【オルタ広場の視点】

公共政策の選択はどのようになされるか

堤 修三

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 堤 修三氏の紹介               菅家 功(連合総研参与)

 堤修三氏と筆者の最初の出会いは、筆者が初めて連合事務局に出向した1996年の秋であった。この時期、介護保険制度を巡って多くの社会的論議が巻き起こっていて、当時、制度設計を議論する厚生省の審議会で事務方を仕切っていたのが、老人保健福祉局企画課長であった堤さんである。筆者はこの連合出向の際に、ドイツとフランスの社会保険制度を直に学ぶ機会を得て、社会保険とは何たるかを思い知ることができた。
 それは一言で言うと「連帯と自治の制度」であり、保険集団の構成員(被用者と雇用主)が公平に保険料を拠出し、その運営に主体的に関わり、責任をもつというものである。もちろん公の制度である以上、国会が定める法律によって制度設計がなされ、行政府がその管理にあたることは論を待たないが、だからといって国が保険者になるということではなく、労使同数の理事会によって全てが決定され運営される公法人(通常「疾病金庫」と訳される)が保険者となるのである。

 堤さんの近著に『社会保険の政策原理』(国際商業出版、平成30年11月)があるが、私が知りうる中で最も社会保険の原理原則にこだわった官僚が堤さんであった。今回寄稿していただいた『公共政策の選択』においても、そのことが窺い知れる。介護保険の制度設計が山を越えた頃、堤さんの本心を知ることができたが、それは当時、制度をすでに有していたドイツの方式に倣う方が良いというものであった。ドイツの介護保険は、事実上、医療保険と一体化された制度であり、わが国に導入された市町村を保険者とする独自の制度とは異なるものである。かといって組織人たる堤さんがそのことを公言しなかったことは言うまでもない。

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◆ はじめに

 いくつかの大学に公共政策大学院が設置されたり、新設される学部に“(総合)政策”といった名称を冠したりする大学も見受けられるようになった。政策を研究対象とする学問分野といえば、わが国最初の社会科学系の学会として社会政策学会の名を思い出すが、今は既に公共政策学会も存在し、広い意味での政策研究は花盛りの感がある。

 だが人間が一人一人異なる(これはDNAが同一でないから当然)以上、それら人間の様々な集まりが多様で複雑であることは言うまでもないし、当然、集団としての人間が作る制度や政策も複雑・多様であり、さらに誕生後、それが意想外の容貌を呈し始めることも珍しくない。したがって、公共政策の研究と言っても、前後・左右・表裏の多方面からアプローチしないと、その実相に迫ることは容易ではないし、多様なアプローチの結果、芥川の「藪の中」のように研究者によって異なる様相・評価を見せることもある。

 筆者は、厚生(労働)省でいくつかの社会保険の制度設計やその実施(運用の細目決定や個別問題への対応)に携わった経験があるが、当時、制度の意味・内容について持っていた認識と、それらの仕事から離れた後の捉え方ではかなりの隔たりがある場合が多いことも告白しておかねばなるまい。現役当時は目が近すぎて利害関係者の思惑などに関心が集中してしまい、目を離して制度・政策の“意味”について深く考えることが少なかったからか。

 最近、雑誌広告で佐藤 満『厚生労働省の政策過程の分析』(慈学社出版)という本が上梓されていることを知ったが、未読のため何とも言えぬものの、どのような切り口で「政策過程」に迫ったのか、その結果、「政策過程」はクリアに浮かび上がったのだろうか。仮に明晰で一義的な分析が叶っていなくとも、現に存在する制度や政策の多面的・複合的性格を照射できているとしたら、それをもって可とすべきであろう。結論もさることながら、方法と視座が明示され、制度や政策の多様な相貌を捉えることが肝要なのである。

 このように社会的な制度や政策の多くは複雑かつ多義的なのだが、世の中でそれらが議論の対象となるとき、とりわけメディアで取り上げられる場合、制度は一面的・表層的に捉えられ、一刀両断できるものと理解されてしまうことが多い。しかし、それは、国民が粘り強い思考力を養うことを阻害するだけでなく、実際には一刀両断できないことから、制度や政策ひいては政治自体に対する無用の不信を招くおそれがある。

