【コラム】
大原雄の『流儀』

南島紀行(4)~目取真俊・篇~

大原 雄

 9月30日に投開票が行われた沖縄知事選挙の結果、玉城デニーさんが当選。非常に強い台風24号が前日通過したばかりの沖縄。投票率も前回より低く、ちょっと警戒しながら、午後8時から始まった開票結果を待った。午後8時半前、NHKが、出口調査を元に「玉城デニー氏優勢」と報じ、1時間後には、台風報道の合間を見て、ニュース枠でも、「当確」と報じた。やがて、「当選」へ。安倍政権の自民内部でも、与野党でも、「一強多弱」という状態が続いていている中で、これを撃ち破る「快挙」と言えるだろう。

 確定得票数は、次の通り。
  玉城デニー:396,632(当選)  佐喜真淳:316,458

 8万票以上の差をつけての当選となった。沖縄知事選挙では過去最多の得票という。沖縄県民の判断は、冷静だった。台風、地震、安倍三選と災難続きの酸欠状態で閉塞感、窒息感のあった世の中で、久しぶりに、酸素ボンベにありついたという思いで、私も息がつけた。

 NHK当確報を受けた玉城事務所中継では、玉城さんが率先してカチャーシーを踊り出した。事務所に詰めかけた人たちも踊りの輪に加わる。指笛を吹く人もいる。カチャーシーは、テンポの速い沖縄民謡の演奏に合わせて踊る踊り。両手を頭上に挙げ、手首を回しながら左右に振る。ウチナーグチ(沖縄の言葉)で、「かき回し」という意味がある。踊る玉城さんの表情が爽やかなのが印象的だった。マスコミの報道によれば、玉城デニーさんは、「辺野古の新基地は認めない。普天間は、閉鎖・返還を日本政府とアメリカに求めて行きたい」と改めて強調したという。

 辺野古の新基地建設反対運動の最前線に立っている一人、作家の目取真俊さんは、自分のブログ「海鳴りの島から」に書いている。「8万票の大差をつけたのは大変なことだ。わったーうちなーんちゅ、うしぇーらんけー、という怒りと、ここで負けたら沖縄の主体性、自立性が根底から失われ、県民の分断と基地の固定化が進む、という危機感が、県民を投票に赴かせたのだろう」と分析し、「沖縄県民が死に物狂いで選挙をたたかい、結果を示しても、民意を踏みにじる安倍政権を支えているのは、大多数の日本人である。玉城さんが当選してよかった、ではない。安倍政権の沖縄に対する強硬策をヤマトゥの人たちは止めないといけない」と、訴えている。
 さあ、次は、私たちの出番だ。沖縄に続け。
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 「南島紀行」シリーズで取り上げているのは、今年の5月、三度目の沖縄行で出会った沖縄の作家・詩人たちだが、今回取り上げるのは、この時出会った人たちと違う。芥川賞受賞作家の目取真俊さんとは、沖縄行から戻った後、7月半ば、船橋市(千葉県)で開催された講演会場で出会った。出会ったというと不正確だろう。私は、一人の聴衆として会場の一隅で彼の話をじっくり聴いたのである。
 講演会は、船橋市習志野にある自衛隊の基地に反対する地域住民が主催したもので、目取真さんは、当日の早朝、沖縄・名護市の自宅を出て、午後6時半過ぎから始まる講演会に駆けつけてくれたのだ。目取真さんは、いつもどおり、深い色のサングラスをかけている。その前日の深夜に、その日の分の活動記録を自分のブログ「海鳴りの島から」に掲載していたので、講演に間に合うのかな、と密かにやきもきしていた。船橋市の隣町に住む私も地下鉄とJRを乗り継ぎ、会場に駆けつけた、というわけだ。

