【自由へのひろば】
古田武彦追悼
古田武彦(1926~2015)の訃報を聞くことになった。先年、奥様を失われ、息子さんが世話を見ていると聞いていたが、氏はその後を追うように逝かれた。それは吉本隆明の死から数ヶ月して奥様が逝かれたことに重なり、改めて夫婦というものを私は考えさせられた。
その古田氏は親鸞研究の史料批判で鳴らし、70年代初頭に古代史に分け入ったのは40代半ばの頃であった。古田三部作と言われる『邪馬台国はなかった』(1971年)、『失われた九州王朝』(1973年)、『盗まれた神話』(1975年)を立て続けに刊行し、華々しくデビューされた。その第一作で古田氏は邪馬臺国(邪馬台国)ではなく邪馬壹国(邪馬一国)ではないのかと、魏志倭人伝の納められた陳寿の『三國志』全体の壹86個と臺56個をつぶさに検証し、一切、誤用はなく、邪馬一国とせず邪馬台国とするのは、邪馬台=大和としたい恣意性にあり、それは学問ではないと厳しく批判した。それを谷沢永一が「紙つぶて」で取り上げ、90年代に古田氏の論敵となる、邪馬台国九州説の安本美典が、「空谷に足音を聞く」と持ち上げたのだから、世の中はおもしろい。
第二作で古田氏は金印国家・委奴国に始まる→邪馬壹国→倭の五王→俀国の流れを記載する漢籍は、近畿王朝・大和朝廷に先在した九州王朝・倭国であるとした。それは記紀成立以来、千三百年近く大和中心の皇統一元の記紀史観からのコペルニクス的転回で、その功績は今も色あせない。それまで金印国家・委奴国を「委=倭(やまと)朝廷下の九州の属国・奴国」とするのに始まり、邪馬台国を大和国とし、倭の五王を雄略天皇以下の歴代天皇に比定し、俀国の多利思北孤を聖徳太子に当ててきた戦後史学の在り方を無効とする九州王朝説をそそり立たせた。
私がその九州王朝説の本に出会うのは、それから十年した1985年に、古田氏が新三部作である『古代は輝いていた』を問うた時で、読書会「クラヴェリナ」でその新作を取り上げ、古田氏と行動を共にしていた「市民の古代の会」事務局長の藤田友治も顔を見せ、交流が始まった。そのとき私は古代史の素養がまったくなく、会に入会したものの、むしろ古田氏の大著『親鸞思想―その史料批判』にのめりこむ始末であった。そのため、第二作の思想的提起の意義を自覚しつつも、記紀を扱った第三作でようやく焦点があい、そこで天孫降臨神話を、壱岐・対馬の海士族による博多湾岸への侵攻とし、その現場を糸島周辺と具体的に歴史奪回しているのに興味を覚え、学校の家庭訪問を利用し、私は対馬へ行き、神社を巡り歩いていた。
この70年代に始まった九州王朝説は、戦後、何度目かの古代史ブームを引き起こしたが、それがこれまでとちがったのは、九州王朝説を踏まえて民間研究冊子が各地で競うように発刊され、民間史学を活性化させたことにあろう。その中心となったのが「市民の古代の会」で、その組織的中心にあった藤田は、全盛期に会員800人近くで、組織人数はその10倍に及んだという。それは九州王朝説が大和中心の皇統枠を越えた魅力にあったことによろう。それは学会中心のお説ごもっともな運営とちがい、民間研究を藤田が精力的に組織したことによろう。それに拍車をかけたのは、72年の浅間山荘事件によって行き場を失った左翼精神を、藤田が「天皇陵を公開せよ」と宮内庁に迫り、取りこんだことにあろう。