 社会保障の分野でも、かつては内容の十分な議論を伴うことなく、医療(保険)制度の抜本的改革が必要だなどと声高に唱えられることが多かった。最近は「漸進的改良」を講ずるほかないことは関係者の共通理解となり、「抜本改革」は困難であって、無理をすると却って危険ですらあるという認識が拡がってきたと思われるが、今でも社会保障制度についてよく知らない経済学者が、クリシェ(常套句)のように“社会保障は改革が必要”と発言する例は後を絶たない。アンソニー・B・アトキンソンもこう書いている「(イギリスの)社会保障をめぐる今日の議論の多くはその制度的特長を無視したものだし、この点では経済学者はいちばん悪質だ」(『21世紀の不平等』東洋経済・邦訳 P293)。

◆ 制度政策の選択における考慮要因 1

 新しい制度政策を立案する過程は、目的と手段(財源も含む)の間の長いフィードバックの過程である。適切な手段が見当たらないとか、必要な財源の確保のめどが立たないといった理由で、目的自体の変更が余儀なくされることも多い。このことを前提としたうえで、制度政策の立案過程ではどのような要素が考慮されるかを、筆者の経験も踏まえて、主に社会保障に関する制度・政策を素材としつつ、概括してみよう。

 まず、制度・政策を作ろうとする目的をどこに置くかである。もちろん、その目的が、社会的・経済的状況に照らし、国民にとって必要であり、望ましいものであることが大前提である。しかし、仮に国民にとっての必要性が認められると言っても、当然に国が行うべき政策となるとは限らない。敢えて国が政策として取り組まない方が良いものもあろうし、国民自身や民間組織の取組みに委ねた方が望ましい場合もある。このことは“仕事熱心”な官僚がいて、国民の政府への依存心が強いこの国では特に重要であろう。

 国が取り組むとなったら、次にその目的達成のための方法の選択が求められるが、社会保障の分野では社会保険の仕組みを用いるか、公費による給付制度(税制上の措置に拠る場合もある)によるかが重要な選択の第一関門となる。その際、対象となるニーズがリスクに当たるか否かといった制度工学的な吟味もさることながら、当該制度における国家と国民の関係性をどう捉えるのかという、国家哲学的な考察が必要となることを忘れてはなるまい。保険料拠出という「自助」が期せずしてニーズのある他者への給付にもなるという「共助」の仕組みである社会保険と、国が公費財源により一方的に給付するという「公助」の仕組みでは、国家と国民の位置付け・役割が異なるのである。

 社会保険のこのような基本性格は今に至るも的確に理解されているとは言い難く、社会保険料も租税も国が国民に課す負担という意味で本質は変わらないとする認識は根強い。だが、社会保険の契約的性格を踏まえるとき、これが単純にどちらでも構わないという選択ではないことは明らかであろう。国の在り様をどう考えるかということにも関わってくるからである。

 方法の選択が行われた後は、建築用語でいえば実施(詳細)設計の段階となるが、その際、払われる配慮は多岐にわたる。対象者の範囲の設定や給付水準などにつき、財政への影響も含めて、実施容易性(Feasibility)・関連する他制度との整合性・他制度への波及可能性などが広範に考慮の対象となる。また、実施を担う団体や機関をどうするかも重要な方法上の選択である。
 このほか、制度を改正することも重要な政策であるが、その場合、既定の制度の基本決定(当該制度の基本的性格を決定する原理原則)との首尾一貫性も問われることとなる。社会保障をめぐる訴訟においては、立法裁量が広く認められる傾向があるが、近年は司法もこの首尾一貫性審査を重視しつつあるようだ(例えば、学生無年金者訴訟に関する東京地裁平成16年3月24日民事第3部判決)。

 最近、医療保険などにおいて応能的給付論(所得水準に応じて給付に差を設けること。既に導入されている例で言えば、介護保険において所得水準に応じて利用者負担が1割・2割・3割と設定されているなど)が唱えられているが、これも筆者から見れば、“保険料は所得水準に応じて負担してもらう一方、給付は所得水準に関係なく一律に行う”という医療保険の基本決定に反するのではないかという疑問を禁じ得ない。

