【「労働映画」のリアル】
第10回 労働映画のスターたち・邦画編(10)
●労働映画のスターたち・邦画編(10)<北林谷栄>
《半世紀かけて完成させた「おばあさん」という仕事》
「老婆といえば北林」とまで言われた、日本を代表する「おばあさん女優」。30代から老け役に取り組み、戦後日本映画の数々の名作に「母さん」や「婆さん」役として登場。舞台・テレビ・ラジオなど様々な媒体で、半世紀以上にわたり「老婆」であり続けた稀有な存在。その業績はあまりにも大きく、僅かな紙面にまとめることは到底不可能だが、「労働映画」の視点から女優・北林谷栄の作品を時代順に追っていくと、彼女がどのように「おばあさん」像を作り上げ、そこにどんな思いをこめていたのかが、ちょっとだけ見えてくる。残された膨大なフィルモグラフィーは、昭和の時代に様々な場所で生きた「名もなき庶民」の女性たちを、演技を通して「記録」し続ける仕事だったのかも知れない。
1911年、明治の末の44年生まれ。東京・銀座の洋酒問屋のお嬢さんで、本名は「安藤令子」。文明開化の赤レンガ街で育った、当時としてはかなりハイカラな生い立ちは、後年専ら演じる役柄とは正反対に思えて興味深い。自伝的エッセイ集『蓮以子八〇歳』(1998年、新樹社)によれば、12歳の時に起きた関東大震災で家と店が焼け、彼女の「ふるさと」としての銀座は消えてしまった。また、震災の混乱の中で自警団に虐殺された在日朝鮮人の遺体を目撃し、その後もずっと「申し訳ない気持ち」を抱き続けてきたという。
その後、彼女は父方の祖母の隠居所に身を寄せ、ここでの祖母との生活が、後の「おばあさん」役の基盤となった。20歳の時に新劇女優を志し、創作座や新協劇団の舞台に立つようになる。
最初に出演した映画は、菊池寛・原作、成瀬巳喜男監督の『禍福』(1937)。ヒロイン・入江たか子が働く銀座の高級ブティックの先輩店員役で、築地明石町の洋風アパートに一人で暮らす、最先端のキャリアウーマン。北林が「若い娘」役を演じた映画は、後にも先にもこれ一本だけのような気がする。当時は26歳だから当然なのだが、その後のキャリアを知った目で見ると、「人に歴史あり」と実感させられる。
1940年、新協劇団は治安維持法により強制的に解散させられ、北林は宇野重吉らとともに、農文協直属の巡回劇団「瑞穂劇団」に参加。ここで共演者の宇野が強く勧めたことから、初めて老女役を演じた。30代に入ったばかりの彼女に、おばあさんの「素質」を見出したのは宇野であり、日本を代表する「おばあさん女優」は、戦時中の食糧増産奨励演劇から誕生したことになる。
戦後、1950年の劇団民藝創立に参加。幹部女優として活躍する一方、映画やテレビにも出演するようになる。『原爆の子』(1952/監督・新藤兼人)、『ビルマの竪琴』(1956/市川崑)、『オモニと少年』(1958/森園忠)、『キクとイサム』(1959/今井正)、『にあんちゃん』(1959/今村昌平)など、数々の名作で「名もなき庶民」として生きてきた老婆を演じた。この時、北林はまだ40代だったことにあらためて驚かされる。
『ビルマの竪琴』では、抑留中の日本兵たちと片言の日本語で交流する、現地の物売り婆さんの役。1985年に市川崑監督がリメイクした映画でも、北林は全く同じ役で画面に現れる。両作品を比較してみると、70代で出演したリメイク版の方が、自然体に見えるのは言うまでもないが、オリジナル版の、なんとも不思議な「フィクション」をまとった老婆も、独特の味わいがあって捨てがたい。
『キクとイサム』では、山里で混血児の姉弟を引き取って暮らすお婆さん。この時の衣装は、盛岡の朝市に花や野菜を売りに来た農家のおばさんたちを見て歩き、「これだ!」と思った人にお願いして、身ぐるみ一切を新品と交換してもらったもの。北林の自宅には、こうした“生活の苦汁がしみこんだ”“生きたキモノ”が多数保管されていたそうで、ある意味「文化財」でもある衣装が、彼女が演技を作り上げる上での重要なアイテムとなっていた。
40代で「おばあさん女優」としてブレイクした北林。シリアスな作品のみならずコメディでも、いささかオーバーアクト気味な「婆さん」役で笑わせた。嫁と小姑のバトルに翻弄される婆やに扮した『婚期』(1961/吉村公三郎)などは絶品。
《野心的な作り手たちと挑んだ「おばあさん vs. 国家」》
