【コラム】風と土のカルテ(95)

医学生時代の旅で見た「複雑な」ウクライナ

色平 哲郎

 もう38年も前のことになる。ウクライナで原発事故が発生する2年前、医学部学生だった私は、春休みを利用し新潟から旧ソビエト連邦(ロシア)のハバロフスクに渡った。厳冬のシベリア鉄道で1週間、寝台特急はヴォルガ川を渡ってモスクワに到着。車内で、浴衣に下駄で過ごしていたところ、「カラテ」「カラテ」と大いにモテた。モスクワで列車を乗り換え、南へ、温暖な海「黒海」に向かって真っすぐ下った。

 その3年前に生まれて初めて行った外国もロシアで、レニングラード(サンクトペテルブルグ)から列車でフィンランド国境を抜け、欧州へ。欧州側からロシアを眺め、両者の「違い」を自分なりに悟った。

 2度目の渡航ではモスクワから南下し、ウクライナ東部を経由、コーカサス地方に入ってグルジア(ジョージア)、そしてカスピ海を東に渡ってフェルガナ盆地の風土に触れたいものだと考えた。
 なぜ、そんな旅をしたのかと問われると、放浪癖が抜けなかったからだとしか言いようがない。ロシア語の初歩を教えてくれた故・森安達也東京大学教授(主著『東方キリスト教の世界』山川出版社)の影響もあろうか。文学や歴史に関心があり、そちらを専攻したいほどだったが、手に職つけるため医学部に入っていた。

 モスクワを発った列車は、広大な大地を南へ下った。しばらくは中央ロシアの標高100、200メートル程度の丘陵が車窓に見えていたが、ウクライナ第2の都市、ハリコフを過ぎると見渡す限りの大平原。真っ平な土地が、赤い夕日の地平線の彼方まで続く。阿蘇の草千里なんてものではない。どこまでも、どこまでも平らな大地が広がるのだ。人類史上、ウマを最初に家畜化したとされる、遊牧民の聖地「ポントス・カスピ海草原」である。

 座席にはカザフのおばあさん、モンゴルの血を引くブリヤート(バイカル湖周辺の地域)の幼子が、大柄なロシア人やウクライナ人、アルメニア人たちに混じって座っている。おじさんの1人はドイツ語が上手で「あっち(西)に真っすぐいけば、ベルリンだよ」と。多民族国家ならではの車内風景だった。
 ハリコフから南へ、列車がドンバスに着くと、炭鉱のせいか街全体がややくすんだように見えた。

 その昔、東方のモンゴル騎馬集団が平原を一気に駆け抜け、ロシア、ウクライナ、ポーランドまで版図を広げ、西欧の人々を震えあがらせたのもわかるような気がした。地続きで、山が全くないのだから、ウマで行くところまで行けたはずだ。

●山村の診療所に赴任する動機の1つに

 ウクライナのドニエプル川の東側は長く無人に近い荒蕪(こうぶ)地で、南方のオスマン帝国、ロシア、ポーランド3者の係争地として、現地語で「荒野」(あれの)と呼ばれた緩衝地帯だった。コサックたちの故郷でもあって、私の勝手なイメージでは、馬賊を生んだ「旧満洲」に似ている。次第に、帝政ロシアに組みこまれ、多くの人々が穀倉地帯の農奴として使役された。川の西側はポーランド領で欧州の風が吹き込む。

 18世紀半ば「貴族の天国、農民の地獄」といわれた女帝エカチェリーナ2世の治世で、非人間的な農奴への扱いが定着したのがウクライナだった。彼女の統治下、ポーランドは列強に分割されて消滅、ドニエプル川で分かつ西部もロシアに併合されて、宗教や言語、文化も多彩な人々が歴史の波にのまれていく。

 大平原を列車に揺られながら、「諸民族の牢獄」という言葉を思い出した。
 ロシア帝国は、侵略と征服の「力」で周辺諸民族を併合した。そのため帝国には様々な出自の人々が含まれ、政府は「正教、専制、ナロードノスチ(国民性)」の3原則で統治しようとする。宗教はロシア正教、政治はツァーリ(皇帝)の専制によって「国民性」が形作られるものと信じ、圧政を行った。

 しかし宗教1つ取っても、ポーランド系はカトリックが多く、ユダヤ系はユダヤ教、コーカサスそして中央アジアにはイスラム教を信仰する諸民族がいる。同じ列車で揺れられてはいても、それぞれの民族の胸の奥にある本音は多様だろう。考え方も行動様式も違う。逆説的に言えば、そのような諸民族を束ねるには「力」が必要だったともいえる。日本人に、ここはわかりにくい。

 ウクライナが生んだ国民的詩人で画家のタラス・シェフチェンコ(1814~1861)は、「遺言」という詩にこう綴る。

  わたしが死んだら、
  なつかしいウクライナの
  ひろびろとした草原(ステップ)にいだかれた
  高き塚(モヒラ)の上に葬ってほしい。
  果てしない野の連なりと
  ドニエプル、切り立つ崖が
  見渡せるように。
  哮(たけ)り立つとどろきが聞こえるように。
  ドニエプルの流れが
  ウクライナから敵の血を
  青い海へと流し去ったら、
  そのときこそ、野も山も──
  すべてを棄てよう、、、

  (藤井悦子編訳『シェフチェンコ詩集 コブザール』[群像社、2018])

 東部ウクライナを縦断した旅は、人々の暮らしの奥にある、圧政や暴力、怨念も含めた歴史、そして文化や民族性などを垣間見る貴重な機会を与えてくれた。
 住民の健康を守るには、単に身体だけ、単に病気だけを診ればいいというものではなさそうだ。生活の背景やその人の歩んできた人生、プライドやこだわりに目を向けなくてはならないと感じた。それが、医学部を卒業し、研修医を終えて、私が山村の診療所に赴任する動機の1つになったと思う。

 あの広大な緑の沃野が、今、戦火にまみれている。ロシアのプーチン大統領のふるまいは、かつてのツァーリを彷彿とさせ、世界中から指弾される。ただ、多民族国家の内情は複雑だ。表面的な報道ではつかみきれないものがあろう。とても一筋縄にはいかない、、、

 そして、今、一刻も早い停戦の実現を切望する。

 (長野県佐久総合病院医師、『オルタ広場』編集委員)

※この記事は著者の許諾を得て『日経メディカル』2022年3月31日号から転載したものですが、文責は『オルタ広場』編集部にあります。

(2022.4.20)
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