 “所得に応じて保険料負担を求めることは心苦しい(民間保険ではあり得ない)が、給付は所得とは関係なく一律に行いますので、そこを了として社会保険に加入してください”ということが、すべての国民に加入義務を課した上で、所得に応じた保険料を求める際の大前提ではなかったか。これを否定する応能的給付を導入しておいて、負担の不公平に不満を抱く高所得者に医療保険からの脱退要求を踏みとどまるよう説得できるだろうか。
 この議論が、加入強制という社会保険における最も弱い環を直撃するものだという透徹した認識は忘れるべきではない。なお念のために付言しておくと、高所得・高資産の者の負担は、給付との対価関係にある社会保険料ではなく、課税において考慮されるべき問題であることは言うまでもない。

 社会保障以外の世界で、制度の基本決定との首尾一貫性という観点から疑問がある制度改正もある。地方団体からの受益に対する住民負担という性格を基本とする地方税制度に加えられた、ヘンな特例納税制度もそのひとつであろう。筆者の住む東京都某区の広報誌に、当該特例納税制度により22億円の減収となっており、国に是正を要望している旨の区長談話が出ていたが、自ら住む地方団体に納めるべき住民税を他の地方団体に納めた人に対しても、住所地の地方団体はしっかり住民税を納めた人と同じレベルの住民サービスを提供しなければならないのだろうか。

 この特例納税の制度化を担当の官僚に命じた権限ある政治家は、官僚は(はじめは四の五の言っても)政治家が人事権限を背景にして命じたことについてはちゃんと取り組むものだと述べているらしいが、これは官僚の職業倫理の半分しか理解していない謬見と言ってよい。官僚は組織の一員として権限ある者の命令に従い、その範囲内で可能な限りの合理性を追求するが、他方、全体の奉仕者として、組織が担う制度の公正な運営にも責任を負うのである(近時、これを弁えない官僚が一部いることは情けない)。

 言うまでもなく、地方税制度を公正に運営することの内実として、地方税制の基本決定の首尾一貫性を維持することが当然に含まれる。ここでの権限ある政治家の言い分は、喩えとして適切か否かはともかく、あの無謀なインパール作戦の指揮官から、その分担実施を命じられた将官が、犠牲のみ多く成功の見込みがないことは分かっていながら、自らの職務の範囲内で最善を尽くそうとするのと似ている。
 しかし、だからと言って非合理的な作戦を立案・指示した上級者の責任が解除されることはあり得ない。地方税の基本決定の首尾一貫性が損なわれた結果、将来、生じるかもしれない地方財政に歪みについての責めは、当然、それを命じた権限ある政治家が担うべきであろう。

◆ 制度政策の選択における考慮要因 2

 ここまで、やや表向きのことばかり書き過ぎたようである。何事にも表には裏が、建前(客観的「理由」)には隠された本音(主観的「動機」)があるものである。国会に提出される法案には、その末尾に当該法律案を提出する「理由」なるものが掲げられているが、そこに書かれているのは客観的な「原因」ですらなく、殆ど法律案の骨子の反復(トートロジー)に過ぎない。制度や政策の選択要因を知るには、その客観的「理由」のみでなく、選択した者の主観的「動機」を知ることも有効である。

 では実際、制度政策を立案する際に考慮される主観的「動機」は何だろうか。政府部内での制度政策の立案にあたって最も多く勘案される事柄のひとつは、制度政策に纏わる利害関係者の反応である。制度政策により恩恵を受ける関係者が存在し、それらの要望に応えるのも民主主義下の“政治”であるから、利害関係者の反応に注意を傾けること自体は否定されるべきではない。問題は、利害関係者間のバランスを取ることが「動機」として自己目的化し、制度の対象者である国民の利害が、つい考慮の外になってしまうことである。それを防ぐには、利害関係団体の声のみでなく、その向こうにいるはずの国民のニーズを捉える努力が欠かせない。それを支えるのはさまざまなメディアであろうし、現場の実態を理解し、その要望を吸い上げる独自のパイプも必要だろう。

 だが、制度政策立案の主観的「動機」にはもっと不純なものもある。いくつか拾い上げれば、まず組織としての面子に拘る心性である。“○○の威信にかけて”とか“○○の威信に傷が付く”という言葉が出てきたら、それは国民より組織が大事だということの吐露にほかならない。さらに、組織利害の保持(関連団体を含む組織の拡大)や個人的な功名心(〇〇改革をやり遂げた局長など)が忍び込むこともある。

