■回想のライブラリー(7) 初岡 昌一郎

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◇(1)
 この1月下旬、わが大学をすでに引退している先輩3人と共に沖縄を旅した。満
開だった名護の緋寒桜をはじめ、あざやかな緑と花を十分楽しむことができた。米
軍基地に隣接した読谷村にある座喜味古城にも足を運んだが、その曲線の美しい石
積みに誰もが賛嘆の声を惜しまなかった。復帰前から何回となく沖縄には足を運ん
でいるが、この季節の沖縄は特に好きだ。
 最後の夜は、長年の親友、粟国安喜に合流してもらい、那覇で泡盛を痛飲し、琉
球料理に舌鼓を打った。私としては珍しいのだが、率先して皆を桜坂へと二次会に
誘ってしまった。沖縄が好きな大きな理由は人の温かさとおおらかさを感じること
ができるからだ。苦難の歴史の中からこのような人々が生まれることが素晴らしい。
 
 粟国さんはそのような沖縄人の一典型だ。彼とは1965年にニュージーランドで
の国際郵便電信電話労連(PTTI)アジア地域会議で初めて会った。その頃、彼は
沖縄全逓の国際部長で、アジアからきた人達と実に自然な態度で雑談していたのが印象的だった。その頃(そして、今でも)、日本人は外国人にはかしこまって、丁
重だが他人行儀に対応する人がほとんどだった。
 
 何年ぶりで粟国さんに会っても「やあ」の一言で、昨日からの話の続きのような
調子で会話が始まる。このペースは、彼と私が敬愛してやまない、戦後沖縄労働運動の真のトップ・リーダーであった亀甲康吉にも共通していた。肩をはらず、運動
家にありがちなハッタリもなく、ユーモアに満ちた語り口。実に魅力的な人だった。
亀甲さんは糸満の漁師の倅で、筋骨たくましく、みかけはいかめしい人だった。
 
 粟国家は昔から首里に住む士族だったそうだ。彼は小学生の時、集団疎開で熊本に移されていたためにかろうじて生き残ったが、戦争に兵隊として行っていた叔父一人を除き、彼の両親をはじめ家族全員は沖縄戦の犠牲となった。首里は日本軍の本営が置かれていたので集中砲火を浴びただけではなく、その住民は日本軍によって隠れ場所から狩り出されて死に追いやられたのであった。こうしたことも、彼が自ら語ったのではなく、最近になって私が知った。
 粟国と私の共通点は、同年生れであるということによる時代、体験の共有の他に、
労働組合運動の中で自らリーダーになることを求めるよりも、リーダーをサポート
することに徹する姿勢にもあった。彼は亀甲という類稀なリーダーに恵まれた。ま
さに、「趣味は亀甲」であった。

象徴的な実話は、組合運動一筋で家庭生活を犠牲にし、委員長になっても持家のなかった亀甲のために、首里の粟国家の敷地内に彼の家を建ててしまったことであろう。これには脱帽する。亀甲は、その家を終の棲家として、波乱に富んだ人生の穏やかな晩年を過ごし、1994年に70才で逝った。彼の三回忌に出版された亀甲の追悼集の後記の中で福地昿昭復帰協事務局長は「執筆依頼を受けた国内外の人達が一人残らず、締切期限内に書いてきた」と述べているが、これは皆に敬愛されていた亀甲の人柄をしのばせる最後の挿話だ。
 沖縄における諸闘争とその中での亀甲の役割は、1991年に出版された『沖縄全
逓史』に詳しい記録の中から浮かび上がってくる。これは千ページを越える大冊で、
全逓という組合の歴史を論述したものというよりも、沖縄の昔の歴史から始まり、
戦後史全体を視野に入れた資料の集大成である。戦後の沖縄の歴史を検証する際の不可欠な一冊であり、読物としても興味深い。

◇(2)
 沖縄を最初に意識することになったのは、大学2年生の頃、法政大学に沖縄から
来ていた屋富祖君と知り合ったからであった。伊江島で農民に銃剣をつきつけて農地を奪い、米軍飛行場の建設を強行したという彼の目撃談は生々しく、衝撃的であった。この話をどこかでとりあげさせようとしていた私に、仲井さんが社会党系週
刊紙『社会タイムス』を紹介してくれた。これが機縁となって、私は、当時港区桜
川町の旧左派社会党本部にあった社会タイムス編集部でアルバイトとして働くこ
とになった。編集者は清水慎三、主筆が山口健二、それにアルバイトの私という3
人だけの編集部だった。左右社会党統一によって、機関紙としての使命を終えていたこのタイムスは、その頃には末期を迎えていた。しかし、廃刊までの半年足らずの間は、私にとってエキサイティングな日々であった。最後の頃はタブロイド版の
1ページをまかされて、毎週ルポから演劇評まで書いていたのだから、今から想う
と冷汗ものだ。
 