「おばあさん女優」の第一人者となった北林。その存在感に魅了された各界の作り手たちは、彼女を起用して野心的な企画にチャレンジするようになる。『キクとイサム』の監督・今井正、脚本・水木洋子のコンビは、北林とミヤコ蝶々という「東西二大老婆」の競演で『喜劇 にっぽんのお婆ぁちゃん』(1962)を製作。当時まだ注目されていなかった高齢者問題を、老年スター勢揃いで賑やかに描いた社会派喜劇が生まれた。
1960年に放送されたNHKラジオドラマ、小山祐士・作『神部ハナという女の一生』は、瀬戸内海沿岸に住むハナ婆さんが、老刑事(藤原釜足)の取り調べを受ける場面から始まる。彼女は戦前、9人の子供を産んで国から表彰された「母の鑑」だったが、子供たちは全員戦争から帰って来ず、夫も原爆で失い、戦後は原爆の後遺症に怯える妊婦たちのために、違法な堕胎を繰り返していた。お婆さんの「犯罪」を取り締まる役目の刑事は、再び核戦争へと向かいつつある世界情勢を眺めながら、どちらの「罪」の方が重いのか悩み始める。北林独特のとぼけた口調で淡々と語られる「庶民の人生」は、どんなに立派な演説でも敵わない、大地に根の生えたような力強さを発揮していく。このラジオドラマは1962年に戯曲『泰山木の木の下で』として書き直され、北林の舞台での代表作となった。
1970年の松竹映画『喜劇 あゝ軍歌』は、世相を諷刺した「重喜劇」で知られる前田陽一監督作品。戦没者を祀る「某神社」にやって来た老婆が、フランキー堺・財津一郎の戦友コンビから、実は息子は外ならぬ日本軍に殺されたことを告白される。老婆は「息子のための神社」を新たに作ろうと、8月15日の「黙祷」の時間を悪用した賽銭泥棒計画を企む…という、いま見直すと数倍面白くなっているのが確実な物語。絵に描いたような「しわくちゃ」のお婆さんが嘆き、怒り、そして喜ぶ姿を、北林が楽しそうに演じている。
同じく1970年には、石牟礼道子のノンフィクションを基にしたテレビドキュメンタリー『苦海浄土』にも出演。RKB毎日放送のディレクター・木村栄文は、水俣病患者や遺族の思いを「そのまま」の形で映像化しようと考え、琵琶瞽女(ごぜ)に扮した北林が町を彷徨い、地元の人々と出会っていく構成にした。今で言うところの「フェイク・ドキュメンタリー」の手法で、チッソの社員が彼女を本物の瞽女さんだと信じ込み、お金を置いていく場面まで出てくる。虚実を交錯させながら世界の本質を掴み取ろうとする木村の試みは高く評価され、その後も三國連太郎、高倉健らを起用した斬新なドキュメンタリーを送り出していった。
山田太一のシナリオを北海道放送がドラマ化した、東芝日曜劇場『終りの一日』(1975/演出・甫喜本宏)は、北海道の漁師町で中学教師を続けてきた戦争未亡人が主人公。アッツ島の戦いで夫を失い、30年以上独り身だった彼女は、「物音一つ立てるのにも周りに気を遣って生きてきた」自らの人生を振り返る。当時60代の北林にとっては「実年齢より若い役」という珍しい作品。
1970〜80年代は上品な「おばあさま」といった役柄が次第に多くなり、映画『華麗なる一族』(1974/山本薩夫)では首相夫人まで演じるようになったが、銀座生まれの彼女のこと、むしろ自然に演じている感じが、見ていて好ましかった。
そして1991年、岡本喜八監督の映画『大誘拐 RAINBOW KIDS』で、和歌山の山林地主・柳川とし子刀自を演じ、数ある「老婆」役の集大成的な作品となった。82歳の「大奥様」が3人組の誘拐犯に囚われるが、彼女は犯人たちに身代金100億円という法外な要求を出させ、自ら指揮をとって犯行を進めていく。犯人と身代金はきれいに消え、刀自は無事に戻ってきたが、あまりにも周到な計画に疑問を持った県警本部長(緒形拳)は、首謀者は刀自だったことに気づき、彼女に動機を尋ねる。ここからのひとり語りは、『神部ハナという女の一生』にもつながる北林の独壇場。「お国って、私にはいったい何やったんや」と呟く刀自の言葉は、昭和の時代に「お国」に翻弄されてきた「おばあさん」たちの声となって、後に続く世代に貴重な教訓を与えてくれる。
国民的アニメ『となりのトトロ』(1988/宮崎駿)、90代に入ってからの『阿弥陀堂だより』(2002/小泉堯史)、『黄泉がえり』(2003/塩田明彦)など、まだまだ取り上げたい作品はたくさんあるが紙面が尽きた。2010年に98歳で旅立たれた女優・北林谷栄さん。願わくば、現存する出演作品を集めた「北林谷栄映画祭」をどこかで開催してほしい。彼女が演じ続けた「庶民」像こそ、20世紀の文化そのものという気もするのです。
(しみず ひろゆき、映像ディレクター・映画祭コーディネーター)
____________________
●労働映画短信