それから5年した1990年に古田氏は、古代史は大和中心ではなく、各地で多元的に展開したとする立場から『真実の東北王朝』を刊行し、褒貶半ばする『東日流外三郡誌』を高く評価した。問題は、それを所蔵する胡散臭い和田喜八郎と親交を深めざるをえなかったため、古田氏は、「季刊・邪馬台国」の編集長・安本美典から「偽書を持ち上げる大学教授」と名指しされる偽書論争を仕掛けられ、マスコミを動員する情報操作に右往左往する。この右往左往に「古田武彦と共に」あるはずの「市民の古代の会」幹部が浮き足立ち、古田氏の大学助手の原田実や東北の齋藤隆一が、あろうことか「季刊・邪馬台国」に取り込まれ、会も反古田派に乗っ取られ、発表誌を奪われたことにあった。
時は昭和の終焉、バブル崩壊、ソ連を始めとする社会主義国の崩壊の終焉期に重なり、私はこの「市民の古代の会」の体たらくに対し、「古田史学の新段階―その思想課題の越境をめぐって」とする思想論を寄稿したのをきっかけに、自ら史論を模索せざるをえなくなり、その3年後の1997年に『伊勢神宮の向こう側』を、古田氏に序言を得て、文献実証史学に距離を置く文体で刊行する。
この距離の取り方は、古田氏に追従する亜流が世間の非難にあえばたちまち豹変する失態を目の当たりにしたことと、あれほど漢籍を見事に解読した古田氏が、記紀の解読に手こずるのは、指示表出からする実証史学に問題があると感じ、もう一つの幻想表出から迫るほかないと、その向こうを張っておこがましくも幻想史学を提唱した。しかし、この提唱は、「市民の古代の会」に代わる古田氏を戴く「古田史学の会」や「多元的古代の会」の組織原則に合わなかった。加えて次著『法隆寺の向こう側』で、大芝英雄の豊前王朝説を発見し、神武東征の原大和である倭(やまと)を遠賀川上流の香春岳周辺に求め始めたのに対し、古田氏は記紀の神武の畿内大和東征説を首肯するに至り、私は会から疎まれて行く。それは致し方ない論理的な訣別であった。私は九州王朝説を棄てたのではなく、さらなる徹底をはかるもので、私はその訣別によって九州王朝説にある一国枠を越え、列島古代史を東アジア民族移動史の一齣に解体し、その基本矛盾を長江下流の南船系中国王権と韓半島経由の北馬系王権の興亡とする南船北馬説を称えるに至った。
私は論理のちがいによって争っても、古田氏への敬意は変わらず、九州王朝説を批判的に継承してきたにすぎない。ただ私は藤田が「天皇陵を公開せよ」と提起するのは大賛成だが、戦後史学に九州王朝説を接ぎ木し、天皇陵をほぼ受け入れた上で、その一部の継体陵を今城塚古墳に比定し直すようなことはしなかった。それは持統紀に十八豪族の墓記提出命令を見、文武から半世紀に及んだ好字二字の地名を大和地名の創出と理解する以上、天皇陵は天武・持統陵と、698年に他者の古墳改修・簒奪した越智山陵の斉明陵と山科陵の天智陵を認めても、持統までのそれ以外の天皇陵は墓記を抜いた十八豪族の古墳に割り振られたと考えてきたことによる。
しかし、九州王朝説はその藤田が引いたレールに乗って70、80年代を順風満帆に進み、90年代に「偽書疑惑」のレッテルを貼られる苦難の時代をもったものの、古田氏はファンに支えられた発表誌をもち、たゆまず書き続けられ、その最晩年に国生みの沼矛は沼音で銅鐸であったと、壹の論証さながらの論証をされたのは流石であった。加えて最後の5年を、やはり藤田が関係をつけたミネルヴァー書房から、これまでの著作のほとんどを古田武彦古代史コレクションとして再発刊する幸せにあったことを喜びたい。
私は、遠からず訪れる民間史学の再編のために南船北馬説を鮮明にする必要を感じ、『薬師寺の向こう側』を今回、上梓したが、その本が届けられた日に亡くなられたと聞き、運命のいたずらを感じる。
明日の古代史学は、今や4千人を越えた畿内説論者をこれ以上、のさばらせないためにも、古田氏の九州王朝説を踏まえることなしにありえないことを記し、筆を置きたい。合掌。 (2015.10.22)
(筆者は古代史研究家)