◆ 目取真俊という作家

 沖縄には、これまでに芥川賞を受賞した作家が4人いる。以下、敬称を略す。( )内は、芥川賞受賞作。大城立裕(「カクテル・パーティー」)、東峰夫(「オキナワの少年」)、又吉栄喜(「豚の報い」)、目取真俊(「水滴」)である。大城立裕(93)は、沖縄文学界の重鎮。今も執筆を続けている。残念ながら、5月の沖縄行では、お会いできなかった。
 東峰夫は、ある時期以降、文学から離れてしまった。又吉栄喜、目取真俊が、現役の作家というところだろうが、目取真俊は、沖縄の基地問題に取り組み、目下風雲急を告げている辺野古の新基地建設反対運動に参加して、文字通り体を張った戦い方をしている。沖縄では、直接お目にかかれなかった。又吉栄喜との出会いについては、『オルタ広場』2号連載の南島紀行(1)に書いている。

 目取真俊は、1960年生まれ。1997年の117回芥川賞を「水滴」で受賞し、2000年には、「魂込め(まぶいぐみ)」で、木山捷平文学賞と川端康成文学賞を受賞した作家である。目下のところ短編小説を主体に書いているが、受賞歴を見ると、短編小説を得手としていることは、間違い無いだろう。私は、彼の作品では、受賞作「水滴」を含む短編集『水滴』、短編集『魂込め(まぶいぐみ)』、短編集『群蝶の木』を読んでいる。この3冊で、13作品が所収されている。私が読んだ13作品とは、以下のようなものである。

 「水滴」「風音」「オキナワン・ブック・レヴュー」「魂込め(まぶいぐみ)」「ブラジルおじいの酒」「赤い椰子の葉」「軍鶏(タウチー)」「面影と連れて(うむかじとうちりてい)」「内海」「帰郷」「剥離」「署名」「群蝶の木」。

 このところは、作家は原稿用紙のマス目を埋めて小説を書く代わりに、連日のように、沖縄・辺野古の海にカヌーを漕ぎ出している。彼のブログ「海鳴りの島から」を見れば、彼の現在の活動ぶりを知ることができる。

 このブログには、皆さん自身でアクセスをし、直接原文を読んでほしいが、ちょっとだけ紹介しよう。その中で、彼は、ある日の行動を次のように書いている。「カヌーチームは午前17艇、午後13艇が抗議船2隻とともに、K4護岸の松田ぬ浜側を閉めきろうとする作業に抗議した」。目取真も、海側から抗議するため、カヌーに乗っている。「辺野古新基地建設は、海では海保に、陸では機動隊に支えられて強行されている」と、告発する。「しかし、工事が進められている海の現場に近づいて抗議できるのはカヌーチームだけだ」。「多くの人が辺野古へきて、自分の行動で新基地反対の意思を示してほしい」と、訴える。

◆ 沖縄の基地・「70年の孤独」

 日本政府の歴代政権は、米軍の意向重視を変えず、沖縄の基地問題の抜本的な解決は先送りされたままとなっている。戦後70年を超えても、沖縄の「孤独」は続いている。沖縄知事選勝利という結果も、沖縄の孤独な戦いの上にある。沖縄を孤独にしないために「ヤマトゥの人たち」は、何をなすべきか。それは私たちひとり一人が考え、行動しなければならない。

 日米安保条約に基づく在日米軍基地の4分の3(約70%)が日本の国土のわずか0.6%に過ぎない沖縄に集中している、という現実があることは、多くの人が知っているだろうか。この異常な状況のため、沖縄では1972年にアメリカから、施政権が返還された以降も、孤独にもひとり、米軍基地の重圧にあえいできた。

 1972年の返還当時の沖縄本島の基地面積は87施設、2万8,700ヘクタール、それが、40年後の2012年では、33施設に減ったように見せながら、面積は、2万3,176ヘクタールということで、施設の数こそ減ったものの、沖縄本島にある米軍基地の面積はあまり変わっていない。ちなみに、沖縄本島の面積は、1,207平方キロなので、本島に占める米軍基地の面積は、約15%に及ぶ(数字は、沖縄県庁の知事公室基地対策課のデータを使用)。

