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加藤宣幸さん 2月17日ご命日にあたって想うこと

仲井 富

 先日、買い物に出かけた飯田橋で偶然、加藤真希子さんに出会った。そして2月17日が加藤宣幸さんの命日だと思いだした。もうそんなに過ぎたのだと思い、3年前の新潟行きと亡くなる前日の会話を思い出した。

 1月には93歳の加藤さんを誘って新潟市まで行き、野党共闘の仕掛け人の一人である中山均市議お会いした。さらに新潟米軍飛行場拡張反対闘争の資料集めに、地元に帰郷していた福岡愛子さんとともに、県立図書館に行った。その時は、加藤さんは百歳までは大丈夫と確信していたところだった。

 マンションの一室に安置された加藤さんの顔は、まさに生けるが如く安らかに眠っておられた。あの日の前日、加藤さんと最後に交わした会話を思い出した。玄関で別れる時、マンション内にあふれかえる書籍を指差して「この本や資料、なんとかしなければ」と私が言い、加藤さんも「そうだなあ」と答えたのが最後だった。

 個人的感懐で言えば、私は東京の左派社会党青年部事務局長として赴任し、港区桜川町にあった左派社会党本部に1955年10月1日出勤した。しかし同月13日には左右社会党統一大会が開かれた。党本部は三宅坂に移り、配属されたのが加藤勘十さんを長とする軍亊基地委員会だった。以降、社会党軍事基地委員会書記として砂川現地に派遣された。

 60年安保以降は、江田三郎の構造改革論の提起以来、これを主導した加藤宣幸さんら幹部書記の下で、派閥オルグとして全国を回る役割を課せられた。加藤親子二代にわたる因縁による社会党書記時代だった。星霜51年、最後まで加藤宣幸さんとのつきあいは続いた。

 いまや多くの同志はこの世を去り、あるいは病の床にある。93歳の頑健な加藤さんのお陰で、まだ若造だと思うことが多かった私自身、今や88歳の老兵である。戦後、19歳にして社会党青年部をつくった加藤さんの急逝によって、戦後社会党の時代は完全に終わったと自覚せざるをえない。戦後社会党は、1994年の村山党首の時代、まさかの自社さ連立政権によって自滅崩壊した。その後の民主党政権の3年間を除いては、自公連立政権がつづいている。社会党は社民党と名前を変えたがほぼ消滅した。

 民主党も政権時代の根本的総括や謝罪もなく、党名を次々に変えたが失敗の連続である。党名を変えても今なお当時の幹部がその中心である。直近の2月8日のNHK世論調査でも政党支持率は自民35.1%、立憲6.8%だ。この傾向はすべての世論調査に大なり小なり共通している。
 「敵を知り己を知れば百戦危うからず」というが、枝野氏は己を知るべきだ。菅直人民主党政権末期の民主党支持率は18%で自民支持率24.8%と逆転していた(「政治関心度と内閣・政党支持率に関する全国世論調査」2010年5月~2012年1月 トラッキング調査株式会社 日本リサーチセンター)。

 (世論構造研究会代表・『オルタ広場』編集委員)
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