 社会党の理論的指導者の一人であった清水さんと、かつて全日本青年婦人会議事務局長として青年運動のリーダーだった山口さんの会話は、実に知的かつ刺激的で、私は一言も聞き漏らすまいと耳をそばだてていた。清水さんは書くと歯切れが良く、独創的な論旨を巧みに組み立てていたが、話し方はボソボソとしていた。立派な体格に似合わず、小さな声で話す人であった。ただ、岡山なまりだったので、同郷出身の私には親しみ深かった。その清水さんは晩年に信州大学教授となった。評論家として活躍している猪瀬直樹が先生の第一期ゼミ生だと知ったのは、先年の追悼集会で彼が思い出を語ったからである。
 
 対照的に山口さんは実に明快な論旨を展開する人で、聞く人を酔わせるような語
り口だった。しかし、山口さんはハンサムでダンディーだったが、ややニヒルで、
人がなれなれしくするのを拒否するような雰囲気をもつ、不思議な人だった。彼は
私がこれまでの人生で会った中で最も理解しがたい人だった。金曜日の夕方、最後の原稿に朱を入れた山口さんは、黒のタートルネックの上にジャケットを無造作に着込み、リュックを肩にして週末の山登りに颯爽として出かけていた。そのサマになった姿は今もまぶたに浮かぶ。おそらくこの頃、畏敬と憧憬の念を持ってみていたのであろう。
 
 タイムス廃刊後、山口さんの姿はぷっつりと消えてしまう。非合法活動に入った
とか、ブダペストの世界民青年本部にいるとか、いや中国の獄中にあるとか、いろ
いろな噂を断片的に耳にしたが、真相はまったく不明なままだ。70年代後半に新
宿で再び遭遇したとき、山口さんはただ笑うだけで、私の疑問には何一つとして答
えてはくれなかった。あれほど才能があって、あれほどミステリアスな人には会っ
たことがない。彼の側近をもって任じていた大木泰之(総評本部書記局、故人)は
「東大卒の秀才」といっていたが、他の人によると、学歴はなく、どこからともな
く彗星のごとく登場し、当時の青年運動だけでなく、社会党青年部をも牛耳ったと
いう。彼は、コミュニストともアナーキストともいわれていたが、私は彼からイデ
オロギー的な話を一回も聞いたことがない。
 当時の彼からみれば、未熟な私は話し相手ではなかったのであろう。ただ大学を
中退しても運動にのめり込みそうな私に「そんなに簡単に世の中は変わらない」と、
ややあざわらうような口調で「大学を続けろ」と諭してくれた山口さんに、ラジカ
リストの印象を私はもっていない。

◇(3)
 話を沖縄に戻すと、社青同時代の1963年4月、沖縄の目前まで船で行ったこと
を思い出す。それは祖国復帰をスローガンとして、本土と沖縄の第一回海上交流が行われた時のことで、その指揮者は社会党本部の国民運動担当中執だった西風さん。
社青同は金がないので、社会党機関紙局経営局長だった加藤宣幸さんに頼んで、社会新報特派員として旅費を出してもらった。
 
 鹿児島までは夜行列車で行き、そこから与論島へは定期船で渡った。当時の与論島には宿らしいものは一軒しかなく、われわれは一般の民家に分宿したのだが、それも満杯で、私は徳田球一の弟の政二さん(沖縄連)と同じフトンで背中合わせに寝るはめになってしまった。翌日の海上交流では、沖縄側は最北端の辺土岬から大きな漁船で繰り出したのに、本土側は与論島で現地調達した小船ばかりで、波にもまれて船酔続出という有り様だった。返還運動と復帰運動の熱と力の差をみせつけられた一幕。
 この行事について書いた私のルポは、その後、社会新報にほぼ全面を埋めて掲載された。ただし、使われていた写真は、カメラを持たない私がとったものではない。

 沖縄に初めて行ったのは、1967年6月に那覇でPTTIアジア諮問委員会が開催
された時だった。会場は、今はなくなっている東急ホテル。会議の主役は、当時全
逓委員長だった宝樹さんで、私はその随行通訳であった。その頃私が働いていた全逓本部は秋山実共闘部長、新井則久担当中執、それに私が担当書記で、政治国際関係をこの3人でこなしていた。
 