 在日米軍もさることながら、米軍の意向を重視して、ほぼ言いなりになっている安倍政権を含め、日本政府の歴代政権の政治姿勢にこそ、問題がある。

◆ 今帰仁城跡

 さて、この南島紀行(3)の「八重洋一郎・篇」では、「日毒」というキーワードを軸にした彼の詩集を読んでみた。今回の「目取真俊・篇」では、上記の3冊(芥川賞受賞作「水滴」を含む短編集『水滴』、短編集『魂込め(まぶいぐみ)』、短編集『群蝶の木』)を読んで行きたい。

 目取真俊は、沖縄の今帰仁(なきじん)村の出身だ。今帰仁村には、「今帰仁城跡」という琉球王朝時代の城跡がある。今帰仁城跡は、沖縄本島の北部、本部半島にある。那覇市から車で約1時間半かかる。今年の台風で、城跡の石垣が一部崩れたようだが、復旧は進んだのだろうか。1971年1月、ざっと半世紀前に、私はこの城址の城壁の道(城を囲む石垣の道)を歩いたことがある。当時、建造物では、これはというものがなかったように記憶しているが、城址にはそれを超える歴史の悠久さを感じた、という思い出がある。

 今年の7月1日夜遅くから2日朝にかけて沖縄本島付近を通過した台風7号の風雨の影響で世界遺産・今帰仁城跡の一部城壁が崩落した。崩落したのは、14世紀中ごろから後半に造られた主郭東側の城壁。幅9.7メートル、高さ6.4メートルに渡って崩れた。台風通過後、今帰仁城跡を管理する村教育委員会の職員が場内を点検して、発見した、という。今帰仁村の文化財係長は「重機を入れられる場所ではないので、修復には相当な時間がかかる」と語った。

 今帰仁城(別名北山城)の歴史は古く、13世紀までさかのぼる。堅牢な城壁に囲まれたその城は、標高約100メートルに位置し、やんばる(沖縄本島北部)の地を守る要の城であった。琉球が「中山(ちゅうざん)」に統一される前の「三山鼎立時代」(三山とは、北山、中山、南山)には、山北(北山)王の居城となり、また、中山が三山を統一した後には琉球王府から派遣された「監守」(城代)という役人の居城であった、という。外郭を含めると7つの郭からなり、その面積は4ヘクタールで、首里城とほぼ同規模。万里の長城のように城を囲む堅牢な造りをした城壁は全長1.5キロにわたる。城壁の石垣は地形を巧みに利用して曲線を描き、ディテールは美しく、沖縄屈指の名城と言われる。

 14世紀の中国の史書には当時の琉球国の三王が登場する。この頃の沖縄本島は北部地域を北山、中部地域を中山、南部地域を南山がそれぞれ支配した「三山鼎立時代」で、北山王は今帰仁城を拠点に沖縄島の北部を支配下に置くとともに、遠く中国と貿易をしていた。しかし1416年(1422年説もある)に中山王の尚巴志によって滅ぼされ、北山としての歴史の幕を閉じる。城内からは、中国や東南アジアの陶磁器が出土され、往時の広域的な活動とその繁栄ぶりがうかがえる。貿易立国だったのだろう。

 2000年12月に開催された第24回世界遺産委員会で、座喜味(ざきみ)城跡、勝連(かつれん)城跡、中城(なかぐすく)城跡、首里(しゅり)城跡、園比屋武御嶽石門(そのひやんうたきいしもん)、玉陵(たまうどぅん)、識名園(しきなえん)、斎場御嶽(せいふぁうたき)、今帰仁(なきじん)城跡の九つの資産が「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産リストに登録されている。目取真俊は、こういう地で生まれた。

◆ 「沖縄戦」・戦争体験継承への挑戦

 目取真俊の文学テーマで、いちばん大きなものは、「沖縄戦」と言われる沖縄島民の戦争体験の継承だろうと私は思う。目取真俊は、1960年生まれだから、「沖縄戦」について、直接的な戦争体験はない。先人たちの戦争体験を継承する形で、彼独自の戦争文学を構築しつつある。そこで、私は、すでに触れた3つの短編集をベースに目取真俊の「戦争文学」を論じてみたいと思っている。ただし、紙数の関係で、今回は、「水滴」と「魂込め(まぶいぐみ)」を取り上げる。