 組織利害と近似しているのが予算の獲得である(旧陸海軍の予算獲得への執着を思い起こされたい)。公費財源による事業予算は、保険料という歯止めのある社会保険とは異なり、相手方の財政当局さえ説得しさえすればいいから、使い勝手の良い予算の獲得は手柄と目される。
 そのなかでも特に補正予算の場合は、政治的に決まった枠に要求を当て嵌めることが多く、要求を枠内に収める当初予算と比べると財政当局のチェックが格段に弱いこともあり、問題が多い。近時の補正予算の内容には杜撰で見るに耐えないものもある。公債発行に歯止めが利かなくなった国家における財政の統制は、民主主義国家ではほとんど不可能に近いと観念すべきなのか。

 最後に、本来は制度政策の立案時に考慮すべき要素であるが、当該制度政策がもたらす効果や影響についての検討・吟味について触れたい。制度や政策は当初の目的・効果を首尾よく実現する(実現しなかった場合/失敗に終わった場合は、それはそれとしてしっかりと総括・反省しなければならない)こともあるが、想定していなかった副作用や影響が出てくることもある。人間や社会は複雑であるから、ひとつの制度政策が及ぼす影響を事前に完全に予想するのは極めて難しい。

 老人医療費の無料化の弊害くらいは当然、予想すべきであったが、診療報酬の世界などを見ると、医療界の反応が予想から外れることは、日常的とは言わないが、茶飯事とは言えるのではないか。影響・副作用が当該制度政策分野に収まっている場合であればよいが、その分野を超えて社会の構成にまで影響を及ぼす場合には、制度政策の影響・副作用についてどれほど深く考察したかが問われることとなる。

 文部(科学)省は、義務教育費等の予算を確保するためか、国立大学の授業料等を長年にわたって引き上げてきたが、その結果、一部の学部を除き、国公立と私立大学の間の授業料等の格差が縮小し、有名国立大学入学者の親の所得水準は相当に上がってきているという。結果として広義での教育の機会均等化に反するのみならず、日本社会の階層分化を固定することになっているのではないか。このことは、近年の大学改革や入試改革についても当てはまる。教育に関する制度政策が長期的・総合的・俯瞰的でなければならないことが痛感されるところである。

◆ 例題としてのベーシックインカム

 近時、首相のブレインとされる人からベーシックインカム(以下「BI」という)の話が出たとかいうことで、世の議論を読んでいる。社会保障に纏わる諸問題を一刀両断に解決する究極の案という理解もあるようだ。全面的な「公助」の制度となるBIが「公助」を最後に位置づける首相のブレインから出てくる不可思議はさておき、公共政策の選択に関する例題として、このBIを取り上げ、以上に述べ来ったところを敷衍してみよう。

 BIは、1970~80年代以降、特にヨーロッパ各国で登場した。オートメーション化・IT化などにより労働生産性が上昇し、労働力過剰となって完全雇用が困難となった結果、失業状態の慢性化・低賃金非正規労働者の増加と、それに伴う社会的排除という経済社会情勢のなかで、就労と結びついた福祉国家システムへの懐疑を背景に、就労と福祉を切り離そうという発想である。
 最近はAIの普及に伴う雇用情勢の悪化への対応として、AI→BIを主張する語呂合わせまで現れている。BIの提案には、程度や条件に関し、さまざまなタイプがあり、論者の思想的立場も新自由主義から社会主義まで幅広い。いずれにも共通して、社会保障制度の複雑化に伴う行政事務の煩雑化/非効率性や専門家支配の傾向に対する反発が底流にあるようだ。

 提案されているBIには、狭義のBIであっても完全なBIから、部分的BIや過渡的BIがあるほか、BIと謳っていなくとも、市場社会主義の下ですべての者が社会化された企業の協同株主となって無条件で配当を受ける「社会配当」、一定の社会的活動への参加を条件として支給される「参加所得」、税制上の控除が及ばない課税最低限以下の者に支給する「負の所得税」なども、広義ではBIと捉えられることもある。

 ここではBIの純粋形として、各個人に定期的に無条件で支払われる相当程度の額(生活保護水準と同等以上の額)の現金給付という前提で検討を進めよう。なお、BIの財源は租税であり、勤労収入があっても減額なしであるが、一定の国内居住要件は課されるものとする。

 BIを制度化するか否かについての検討の第1関門は、やはりBIを巡る国の責任と国民との関係性である。そもそも国が、ニーズの有無にかかわらず全国民にBIを支給する根拠は何か。その責任はどこから由来するのか。