 沖縄全逓委員長の亀甲さんにこの時初めて会った。亀甲さんが久茂地町の全逓事務所のすぐそばにある「美栄」という料理屋に会議のメンバーを招いてくれたのだが、その料理は那覇随一といわれたもので、いまだによく記憶しているほど魅了された。後年、家族と一緒にこの美栄を再訪した。場所は同じだが、周辺の風景は一変しており、経営者も代替わりしていて同じような感激は味わえなかった。
 
 亀甲さんは、復帰運動の主力であった県労協議長としてずば抜けた影響力と実力を持つリーダーだったが、少しも気取りも、気負いもない、余裕綽々の人だった。
しかし、彼は時代の先を読む人で、沖縄全逓を単独で国際産業別労働組合組織の
PTTIに加盟させていただけではなく、アメリカが支配する労働団体として左翼か
ら攻撃されていた国際自由労連(ICFTU)に県労協主力組合を加盟させていた。こ
の国際的つながりが沖縄における権利闘争とその祖国復帰に果たした積極的な役割は、今ではほとんど無視ないし軽視されており、正当な評価を受けていないのが残念だ。
 
 国際自由労連は、沖縄における加盟組合とその闘いを支援するという目的で、現
地代表として全米自動車労組(UAW)出身のロビンソン代表(黒人)を常駐させ、
駐留米軍政府との直接交渉のチャンネルを作っていた。こうしたことが暴力的対決
の危険を回避させ、米軍をして国際世論とアメリカ世論に気をつかわせ、抑制的に
行動するのに役立っていたことは、もっと検証されてしかるべきであろう。
 私は、1969年にブリュッセルで開催された国際自由労連世界大会に亀甲さんと
一緒に参加したことがある。この時、ニジンスキーPTTI書記長と日本全逓の後援
のもとで、亀甲さんは沖縄における労働組合の権利と祖国復帰に関する決議を提出し、ICFTUの正式な方針として採択させた。
 
 これに続いて、同年のPTTIベルリン大会でも亀甲さんを先頭にして同趣旨の大
会決議を行わせた。ICFTUからは当時アメリカAFL-CIOは脱退していたのだが、
アメリカ通信労組ジョセフ・バーン委員長はPTTI会長のポストに留まっていた。
この決議案の文言は、ニジンスキーPTTI書記長によって練り上げられ、アメリカ
の組合も支持できるように起草されていた。これにもとづいて、民主党の有力な支
持労組である通信労組(CWA)は、ジョンソン大統領に直接会見し、申し入れも
してくれた。またCWAバーン委員長は、AFL-CIO国際委員長としてアメリカの
ナショナルセンター、AFL-CIOの支持もとりつけてくれた。
 
 亀甲さんの背後にあってこうした路線を沖縄全逓とさらには沖縄県労協の多数
派がとりえたのには、粟国さんの存在が大きかったし、亀甲さんは粟国安喜を頼り
にしていた。亀甲さんが闘争中に逮捕投獄された時、全逓委員長代行に指名されたのは粟国さんだった。
 亀甲や粟国達の活躍がピークに達したのは、1972年の復帰実現直前の時代であった。私は、1972年3月にPTTI東京事務所長に任命され、全電通会館に事務所
を開設したが、沖縄復帰が実現したのは同年6月であった。その頃はPTTI加盟組
合である沖縄全逓とは日常的にコンタクトを維持していた。
 
 復帰に先立つ1968年、屋良朝苗教職員会会長が知事に当選したことによって沖
縄初の革新県政が実現し、70年頃から祖国復帰が政治課題として浮かび上がると、
粟国さんは屋良知事に請われて県渉外課長となり、米軍政府や日本政府との折衝の前面に立つことになった。それから復帰までの嵐の2年間を彼はこの職に専念した。
そして復帰実現後は、さっさと県庁を後にして、一旦はKDD沖縄の管理職となる
のだが、それも早期退職し、早くから悠悠自適の人生を歩んでいる。声がかかれば、喜んで労働組合の講座等には出かけているようだ。
 
 亀甲にまつわる多くのエピソードの中からここでもう一つ披露したい。
 屋良知事の当選が確定した夜、喜びにわくその選挙事務所から責任者亀甲の姿は早くから消えていた。亀甲は、その夜、対立候補であった自民党衆議院議員西銘順治と二人で静かに酒を酌み交わし、敗れた彼をなぐさめていた。亀甲と西銘は立場こそ違い、真正面から政治的対立していたが、彼らは戦前に東京で共に学生生活を送った親しい友人だった。
 