 「沖縄戦」とは、第二次世界大戦にまで拡大した「アジア・太平洋戦争」の末期、1945年に、日本列島のどこよりも先に沖縄諸島に上陸した米英軍を主体とする連合国軍と日本軍の間で行われた戦争で、戦場となった沖縄では、非戦闘員たる多くの島民が犠牲になった。連合国軍は、それ以前から始まっていた空襲に加えて1945年4月1日、守備の薄い本島中西部で歩兵師団や海兵師団による上陸作戦を開始した。戦艦10隻・巡洋艦9隻・駆逐艦23隻・砲艇177隻が援護射撃をし、127ミリ以上の砲弾4,4825発・ロケット弾3,3000発・迫撃砲弾22,500発が撃ち込まれた、という。沖縄戦では、約3か月にわたって行われた連合国軍の激しい空襲や艦砲射撃などを含めて、無差別に多量の砲弾が撃ち込まれた。戦後の沖縄ジャーナリズムは、暴風に譬えて、この戦争を「鉄の暴風」と呼んだ。

 芥川賞受賞作「水滴」を読んでみた。「水滴」は、戦争体験というリアルな事象の継承に当たって、極めてシュールな、幻想的で非リアリズム的な手法でものごとを描き、過去を現代へと繋げようとしている、と言える。目取真俊は、自分の作風としてガルシア・マルケスを目標としている、という。

 徳正(とくしょう)という爺さんの右足が突然膨れ出した。「六月の半ば、空梅雨の暑い日差しを避けて、裏座敷の簡易ベッドで昼寝をしていた時だった。(略)右足に熱っぽさを覚えて目が覚めた。見ると、膝から下が腿より太く寸胴(ずんどう)に腫れている」。沖縄の典型的な民家の構造からいうと、「裏座敷」とは、次のようなものらしい。

 東南に面して床の間のある座敷が、「一番座」、その隣にある仏間の部屋が、「二番座」、それに続き居間にあたる部屋が「三番座」という。これらの部屋の裏側、西北に面しているのが、子女の居室となる「一番裏座」、「二番裏座」で、産室にもなる地炉(囲炉裏)を持つ「三番裏座」が配されている、という。つまり、女たちが住み暮らし、たち働く。裏座敷は、家庭の中でも日常生活に最もよく使われる部屋ということだろう。

 徳正は、「あわてて起きようとしたが、体の自由がきかず、声も出せない」。そのままの状態で十日あまりの異常な体験をする。「中位の冬瓜(すぶい)ほどにも成長した右足は生っ白い緑色をしていて、ハブの親子が頭を並べたような指が扇形に広がっている」という。冬瓜(すぶい)とは、沖縄でいう冬瓜(とうがん)のこと。
 徳正を起こしに来た妻のウシが夫の異変に気がついた。「呆気(あつき)さみよう! 此(く)の足(ひさ)や何(ぬー)やが?」

 「この忙しい時期に異風な病気になりくさって」と怒ったウシが徳正の脛のあたりを叩くと、「腫らんだ足の親指の先が小さく破れて、勢いよく水が噴き出した」。やがて、徳正は身動きも、しゃべることもできない、寝たきりの状態のまま、自分の「足元に並んで立っている数名の男達に気づいた。泥水に浸かったように濡れてぼろぼろになった軍服を着た男達」である。「沖縄戦」で死んだ徳正の戦友たちが壁の中から次々に現れ、徳正の足から出る水を吸っては、壁の中へ消えて行く。最初は、見知らぬ兵隊に見えた男達のうちに、「村から二人だけ首里の師範学校に進み、鉄血勤皇隊員として行動を共にした石嶺が、別れた時のままの姿で立っていた」。「鉄血勤皇隊」というのは、沖縄戦に参加した14歳以上の少年学徒兵。当時の内務省でさえ、徴兵年齢の引き下げは、帝国憲法違反の疑いがあるとしていた。徳正と石嶺の「二人は大和人(ヤマトンチュー)の兵隊数名と行動を共にしながら洞窟から洞窟へと移動を続けた」。徳正は、思い出した。夜、足元に現れる「兵隊たちは、あの夜、壕に残された者達だった」。

