情を浮かべて「じゃ呼ばれるまで待ってて」と友達みたいな口調で言った。待っている間、何人かの女性に対して他の職員が対応している様子を見聞きすることになった。当時、携帯電話などないのだから、それしかなかった。
フィリピン人女性に対して何やら怒鳴っているような声がしてきた。どうもオーバーステイのようだった。韓国人の女性は日本語ができるのでやりとり全部が聞こえてきた。在日韓国人男性と来月結婚の予定で在留資格変更まで日数を延ばしてほしいといっているようだったが、当時は帰国してからの手続きなしでそれができたのか、それともそれができないから職員が説明したくて話していたのか、どちらにしても、友達言葉(タメ口)で「です。ます」ではない丁寧さに欠ける言葉遣いだった。声のトーンも高かった。そして「1週間出すからね。次、結婚の相手と一緒に来てよね。結婚するんでしょ。そのくらいできるよね」この上から目線の口調に驚いてしまった。驚いたのはそれだけではない「じおう・きょくちん(次旺曲珍)さん」と2回聞こえた。3回目で気づいた。彼女の漢字名を日本語読みして呼び出しをかけていたのだった。彼女のパスポートは中華人民共和国発行のものであった。でもどこかにローマ字表記あるはずだけど。すぐに彼女と窓口に行って「ツェワン・チョドゥン(チベット語)ですか。ツーワン・チョゼン(中国語)ですか」職員は彼女の顔写真を見て確認したらしい。「日本語読みで呼び出しをされたんでわからなかったです。パスポートのローマ字か中国語で呼ばれると思っていたので、日本人の私でも気づきませんでした」と言ったら「漢字は日本語読みするんです」とわからないことを言った。おそらくこれは意地悪ではないかとその時感じた。そして「2週間だしておいたよ。いいですね」とやっと「です」が聞こえてきた。これも推測だが、ぞんざいな日本語ばかり話しているのでちゃんとした日本語が話せなくなっていたのかもしれない。今の品川にある出入国在留管理庁の窓口では少なくとも職員の日本語は普通だからだ。当時は普通の役所でも失礼な口のきき方をされることもあったが、こんなに蔑まれたような言葉遣いをされたのはこの時が初めてだったので忘れられなかった。最近特殊詐欺からの怖い電話から聞こえた「おい、お前、今からそっちに行くからな」という声がこれを上回ってしまったが。
4. 【過去】ノリで難民申請して後悔した元留学生
コロナ禍前の話しである。インターネットで何回かビデオ電話で話しをした元留学生。あの当時も今もベトナム・中国に次ぐ日本語学校留学生が多い国から来た。日本語はかなり上手だった。というか昔私がこの国にいた頃出会った日本人相手にガイドや山の仕事をしていた人たちと同じようなスムーズな日本語だった。近隣の同系言語と違って男女差がないし、敬語と友達言葉の違いが日本語の表現と似ているからなのだろうとも思う。また少数民族母語の文法・文型運用が日本語とほぼ同じ言語である場合も少なくない。が、必ずしもその国出身者全員が上手であるとは限らない。
これだけスムーズに日本語を話しているのに、「何故卒業しないで難民申請をしたのか?」私はそのまま質問した。
「ああ、あの頃、流行っていたんですよ」
「え?流行っていた?」
「先輩たちが難民申請して学校やめて勉強しないでずっとバイトしていて、それいいなって思って」
「え?」
「授業はすごく楽だったから、退屈だったんですよ。先生も学校もビジネスだから」「なるほど」
「だったら先輩たちみたいに難民申請しようかと。私たち、どうせ難民と同じだし」
「…まあ政府が変わって悪くなるし、隣の国のプレッシャーもありますからね」
「そういうことです。だから日本に来て仕事したいと思ったんです。韓国も考えていたのですが、私の国に韓国人だと言ってビルを建てている北コリアの人が多くて正体がわかったから、韓国ではなく、みんな日本留学を目指したんですよ」
「どうして卒業しないで難民申請をしたの?」ともう一度訊いた。
「Kazukoさん、わかっているでしょ?私たちは一日でも早く日本で仕事をしたい」
その当時すでに先輩たちも本人も退去となっていた。
そして、再入国して日本に住んで仕事したいと。悪いけれど、協力するにはハードルが高すぎる。
入管のホームページ(現行)「難民認定申請を考えている留学生の皆様へ(各国語版)」言語で注目していただきたい。トルコ語も含めるなら全てアジア系。
5. 【現在】避難民の学生と思われる若者
4月の終わりだった。近隣の大学近くの道を歩いていた。耳慣れない、でもスラブ系言語で音声からキリル文字が浮かんできそうな会話が聞こえてきた。振り返ると欧州白人の男の子たち数人。この大学の留学生はほとんどアジア系だと思っていた。珍しいなと思って通過した。先月末ポーランド映画「EO」を鑑賞して、ポーランド語に近い言語を耳にしたことを1か月前の記憶として感覚に覚えを感じた。ああ!わかった!ああ、あの時、聞こえてきた言語はウクライナ語だったんだ。つまり、あの子たちは日本のウクライナ支援で留学生として日本語学校に入学し、大学に進学した子たちだったのだろう。どういう経緯で日本に来ることになり、どういう経緯で歩いてでも行けるヨーロッパではなく飛行機で来たのだろうが日本を選び、それが自分の意思なのか家族縁者なのか?梅雨や夏は2度目になるだろうが地震も慣れただろうが、ホームシックを乗り越えたのだろうか?他の国から来た自分の意思で「難民申請中」として在留している若者であってもホームシックで何度も何度も泣かれたことがある。日本で知り合った同国人の友達がいてさえも。あのウクライナ人と思われる子たちは絆を深め合って生活しなくてはならないからこそ元気な声で会話していたのだろうと。
(続く)
【参考】
・出入国管理及び難民認定法の改正 衆議院
・入管法改正案 参院本会議で可決・成立
・「申請者に難民がほとんどいない」発言の参与員、全体の25.9%(1231件)を担当…難民審査のあり方に疑問の声「彼らの命、重みをどのように思ってるの
・大阪入管の現役職員が激白 入管法改正案は『どうでもいいかな。現場は何も変わらない』『命令には絶対服従』語る組織の実態は
↑これは次回以降の話題で
品川駅から東京出入国在留管理局行きのバス停
英語・中国語・コリア語・日本語の順で案内が書かれている
バス内の停車案内。中途半端な英語とローマ字
東京出入国在留管理局のロケーション。海が近いので風が吹くと寒さを感じる。
コロナ禍以降、入場整理券を貰って外で待つ。
(2023.6.20)
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