【横丁茶話】

命長ければ辱多し     西村 徹

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●男の健康寿命
 若いと思っていた友人が70歳になった途端に、ひとしきり古希、古希という
ようになった。じっさい体もコキコキになったかのように、暖かくなってから風
邪引いて熱を出したりしている。その人となりからはおよそ似つかわしくない痛
風になったりもしている。

 痛風は美食によるとはかぎらないらしい。糖尿のクスリも飲んでいるし、胃が
おかしくなって胃カメラだとも言っている。昨今、年齢は昔の8掛けが相場とい
うから実質56という計算になるが、昔どおりに古希などと世間でいわれる年齢
になると、そう思うだけで気になるらしい。気になるだけでなく今でも男の健康
寿命は70だという新聞記事があったから、それなりに気にする理由はあるらし
い。

 私も70になったときはずいぶん老人になった(のではないかという)気がし
たことを思い出す。公園で出会った老人にトシを聞かれ、「・・なら若い」と言
われた。その人は75だったと思う。そしてポケットからアメを出してひとつく
れた。帰りは公園から次の停留所までチンチン電車に乗り、本屋に立ち寄ってか
ら家に戻って写経をすると言っていた。また「生活のリズムが大事です」と、少
し先輩風に少し教訓的なことも言っていたと思う。

●日本国のように懲りないわたし

 ところで、そのときと今とで私は変わった気がしない。その間に、入院手術な
ど複数回ありながら、気分としては一向に変わらない。きわめて最近、6月21
日コイリングという耳慣れぬ手術を受けたばかり。

 肢のつけ根から大腿動脈に直径1mm未満のマイクロカテーテルを挿しこんで、
延々と血管内を這わせて腹部動脈瘤内に届け、直径0.3mm前後のプラチナ線
コイルを作って留置充満させ、よって血流を封鎖する。まるで旅順港閉塞作戦を
ミクロのレベルでおこなうような芸の細かい、まさに無上甚深微妙の術である。
腹部大動脈瘤でステントグラフト手術を受けた者の5パーセントがコイリング処
置を必要とするにいたるとのことである。

 医学上は手術のカテゴリーには入らない程度の、侵襲の少ない「手術」だとい
うが、瘤は複数個所にあるから5時間近く手術台に仰向けに貼り付いたままだっ
た。その後さらに4時間は微動もしてはならぬといわれ切開部に錘を載せられた。
錘が取り除かれた後も翌朝6時まではそのままの姿勢だった。その間の腰痛は尋
常でないが身体を動かすことで緩和することができない。

 十数時間にわたる、これはちょっとした拷問だった。6時になってベッドをL
字に起こしてもらったときは、びっくりするほど楽になった。腰痛は完全に消え
たわけではないが、拷問が終わったとひとしい程度に楽になった。

 こんど再発したらゼッタイ手術しないで運命に従おうと、拷問のさなかには思
っていたはずだが、どうやらこれももう忘れかけている。杖をたよりに100メ
ートル以上は歩き続けることが出来ない現状にもかかわらず、咽喉もと過ぎて熱
さを忘れかけている。ヒロシマ、ナガサキ、フクシマがあっても早くも大飯を再
稼動させる日本国のように、よくよく懲りないようにできているらしい。このよ
うに私はさっぱり変わっていない。

 私が私でなくなったわけでないから、変わらないのは当たり前といえば当たり
前ではあるけれど、此のていたらくだから、あのときのアメをくれた老人の落ち
着いた物腰、ちょっと敬すべきところもあるような枯朴の風合いが、あれから1
6年を経た今の私に具わっているかというと、具わっているとは到底言えない。

●老衰すれども老成せず

 もちろん体力は脳力を含めて落ちている。老いとは「不断の自己喪失」などと
わざわざ言われなくてもポンコツの自覚は十分にある。寄る年波は十分に感じて
いる。変わらないというのは、それとはまたちがう。真夏以外はいつでも寒い私
だから、まちがいなく見た目も中身も衰えてはいるが、何か存在の底の底、芯の
芯は少しも変わっていないように思う。

 気障になるが、たまたま法華経の中に見つけた深心所著という漢字の感覚がピ
ッタリな心根そのものは少しも変わっていない(漢訳経文は訴求力の強い、ほと
んどワインのように蠱惑的な四字熟語の宝庫なので、つい拝借してしまうだけの
ことであって、経文の中身理解となんら結びついていない)。つまり私は、老衰
はしても老成はしていない気がする。