 戦友たちを壕の中に残して自分だけ生き延びたことを徳正は思い出す。戦友たちは水を吸い終わると徳正に敬礼して消えて行く。この現象は、なぜか、徳正がひとりの時だけ現れるので、妻にも看護人(徳正の無頼な従兄弟)にも医者にも、気づかれない。

 ある日、看護人は、徳正の足から出る水に触れた手がむず痒くなり、手首に毛が生えていることに気がつく。この水を禿げている頭につけると、毛が生える。水を飲むとたちまち精力がつく。そこで水を集めて瓶詰にし、魔法の水として売り出す。「一合ビン一本一万円」。これが大当りして人々は先を争って高価でもこの水を買い求めるようになる。

 しかし、好事(なのかどうか)魔多し。見殺しにした石嶺や自決した女子学生。彼らを記憶の底に封じ込めて戦後を生きて来た徳正の戦争体験が回想される中、徳正の足の水が枯れてしまう。水が出なくなる。腫れも引いてくると、徳正も正気を取り戻す。ハッピーエンドか。兵隊たちも姿を見せなくなった。それに反して、不可思議な水を使った人たちは、一様に醜く老化する。ひとときの、アンチエイジングの夢も覚めてしまうということだろう。徳正の従兄弟の看護人は、効き目の失せた水を買わされた客たちに袋叩きにあう。その騒ぎをよそに、徳正だけは、裏庭に咲く冬瓜の黄色い花を眺めている。「その花の眩しさに、徳正の目は潤んだ」。

◆ 戦争体験の継承と民俗の重視

 短編集『魂込め(まぶいぐみ)』は、魂を落とす話である。主人公・幸太郎は、乳飲み子の頃、戦争で両親を失った。そこからくる不安のせいか、幼いころからよく魂を落とした。小さなことでびっくりし、怯え、元気をなくす。

 そのたびに祖母や、近所に住む母代わりのオバアによる魂込めが必要だった。回数は少なくなったとはいえ成人してからも同じだ。ましてや幸太郎は今回、五十歳を過ぎたというのに、魂を落としたばかりか口に大人の拳ほどもある大きなアーマン(オカヤドカリ)が潜り込むという異形の姿と化した……。「紫がかった灰色の爪が口をこじ開け、姿を現したのは大人のこぶしくらいもありそうな大きなアーマン」。

 魂に寄り添って生きる沖縄の人びとの精神世界には親しく感じられる導入である。翻ってヤマトンチューにはどうか。現代日本は、魂を落としているのではないか。魂を落としたままの長期政権。それを支持する保守系の国民。いきなりその問いがくるような気がする。

 ところで作者は、ひたすら個的に自閉するだけの精神世界は描かない。主人公に必死で魂込めを行なおうとするオバアは、浮遊する幸太郎の魂がいる海辺で、過ぎし日の戦争で主人公の母親が日本兵の手によってひと知れぬ死を迎えた情景を回想する。

 幻想的な物語は一挙にあの沖縄戦の記憶に繋がってゆく。「水滴」もそうだが、今回の作品集に収められている他の短篇でも、戦争と戦後の米軍基地の問題がさまざまに影を落としている。その繋げ方が一筋縄ではいかず、幻想から現実へ、現実から幻想へと往還するところに、この作家の類稀な力量が見える。

◆ 「水滴」と「魂込め(まぶいぐみ)」

 「水滴」と「魂込め(まぶいぐみ)」は、根幹を同じくする作品である。テーマは、先人たち(婆さんと爺さん)の戦争体験。戦後生まれの作家が、親の世代の戦争体験を、どう文学化させるか。目取真俊は、沖縄戦を己の具体的なテーマにして、果敢に挑戦している。