 社会保障制度が複雑化したからとか、生活保護は受給者にスティグマを与えるからBIだというのは本末転倒の議論である。生活上の困難を抱えた人に対する保障が国の責任であることは憲法上も宣明されているが、より一般的な国民に対する国の責任は、国民の安全保障のほか、契約(市民法)のシステムを確立するとともに、教育制度を整え、治安維持やインフラなどの公共財の供給を怠りなく行うことである。
 それらを超えて、全国民にBIを支給する責任を見出すことができるのか。国民は国家公務員ではないのだ。また、国民の側から見れば、BIの請求権はどこまで認められるのかという問題もある。国が財政難を理由にBIの額を引下げた場合、それに異議を申し立てることはできるのか。それは憲法のどの条項に基づく権利なのか。憲法25条を根拠にそれができるのか。

 次に考えるべきは具体的なBIの制度設計である。BIの水準にもよるが、生活保護・失業保険・児童手当・基礎年金(社会保険方式の切り替えに伴う問題は別にして)などの所得補償はBIに置き換えるとして、医療や介護・障害福祉などの特別な生活ニーズに対応する現物サービスの補償はどうするのか。医療や介護の保険制度まで公費財源の制度に置き換えることができるのか。

 仮に保険制度として存続させるとしても、BIはそれらの保険料負担に耐えられる額とする必要があろう。その場合、BIは定額であるから、そこに含まれる保険料相当分も定額となり、結果として、中低所得層に重い負担となるはずである。また、置き換えの第1候補である生活保護にしても、現在のような特別のニーズに着目した各種の扶助や特別基準・加算の制度が採用されるとは、BIの性格上、考えにくい。となれば、障害者などの特別のニーズのある者にとってBIは酷薄な制度となろう。

 さらに厚生年金などの扱いも悩ましい問題である。期待権を持たせてしまった現行の被用者年金の被保険者にどう対応するのか。その難問を横においても、それらの者について民間年金への加入で代替できるのか。任意加入の民間保険では中小・零細企業に勤める者が現在の被用者年金と同程度の保障が受けられるとは想像しがたい。

 また、BIの財源をどうするかも問題である。所得課税であれ、消費課税であれ、BIの費用を賄うには現在より高い税率となるはずだが、その負担に国民や企業は耐えられるのか。
 また所得課税による税収をBIに充てるとした場合、懸命に働いた者からの税収で働かない者へのBIを賄うことは不公正ではないのか。消費課税で賄うとした場合、逆進性のある消費課税による一律無条件のBI支給では所得再分配にはならないという疑問もある。

 無条件のBI支給により、人々の勤労観はどう変わるのか、あるいは変わらないのか。そもそも市場社会における賃労働は苦役でしかなく、できる限り避けるべきものなのか。イギリス救貧法(スピーナムランド法)のように、怠惰を助長し、低賃金を固定する結果となるおそれはないか。巨額のBI支給が人々の行動をどのように変容させるのか、社会の資源配分にどのような影響をあたえるのか、予想すら困難である。
 BIの導入により労働時間が短縮され、人々は賃労働以外の有用な活動に従事できるようになるというのがBI論者の描く夢の世界であるが、本当にそうなるのだろうか。女性や障害者の労働への参入を阻害する結果となるのではないか。

 筆者がBI導入による影響で最も危惧するのは、国がBIを支給することにより、国民が国に対して今以上に依存的となり、逆に国は国民に対して圧制的になるのではないかということである。国が暴走して戦争でもしようとするとき、日々の生活費をくれる国に対して国民はどこまで抵抗できるのか。
 そこまで行かなくとも、BIが導入された後、マスデモクラシー下では国家財政を無視した政党間のBI引上げ競争を招くかもしれず、他方、財政的見地からBIの抑制を打ち出した政府は、月々のお給金が減る国民の怨嗟になるだろう。

 BIにより国と国民がべったりと直接向き合うことは、このように政治的対立と社会の不安定を手繰り寄せることになりかねない。全国民を丸抱えしようとするのがBIの国家イメージであるが、鬱陶しさの感は免れない。国と国民の間には、適度な距離が必要なのだ。

 (元・厚生労働省老健局長/元・大阪大学大学院人間科学研究科教授)

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