 なるほど病院で生年月日の申告を求められるときなど、いささか肩身の狭いよ
うな気もちになる。次世代の重荷になっているらしいことを思い知らされるなど
とは世間体の弁にすぎない。本当にうしろめたいのは、死んだのは他人ばかりで
自分でないことに対してである。生き残った者のうしろめたさには、取り残され
た者からするうらやましさも混じっていて、「命長ければ辱多し」とはよくぞ言
ったものだと思う。

 それでも、やはり、依然として自分が老人だという気にはならない。むしろ老
人というに値しないと思うと言うのが正確かもしれない。お近づきを得ている僅
かに年長の先輩方には、温容のなかにも年輪に相応しい風格、貫禄というと重す
ぎるし、威厳というにもいくらか遠いが、どこか、矩を踰えず、万事控えめにす
る品位があって、どう考えても数年後に私がその域に達するとは思えない。東洋
の価値観では敬われるはずの老とか翁とかの境地には死ぬまで届きそうにない。

●もうはまだなり、まだはもうなり

 よほど私が鈍感かもしれないこと、つまり年甲斐もないことを差し引いたとし
ても、老いというのは本人が「老いた」とか「まだ若い」とか勝手に思っている
だけで、思っているのと実際とはほとんど一致しないようだ。見かけと思いこみ
と正味のところとはひとつでない。頭が良いとか悪いとかいうのと事情はおなじ
でないかと思う。

 自分で頭が良いといったところで何の証明にもなりはしない。自分で自分は天
才だといったところで、そして他人まで釣られてそう言ったところで、時間が経
って、あれは天才でなくてテンプラだったということもありうる。おおいにあり
うる。

 近頃そういうことはなくなったが、一昔前には「ボケたら極楽」などと言って、
見かけから勝手に決め込んで、誰あろういちばん苦しんでいるかもしれない認知
症当事者のことを「恍惚の人」と無邪気な見当違いをいう人がいたものだ。それ
とこれとはよく似ていると思う。

 つまり「老いた」とか「まだ若い」とかはカッコ付きで、カッコの付かない、
そのものずばりは存在しないのではないか。どこまで行っても「老いた」と確認
する物差しは年齢以外には存在しない。「老いた」と思うと同時に「まだ若い」
とも思える。まさに「もうはまだなり。まだはもうなり」である。アキレスと亀
のように、死ぬ以外には、すなわち所著を脱却し終わるまでは到達点はないよう
な気がする。

●チンパンジーは覚者

 放送大学の特別講座で京大霊長類研究所の松沢哲郎所長が話しているのを聞い
た。レオというチンパンジーが脊髄炎になった。首から下が麻痺して多数の若い
ボランティアが夜を徹しての看護にあたった。褥創の手当ても必要な程度の重症
であったが、「この方」(そのチンパンジーを松沢教授はそう呼んでいた)は
「今、此処に」生きているからヒトのように絶望しない。

 過去を悔やむことも未来を恐れることもない。ヒトのように時間にとらわれな
いからである。病状が回復期に入るとたちまちイタズラをはじめる。口に含ませ
て貰った水を看護人の顔にむかって噴き上げたりする。

 ヒトから見ればイタズラであるが、じつは「この方」を看護してくれたヒトび
とへの巧まざる答礼であるかもしれないと私は思う。ヒトの子でもこのようなと
き似たような振る舞いをする。そして大人はそれを見て、おどろくと同時に安堵
するではないか。もちろん「この方」にもヒトの子にも答礼などという下心はさ
らさらなかろうけれど。

 結果としてヒトの心には答礼以上のものを贈る。この方もヒトの子も時間にと
らわれないのは時間の中にいないということではない。その存在は時間の中にい
るけれども、その意識は時間の外にいる、すなわち「この方」は時間から自由で
あるということになる。すなわち人間ならば聖人、覚者のみが到達しうる境地に
いるということになる。

 他人を思いやるサルもいれば利己的なサルもいるらしいから、ここで「この方」
をいきなり理想化はできないが、いつまでも人間がいちばんという思い上がりは
考え直してもよいのではないか、そういう気持ちになるたいへん良いお話でした。
  (2012/07/03)
        (筆者は堺市在住・大阪女子大学名誉教授)

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