 「水滴」では、ウシの夫・徳正が、奇病に罹り、10日あまりの奇病罹患・恢復の物語である。「魂込め(まぶいぐみ)」は、ウタの近所に住む、オミトと勇吉夫妻の 息子・幸太郎が、「魂落ち」をするという離心の状態が描かれ、こちらは、その果てに息子が死んでしまう、という物語である。ふたつの作品の基本構図は同じである。つまり、ウシとウタは、同一人物であって、この人物を軸に構図は作られている。ウシとウタの周りの違いは、いわば、「変化(へんげ)」しているのに過ぎないように思える。この構図は、肉付けを変えることで、永遠の物語となりうる。

 ウタは、幸太郎のために「御願(うがん)」をする。

 「如何なる(ちゃんねーる)理由の有(あ)りしかは分からぬしが、幸太郎の魂(まぶい)の落ちて家人衆(やーにんじゅ)の心配(しわ)して居(お)る事(くと)、村の神々んかい対する敬い(うやめー)、御先祖(うぐわんす)に対する扱い(あちけー)で粗相(すそー)の有り侍(あいび)らば、すぐに直(のー)す事(くと)、だてぃん、幸太郎の魂を戻してきみ候(そー)れ……。」

 ウタたちの戦争体験。 米軍の空襲で、村の家の大半が焼かれた。しかし、村人の敵は米軍ばかりではない。

 「兵隊(ひーたい)の来(き)よる」、(若いオミトがウタの袖を引いた。)
 「二人はゆっくりと後じさり、あだんの茂みに隠れた。崖に沿って歩いてくる三名の人影が見えた。」(日本兵だ。日本兵を恐れ、若い二人は、姿を隠した。)
 「スパイ容疑で隣部落の警防団長や小学校の校長が日本兵に切り殺されたという話は、ウタたちの洞窟(がま)にも伝わっていた。」
 「友軍だから自分たちを守ってくれるとは、ウタたちも単純に信じられなくなっていた。」

 繰り返し洞窟(がま)が出てくる。鬱蒼と茂るガジマルなどから成る濃密な南方の樹林の先にある洞窟こそ、沖縄人が魂を祈り、風葬を行ない、沖縄戦では多くの民衆が身を隠し、果ては自害した。洞窟の岩肌から水がしたたり落ちる光景。この光景は、「水滴」のモチーフが得られていると想像することもできる。目取真に取って、洞窟(がま)は親しみを感じる場所なのであろう。

 会話では、ウチナーグチ(沖縄の言葉)が巧みに使われている。多くの場合、漢字で意味を感じとることはできるが、私に取って、よどみなく文字を追うことを妨げられる。悪いことではない。目取真文学は、すらすらと読むたぐいの文学ではないからだ。目取真は、地の文で使われている日本語を異化する効果をウチナーグチに求めているようにみえる。

 洞窟(がま)に象徴される戦争体験の継承とウチナーグチに象徴される沖縄の民俗の重視。神話と伝説、歴史と現実、自然と民俗、さまざまな沖縄が絡み合っている世界。目取真は、いずれ、沖縄の世界を時空も自在に再構築するような長編小説を書き上げるのではないか。

 沖縄の戦争体験の特殊性は、戦争体験の中に、戦前と戦後をつなぐ体験を組み込まざるをえないということではないか。沖縄の戦争体験を貫く棒のごときもの。それは、金太郎飴の金太郎。その金太郎が、沖縄の米軍基地。米軍基地は形を変えながら、いつまでも沖縄の宿痾であり続けるつもりなのか。日本政府は、それを認め続ける気なのだろうか。そして、それが今は、「高江」、「辺野古」という顔をして現れている。

 朝鮮半島は、今、激動している。米朝首脳の罵詈雑言合戦は、ついきのうのことだった。その後続いたミサイル発射。それが、米朝首脳会談で、大きく動き始めた。膠着状態に見えながらも、何年もの敵視関係だった時代から見れば、お互いに膠着を認識しながらもなんとか話し合おうとしている時代に突入していることは間違いない。朝鮮半島が、これだけ動いている時に、沖縄の米軍基地のあり方について、一から考え直そうという発想が、現政権の中から出てこないという方がおかしいのではないか。辺野古の新基地建設など、古い価値観による判断だし、時代遅れも甚だしい。辺野古を考え直そう、という発想が政権レベルから出てこないということが、おかしい。目取真俊が取り組んでいる辺野古基地建設反対問題の根幹には、そういう政治感覚の古い政治家たちへの苛立ちがあるように思える。新しい金太郎飴の金太郎たち。

