【コラム】
『論語』のわき道(17)

友逝く

竹本 泰則

 朝方、いつものようにパソコンの画面を眺めていると傍らの電話機が鳴った。受信した相手を表示する液晶部に友人の名前がある。取り上げた受話器からは女性の声。瞬間的に事態を察した。「亡くなったか……」。

 この友人とは学生時代に同じクラスとなり、親しく付き合ってきた。就職に当たって世話になったという間柄でもある。それとは別にもう一つ因縁がある。
 彼の結婚披露の席に招(よ)ばれたときのこと。仲人が型通りに新郎新婦の紹介をしていくなかで、新婦の父親についても触れた。それを聞いているうちにだんだん落ち着かなくなってきた。
 「このヒト、うちの親戚じゃないか!」

 意外な縁続きが分かり彼の新所帯に招待されたこともあったが、互いに会社務めの身であり、さらに彼はアメリカに転勤した期間があったりして、その後の交際は疎遠となり年賀状を交換する程度になっていた。 
 会社務めを終えたあと彼はしばらく出身地の博物館長をやっていたが、それも終わって東京に戻ってから電話をくれた。学生時代のグループでたまに飲むことがあるので出て来ないかという誘いであった。酒の会、しかも同窓の仲間ということであれば断る理由はない。二つ返事で参加することにした。そんなことが契機となって、付き合いも深まった。

 住まいが小金井と調布でそれほど遠く離れていないこともあって、平日の昼間にほぼ中間地点の国際基督教大学近くのパスタ・ピザを食わせる店で、軽く飲みながらしゃべりこむことが決まりになった。さらには夫婦ぐるみで往き来をするようにもなっていった。
 彼とわたしとはガンが検出されたために前立腺を摘出した同病の身である。ただ彼の場合は、ガンがリンパ腺だったかに転移していたために時々薬剤治療が必要と聞いていた。それでもテニスやゴルフを大いに楽しんでいる風だった。

 平日昼間の定例の会合がしばらく途絶えた時期があった。彼の携帯に電話をしてみると目下入院中とのこと。ガンが骨に転移したため点滴を定期的に受けるようになったという。聞きながら前立腺ガンで逝った自分の長兄のことが浮かんだ。兄の場合、最終は骨への転移だった。転移が分かったとき担当医は二年間という余命を宣告したが、それに違わず亡くなった。とっさにそのことが思い出されて不安に襲われた。

 その年の三月末でわたしたちは大学卒業から五十周年目を迎えた。学校は四月の入学式に席を設けて、その期に当たった卒業生を招待してくれる。当日の夕刻には、わたしも開催の準備を手伝っていたクラス会が開かれることにもなっていた。彼は以前に入学式だけは行きたいといっていたので、二月の初めころメールで出欠を訊いてみた。早速に電話があり、式もクラス会も欠席するとの返事だった。そのついでに少しばかり話し込んだが、このときの口調、言葉にこもる元気みたいなものはこちらをほっとさせるものだった。

 それからも、彼のことがふと気にかかることはあったが、音沙汰のないままに過ぎた。時が経つほど、こちらから電話することをはばかる気持ちが大きくなっていったが、思い切ってかけてみた。発信音はなく、ただ「電源が入っていないか、お客様の都合でつながりません」といった意味の案内が返ってくるばかりであった。その後も二、三度やってみたが電話が通じることはなかった。
 奥さんに直接尋ねることはためらっていた。
 気持ちはいやでも悪い事態の方へ傾いていく。せめて苦しみや痛みが出ていなければいいが……そんな風に思っていた。

 電話口の奥さんは療養の経過を少し話し、「家族だけで初七日までの法要をようやく済ませた」と結んだ。その口調は落ち着きを取り戻すまでにはしばらく時間がかかりそうに思わせた。
 平均余命の歳までに残されている年数が一桁となると、身近な人、親しく付き合っていた友などとの別れの頻度が増えてきた。そんな年代に入ったといえば、そうなのかもしれぬが、何とも気が滅入る。

 孔子は「死」をどんな風に受け止めていたのだろうか。
 鈴木大拙の言葉には「中国人の興味は常に地上の人間関係に集中しており、天国に行くなどということは少しも問題にしなかった」というくだりがある。魯迅は「中国人は生がどんなに辛くても精一杯生きぬき、自分から進んで死のうとはしないが、死が来れば仕方がないと考える」といっているらしい。魯迅がいつの時代の考え方をいったものか明確ではないが、孔子にも共通する部分はあるかもしれない。
 また、政治学者の中嶋嶺雄は「中国人の伝統的な思考様式は『死生一如』です。現世重視の中国人には生にも死にも境はありません。現世で名を残すことには強い関心がありますが、死後の世界はあまり考えないようです」といっている。

 たしかに、『論語』の中に死という字は数多く出てくるのだが、そこには死に関する哲学的といえる種類の論述はほとんど見られない。それどころか、孔子は「そんなこと(死)など知らん」とばかりに突き放したりすることもある。
 『論語』の中に孔子と弟子の子路とが交わす会話がある。子路はまず鬼神につかえるということを尋ねるのだが、孔子は「まだ人につかえることすらできていないのに、どうして鬼につかえられようか」と少しいなす感じで応じる。その後に続くやりとり。

  (子路の問い)敢えて死を問う
  ―敢えて死についてお尋ねしたいのですが―

  (孔子の答)未だ生を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らん
  ―生についてさえまだ知らないのに、なぜ死のことまで分かろうか―

 この問答に出てくる死や生の意味するところは、昔から読む人を悩ませたようで、子路が問うたのは死後のことだ、いや、どのように死ぬべきかといった死に処する態度のことだなどとさまざまな見方がある。しかし正解は当人のみにあり、だろう。
 孔子の言葉には「生きることを考えるのに一所懸命であり、死のことなど考えてはおられないよ」といった響きを感じる。

 『論語』を出典とする「死生命あり」という成句がある。これを『広辞苑』は「人の生死は天命で決まっており、人力ではどうすることもできない」と説明している。
 敢えて言い足せば、人はなぜ死ぬのか、自分はいつまで生きられるのだろうか、死んだ先はどうなるのだろうか、そんなふうに死について色々思い悩んだり考えたりしてみてもしようがない。自分ではどうしようもないことを煩うより、今を、すなわちこの現世をどのように生きるかを考え、悩むことにこそ意味があるのだといった含みをもつものと理解できるかもしれない。
 さらに孔子は「古えより皆(みな)死あり」(いつか死がやってくることは昔から決まったことだ)などと少し冷めた言葉も吐いている。

 孔子も人間。死や死後のことにまったく無関心であったわけではないだろうが、現実の生に対して払っている関心に比較すれば、それは問題にならぬほどわずかであったように思える。敢えて想像すれは、死は万象における自然な変化のひとつといったとらえ方をしていたのではないだろうか。
 愛弟子が夭折したときなどには取り乱さんばかりに嘆き悲しんだ孔子であるから心根の優しさを十分に持ち合わせた人であったことはまちがいないだろう。それでも、死生観といったものは案外にクールであったように想像している。

 (「随想を書く会」メンバー)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