加藤宣幸さん追悼文

福岡 愛子

 この機会にじっくりふりかえってみますと、私が岡田充さんを通じて加藤さんとメールマガジン『オルタ』に出会ったのは、2013年のことでした。尖閣諸島をめぐって、岡田さんが「領土ナショナリズム」と称したような感情的反日・反中現象が噴出した頃です。そのような状況に危機感を抱いた東アジア関係のジャーナリスト・研究者たちが集まって国際シンポジウムが開かれ、私が書き留めたそのシンポジウムのレポートを、『オルタ』に掲載してはどうかとお誘いいただいたのでした。

 それからというもの加藤さんは、ご自分よりも若い世代、特に女性たちにもっと執筆してもらいたいからと、様々な機会を与えてくださいました。何よりもありがたかったのは、いろいろな運動経験のある幅広い世代の人たちをご紹介くださったことです。砂川平和ひろばの福島京子さんは、そのなかで数少ない同世代の女性でした。2015年の春、一緒に沖縄に行ってみないかと提案され、初めての沖縄経験で、「現場を体験する」「当事者の声に耳を傾ける」という私自身の研究姿勢が一層強まったように思います。

 しかし加藤さんと出会った2013年は、私にとって、新潟の父が要介護状態になり母も体調をくずし始めた時期でもありました。年々老化の加速は否めなかったものの、父は91歳まで健康的な生活を送りながら急に寝たきりとなってしまいました。わずか3歳しか違わない加藤さんの健脚ぶりと活力が、実に驚異的なことに思えました。
 加藤さんご自身は、『オルタ』を若い世代に引き継いでもらいたい、という御意向をよく口にしておられました。しかし、加藤さんの精力的な活動を肩代わりできる人などいるはずもなく、私も東京—新潟間の往復が頻繁になるにつれ、当初のご期待に沿うことさえ難しくなっていきました。

 それでも新潟の実家では、地域医療・介護体制が整うと、私自身の実際の負担は軽減され、新潟に帰る度に地元の市民運動や研究者グループと交流するゆとりが出てきました。昨年、やはり『オルタ』を通じて知り合った仲井富さんが「新潟での野党共闘三連勝」に興味をもたれたとき、私もささやかな地元の人脈をたよりに、お手伝いをすることができました。
 今年早々、新潟を訪問して市議や活動家へのインタビューなどを実施することになって、加藤さんも意欲的に参加されました。寒さ厳しいさなかでしたのでタクシーの有効活用で乗り切りましたが、結局タクシー代はすべて加藤さんが支払って下さり、おかげで二日間の日程を無事終えることができました。
 そしてほっとして実家に泊まったその日の夜に、昨年来衰弱の進んでいた父の容態が急変し、96歳の生涯を閉じました。

 加藤さんと仲井さんは帰京後もお元気なはずと思っていたものですから、2月下旬、久々に東京で仲井さんと再会し開口一番に加藤さん急逝の報を伺ったときは、まさに絶句しました。本当に信じがたいことでしたが、亡くなられたときのご様子をうかがって納得するとともに、深い感動も覚えました。加藤さんが亡くなられた2月17日は、私の68歳の誕生日でした。

 どんなに高齢でも、ましてや加藤さんのようにあまりにも潔く旅立たれた場合には、ご遺族の悲しみはいかばかりかとお察しいたします。心からお悔やみ申し上げます。
 わが身の行く末もままなりませんが、私も加藤さんへの感謝を胸に、最後まであきらめずに精一杯、できること、やるべきことを続けたいと思います。
 2018年4月12日

 (社会学者、翻訳家、「オルタ」編集委員)

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