 沖縄戦では、上陸してくる連合国軍と迎え撃つ日本軍。ただし、戦場は、沖縄の島。否が応でも巻き込まれてしまう沖縄の住民。非戦闘員だ。生活の場が、戦場になり、逃げ惑う人々。逃げ惑った末に、島の外には逃げられない島民たちは、行き止まりの洞窟(がま)の中に逃れ、強制的に自害を強いられた。沖縄が強いられる「自害」は、今も形を変えて続いている。だから目取真俊は、「基地があるからこそ戦場になる。軍隊は住民を守らない。軍人すら守らない。下っ端の兵士達もまた、無惨な姿で死んでいくのだ。皇軍=天皇の軍隊が、どれだけ住民や兵士の命を粗末に扱ってきたか。その実態を知らなければならない」と、書かざるをえない。

 現在のヤンバル(沖縄本島北部)では、米軍、日本政府(日本軍)が、地域住民に襲いかかる。芥川賞受賞作に象徴的に描かれる「水滴」こそは、在日米軍が手放そうとしない基地である。米軍基地は、日本政府の支援を受けて形を変えながら沖縄本島を覆い尽くしている水滴である。この水滴は、一見、真水のようでありながら、清冽な毒である。目取真俊には、「海鳴りの島から」で描かれ、美(ちゅ)ら海で現実に抵抗するカヌー闘争に象徴される「辺野古体験」をベースにしたウチナーグチたっぷりの芳醇で、破天荒な長編小説が待たれる。

◆ 沖縄と沖永良部島

 中脇初枝「神に守られた島」。1960年生まれの目取真俊より、さらに14年若い世代の作家。1974年、徳島県生まれ。青少年向けの、いわゆる児童文学から小説家へ。『世界の果てのこどもたち』(2015年刊)に続いて、『神に守られた島』(2017年刊)などを刊行している。この2冊は、明確なテーマ設定が印象に残る。戦争体験の継承を描く作家である。

 1945年のある日、沖永良部島(鹿児島県)に「海のほうから、どおんどおんと艦砲射撃の音が響く。晴れた日には与論島のむこうに沖縄の島影が見えるとはいえ、船で行けば六時間はかかる。それなのに、音が届くのがふしぎだ」と、書く。

 沖永良部島(面積は約94平方キロ)の戦争体験が、少年の目で描かれる。トゥール(風葬)墓、イョー(洞窟)を防空壕がわりにして、島民は米軍の空襲を避けて、生活して来た。島民の戦争体験は、沖縄と似たようなものだ。連合国軍の上陸こそないが、空襲があり、日本軍の守備隊もいる。空には、特攻隊の戦闘機が飛んで行くのが見える。近海に特攻機が墜落して行く時もある。

 暫くして、少年少女は、気がつく。「静かだよー。沖縄からも何も聞こえない」。
 ぼくはカミ(少女の名前)を手伝って、散らばった葉っぱを拾い集めた」。
 「沖縄はどうなったんだろうね」。

 沖縄戦の結果は、沖縄本島から与論島を挟んで60キロ離れた沖永良部島には、すぐには伝わってこない。島民には情報が伝達されない。日本軍の特攻機、連合軍のグラマンの戦闘を垣間見ることで、状況を察するしかない。

 沖永良部島を含む奄美諸島は、沖縄戦の沖縄本島のような壊滅的な結果となる戦場にはならなかったが、沖縄が戦後も1972年まで、アメリカの統治下に置かれたように、戦後1953年12月まで、アメリカの統治下に置かれ続けた。

 注)「南島紀行」の項は、今回で終了。

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、日本ペンクラブ理事、オルタ編集委員)

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