【コラム】『論語』のわき道(47)

四月にことよせて

竹本 泰則

 一年のうちで四月は、正月と並んで存在感がある。年度替わりという現役時代の感覚が残っているわけでもないが、浮き立つような気分がします。
 冬が終わって暖かな陽光がもたらす高揚や、「ピカピカの一年生」から勇躍社会に巣立つ新人まで、「これから」を追う人々が醸し出す清新な活気が伝わるのかもしれません。

 ところで漢数字の「四」の形は、それより前の一から三が横棒の数で意味を示す単純さに比べると、がらりと雰囲気が変わります。長い間、見慣れているし書いてもきたので、今更違和感も薄いのですが、考えてみると少しばかり不思議です。

 現在の漢字の源である甲骨文字(使われていたのは三千年以上も昔)でも、また、それを継いだ金文(鼎などの青銅器に鋳込まれた漢字)でも、4を表す文字は横棒が四本積み重なった形だったようです。春秋時代(紀元前771年~紀元前453年)になると、これに併せて現在の「四」の文字も使われ始め、間もなくこちらがとってかわったといいます。ならば「四」の字は四本の横棒の代わりとして考えられた文字なのかというと、そうでもなさそう。口から息が出る様子を表す象形文字という説もあります。「息つく」といった意味の文字であったという説明も見ます。
 横棒が四本となると、すこし離れただけで3やら4やら紛らわしいということから、同じ音の別字に変えてしまえとなったのでしょうかね。

 時計の文字盤でなじみのあるローマ数字でも縦棒で数を示すのは3まで。5をVで表し、4はそれより一つ少ないことからIVとつくるのだと思っていました。本来はそのようですが、レトロな時計では縦棒4本で表記するものもあります。東京駅丸の内南口の大きな時計も、かつての姿を復元したのでしょうか、4本棒です。札幌の時計台もそう。インターネットで散見する世界の時計塔などにも4本棒は多く見られます。6であるVIと間違えやすいからという理由で普及したらしく、別に珍しいことではないようです。東西とも4の表示はややこしいところがあります。

 日本の場合は漢字の読み方にも厄介なところがあります。
 常用漢字表で四を見ると、音読みの「シ」の例として四角,四季,四十七士を挙げています。訓では四通りの読み方を選び、その用例を示しています。
 「よ」では四人,四日(よっか),四月目。
 「よつ」で四つ角。
 「よっつ」で四つ。
 「よん」で四回,四階
 という具合。
 訓読みは「よ」が基本であったのだろうと思います。これに、ひとつ、ふたつなど一桁の数字の和語のどれにもついている数を表す音「つ」を伴って「よつ」。この「よつ」が促音化したものが「よっつ」。残る「よん」はよくわかりませんが、発音の変化の類でしょう。
 問題は音読みと訓読みの区別について、基準がことさら不明確なことです。常用漢字表の用例に挙がった「四角」は、角の字をカクと音読みすれば「しかく」、かどと訓読みすれば「よつかど」(四つ角)のように、後ろに続く漢字を音で読むか訓で読むかによって揃えるというのが自然です。しかし、四人、四本、四大文明、四強、四色、四輪、四倍……などのように訓読み+音読みの例はたくさんあります。そして多くの場合、シとよ(よん)とは使い分けしなければなりません。Quartet(四重奏)を「よんじゅうそう」と言われては違和感があるのではないでしょうか。四人に至っては「しにん」と読むと違うものになってしまいます。蛇足ながら、漱石はこの語の読みにこだわり、みずから「よったり」と仮名を振っていたということを聞いたことがあります。江戸っ子の面目ですかね。

 数字は『論語』にも度々現れます。もちろん「四」も出てきます。たとえば、古代中国では自分たちが住んでいる台地は大きな四角形をしており、端まで行けば崖になってその下は海と考えていた。その海が四海(東海、南海、西海、北海)、だから「四海の内」といえば世界中という意味になります。また、自国の周りの国々は「四方」(東西南北の方位から派生)、春夏秋冬は「四時」と表されます。これらの言葉はどれも『論語』に出てくるものです。
 孔子の教育を伝える文章にも「四」があります。
 原文は「子、四つを以て教うる。文、行、忠、信」。
 現代語訳を岩波文庫の『論語』と吉川幸次郎の『論語』とで比べてみます。

 岩波(金谷治訳)は、
 「先生は四つのことを教えた。読書と実践と誠実と信義である」。
 吉川は
 「孔子の教育は、四つのことを重点とした。学問、実践、誠実、信義」。

 もちろん金谷の訳でも四つしか教えなかったということにはなりませんが、やはり吉川の四つのことに重きをおいて教えたという解釈の方がいいように思っています。
 一方、四つのうちで最初の「文」を、金谷は読書と訳しています。孔子が書を読むことを教えたのは確かなことだと思いますが、現代語の「読書」のニュアンスが混ざるために、ここも吉川訳の方がしっくりするのではないでしょうか。
 この程度の内容であれば素人にも口をはさむことはできますが、次の「四」になると手を焼きます。

 子、四を断つ。意なく、必なく、固なく、我なし。

 先生(孔子)には意、必、固、我の四つがまったく無かったという大意は読み取れます。もちろんこの四者は無いことが善い、あってはよくないということになります。例えば最初の意をとり上げると「あの方はえらい人だ、なぜなら意がない」……こういう言い方が成り立つということでしょう。
「意」という漢字の字義を思い浮かべてみると、こころ、きもち、思い、考え、意向、願望……おおむねこんなところではないでしょうか。しかし、どれをとっても、無いことがえらいというようにはつながらない。つまりは「意」が表す内容がドンピシャリと浮かんでこないので、わけがわからなくなります。
 偉い先生方の解釈を見てみましょう。名前に続けて四者に対する内容(解釈)を原文の順序に従って列記します。

 宮崎市定
 意地になる、執念する、固くなになる(原文のまま)、我を張る
 吉川幸次郎
 主観的な恣意、無理押し、固執、自己のみへの執着
 貝塚茂樹
 私意、無理押し、固執、我を張る 
 金谷治
 勝手な心、無理押し、執着、我をはること
 加地伸之
 おのれの意ばかりになる、決めたことにこだわる、執着する、利己的になる
 子安宣邦
 一人で思い計る私意、頑なに期する意、拘り執着する意、他を許さぬ我意

 どれが正解なのか、それはこれを言った人に聞かないことにはわかりません。そうであっても注釈本として世に出す以上、とばすわけにもいかないから考えに考えて訳す。学者先生のそんな苦労が見えるような気もします。
 素人は、その点気楽ですね。
 「孔子さまは心のしなやかさを失うことがないお人だった」くらいで済ませちゃいます。

(2023.4.20)
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