◎【上映情報】労働映画列島! 7〜8月
※《労働映画列島》で検索! http://d.hatena.ne.jp/shimizu4310/00160703
◇新作ロードショー
『あなた、その川を渡らないで』《7月30日(土)から 東京 シネスイッチ銀座ほかで公開》98歳のおじいさんと89歳のおばあさん、結婚76年目にして仲むつまじく暮らす老夫婦の日々を記録したドキュメンタリー。(2014年 韓国 監督:チン・モヨン) http://anata-river.com
『奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ』《8月6日(土)から 東京 恵比寿ガーデンシネマほかで公開》パリ郊外の、貧困層が多く通う高校に赴任したベテラン歴史教師と、劣等生たちとの交流を描くヒューマンドラマ。(2014年 フランス 監督:マリー=カスティーユ・マンシヨン=シャール) http://kisekinokyoshitsu.jp
『五島のトラさん』《6月18日(土)から ユナイテッド・シネマ長崎ほか、8月6日(土)から 東京 ポレポレ東中野で公開》テレビ長崎が製作したドキュメンタリー。五島列島でうどんの製麺業と天然塩の製造をしているトラさん一家9人の暮らしを、22年にわたり継続取材。(2016年 日本 監督:大浦勝) http://www.ktn.co.jp/torasan/
◇名画座・特集上映
【東京 池袋 新文芸坐】7/24〜27・8/1〜5「独立プロの巨匠 山本薩夫 今井正」…荷車の歌/どっこい生きてる/他
【東京 シネマヴェーラ渋谷】7/30〜9/2「映画史上の名作15」…ドクター・ジャック/南部の人/サマー・ストック/他
【東京 神保町シアター】8/6〜26「鉄道映画コレクション」…家族/喜劇 大安旅行/ある機関助士/指導物語/他
【東京 ラピュタ阿佐ヶ谷】8/14〜10/15「稀代のエンターテイナー!フランキー太陽傳」…ぶっつけ本番/地方記者/他
【横浜シネマリン】7/23〜8/12「市川崑 光と影の仕草」…ぼんち/私は二歳/あの手この手/他
【山形市中央公民館】8/6・7「第2回 やまがた市民映画学校」…悪名/嵐を呼ぶ男/暁の脱走/他
【京都文化博物館】7/18〜8/9「夏休み子ども映画特集」…生れてはみたけれど/馬/愛と希望の街/他
【大阪 九条 シネ・ヌーヴォ】7/23〜8/19「映画監督・鈴木英夫の全貌」…大番頭小番頭/その場所に女ありて/他
【シネマ神戸】8/13〜19 …レヴェナント 蘇えりし者/チリ33人 希望の軌跡(2本立)
【広島 シネツイン】8/1〜「今井正監督特集」…青い山脈/また逢う日まで/真昼の暗黒/純愛物語
【山口情報芸術センター】8/12〜14「真夏の夜の星空上映会」…シェフ 三つ星フードトラック始めました/他
【福岡市総合図書館・シネラ】8/3〜7「アニメーション映画特集」…太陽の王子 ホルスの大冒険/おこんじょうるり/他
【湯布院公民館 他】8/24〜28「第41回 湯布院映画祭」…お父さんのバックドロップ/種まく旅人 夢のつぎ木/他フラワーショウ!
◎日本の労働映画百選
働く文化ネット労働映画百選選考委員会は、2014年10月以来、1年半をかけて、映画は日本の仕事と暮らし、働く人たちの悩みと希望、働くことの意義と喜びをどのように描いてきたのかについて検討を重ねてきました。その成果をふまえて、このたび働くことの今とこれからについて考えるために、一世紀余の映画史の中から百本の作品を選びました。
『日本の労働映画百選』記念シンポジウムと映画上映会
http://hatarakubunka.net/symposium.html
・「日本の労働映画百選」公開記念のイベントを開催(働く文化ネット公式ブログ) http://hatarakubunka-net.hateblo.jp/entry/20160614/1465888612
・「日本の労働映画の一世紀」パネルディスカッション(働く文化ネット公式ブログ) http://hatarakubunka-net.hateblo.jp/entry/20160615/1465954077
・『日本の労働映画百選』報告書(表紙・目次) http://hatarakubunka.net/100sen_index.pdf
・日本の労働映画百選(一覧・年代別作品概要) http://hatarakubunka.net/100sen.pdf