■10 北の便り (2) 

私の「知床物語」        南 忠男

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去る7月14日、知床がユネスコの世界遺産委員会によって、世界自然遺産と

して登録された。わが国では、屋久島、白神山地についで三番目であるが、海域

と一体となっている点は前二者と異なる大きな特徴である。いつも観光客でにぎ

あう知床は今後どうなるのだろうか。観光と自然保護の矛盾。こんな疑念をいだ

きながら、とりあえず現地を確認すべく、10日後の24日急きょ現地に飛んだ。

 

予想されたように、斜里、羅臼の両町とも、祝賀ムードに包まれ、大型バスを

連ねた観光ツアーでごったがえしである。戦後60年をかえりみると、北海道は

多くの貴重な財産を失ってきた。知床自然を守るために何が必要であるかについ

て想いをめぐらす、これが、私の「知床物語」である。知床の今日は、まさに

「地の利、人の和」によって保たれてきたといえる。

知床の森と海の連動した生態系は、流氷が、1月中旬アムール河から海流に乗

って一月半をついやして知床にたどりつくが、アムール河の植物プランクトンが

春に知床の海で大増殖され、これを動物プランクトンがたべる。それが魚の餌と

なり、その魚を目当てにアザラシやオジロワシが集まる。他方、川を上るサケを

ヒグマが襲い、そのおこぼれに小動物があずかる。

そして動物たちの糞や死骸が土に戻って森の木々や草花をはぐくむ。アムール河

~海流~それを迎え入れる知床の雄大な突端・絶崖、これが地の利で、まさに神

から与えられたものである。

「人の和」を語る場合、和人が移住する以前の先住民族アイヌの生活から始め

なければならないが、この際は、戦後60年の歴史と重ね合わせて探求したい。

人の和にはそれを束ねる偉大なリーダーが存在しなければならないが、その人こ

そ、「知床百平方メートル運動」を提案し、先頭に立って実践してきた、元斜里

町長(1963~79年まで4期16年間在職)藤谷豊氏(すでに故人)である。

(私にとっても青年時代から薫陶を受け、師と仰ぐ人であるが、私的関係はこの

際省略する)。

氏は、釧路地方と十勝地方の接点ともなる音別村で生まれ、少年期を網走でお

くり、網走中学卒業後中国にわたって海運業に従事し、戦後間もなく1945年10

月)斜里町に移住して漁業をはじめる。この時期、海外からの引揚者が国策にそ

って知床に入植した。知床五湖に近い岩尾内地区であるが、その実態はまさに棄

民政策であった。この地は岩石の多い土地で羅臼おろしと呼ばれる強風で営農に

は無理なところで、大正から昭和初期にかけ二度も開拓に失敗し、悲惨な経験を

繰り返してきた。第三次になる戦後開拓も惨めで、大方が生活保護世帯に転落し

た。1965年、藤谷町長の発案で、斜里町市街地周辺に町営住宅を建てて、残留者

全員を移転させ、建設労働等々それぞれが職をえて元気をとりもどした。

一方、森繁久弥の「知床旅情」で第一次知床ブームがはじまる。そして例の列

島改造論にあおられた土地ブームで、この開墾跡地は民間デベロッパの標的にな

った。いったん彼らの手に渡れば乱開発がはじまるのは明白である。その面積は

180ヘクタールにも及ぶ。町が買収できれば簡単な話だが、オーツクの一寒村で

は不可能な話である。

知床国立公園を所管する環境庁(現環境省)も手をさしのべない。なすすべもな

い中で藤谷町長の脳裏に浮かんだのが、イギリスを元祖とする、いわゆるナショ

ナルトラスト運動であった。百平方メートル(30坪)単位で分譲する「知床で夢

を育てませんか!」の呼びかけに応えて、全国から知床を守るサポーターが結集

し、さらに拡大しつつある。これが人の和であり、そのリーダーが藤谷町長だっ

たのだ。

自然は人間の糧である、自然が冒されることによって人間の心も荒んできた。

戦争は最大の自然を破壊だ。戦後60年、戦争を否定した日本国憲法が危うくな

てきた。知床が平和の象徴世界自然遺産として光り輝かなければならない。今回

の世界遺産指定が逆に知床の自然を破壊することにならないか懸念される。知床

の自然を守りぬくため今何が必要かの私見を後日提案したい。

                             (筆者は元旭川大学経済学部講師)