 亀甲は、海軍の通信士として徴兵されたニューギニア戦線で生き残り、西銘は東
大卒後官僚の道を歩み、南太平洋信託統治領の司政官として敗戦を迎えた。戦後二人は手を携えて沖縄初の新聞社を設立し、西銘が社長、亀甲が編集長となった。しかし、赤字続きの新聞を維持するために、米軍から流出した酒とタバコを鹿児島に船で密輸し、資金を捻出していたことを、亀甲さんは例のユーモラスな口調で私に語ってくれた。しかし、これは真実か、彼が好む酒席でのエンターテインメントとしての作り話か定かではない。この新聞は長続きしなかった。それは、朝鮮戦争が激化した頃のある夜、亀甲は無線を傍受していて、「マッカーサー」「満州」「爆撃
」という言葉を切れ切れに聞いた。そこですぐに筆をとり「マッカーサー、満州爆撃
を決定」という見出しで翌朝の一面に掲載する記事を一気に書いてしまった。もち
ろん真相は衆知のように、そのような爆撃を主張したマッカーサー元帥がトルーマ
ン大統領によって解雇されたのであった。
 亀甲さんは無線の状態が悪かったと後に弁明していたが、多数説は亀甲さんのメートルがかなり上昇していた結果だろうとみている。この新聞は即日発行停止処分を米軍政庁より受け、廃止に追い込まれたという。そこから、亀甲は郵政庁に入って組合運動一筋に、西銘は政界に入り沖縄切っての実力者へと、対立の道が始まった。
 復帰後、組合運動の第一線を退いた亀甲さんは、仲間に推されて労働金庫の理事長になった。その亀甲さんに呼ばれて、労働金庫の研修講座に行ったことがある。
今から思うと、職員の皆さんは私から「国際労働運動論」など聞かされていい災難
だったことだろう。海洋博開催中だったので、復帰後まもなくの頃だった。粟国に
よると、亀甲さんは理事長就任の挨拶において「労金にカンパをお願いする」とブ
ッたので、労金に預金する金をとられると話題になったそうだ。亀甲さんには「預
金」とか「貯蓄」というボキャブラリーがなかった。
 
 次に亀甲さんが沖縄の組合を驚かせたのは、労金の収益金すべてをあてて、シンクタンク「沖縄労働経済研究所」を設立するという構想を発表し、実行したことだ。
組合幹部の中には陰での反対論も少なくなかったようだが、組合員大衆に絶対的な
人気のあるドンの言うことなので、正面切って異論を唱えるものもなかった。私も
この研究所に協力するようにと申し渡され、その後何回か亀甲特命で沖縄に足を運んだ。
 亀甲の構想はスケールが大きい。「日本の地図をみると沖縄は辺境だが、アジア
の地図をみると中心に位置している」というのが好きなセリフだった。また「本土
並み」という当時のスローガンは人々の経済的なフラストレーションをかきたて、
最貧県としてのコンプレックスをあおるので良くない、むしろ世界における沖縄独
自の役割を追求すべきというのが、亀甲さんの持論だった。そこから、大国主義の
対極にたつ「世界島々連合」構想が登場する。いくつかの島嶼国に研究所からミッ
ションが派遣されたが、亀甲さんはシンガポールに特別の関心を寄せていた。
 
 亀甲さんに頼まれて、シンガポール労働組合会議のデバン・ナヤ議長を沖縄に招
待するのに尽力したことがある。共和国大統領に就任することがその時すでに決まっていたが、デバンは喜んで沖縄に来てくれ、すっかり亀甲さんや沖縄が気にいった。シンガポール航空の那覇乗り入れ案も出されて、ある夜、県知事になっていた西銘順治、デバン、亀甲のインフォーマルな夕食会がこのテーマで持たれた。国会外務委員会理事を歴任した西銘知事は大乗気で、話は大いに盛り上がった。そこで、通訳として同席していた私が「那覇は本当に“ハブ”空港ですね」と混ぜ返したので、亀甲、西銘両氏が大爆笑。
 惜しむらくは、デバンは大統領就任後間もなく、実力者リ・カンユー首相と対立
して辞任、アメリカに亡命してしまう。これで話は立ち消えになった。また、研究
所は亀甲さんが理事長退任間もなく閉鎖された。英語でよくいう「グッドシング・
ダズノット・ラースト・ロング」(良いことは長く続かない)だ。 

◇(4)
 今回の沖縄訪問の最後の朝、最後の激戦地、摩文仁の丘に最近設立された平和祈念館を見学した。生々しい展示を通じて実感したのは、日本の軍隊は国民を守るのではなかったことだ。一般市民を一番危険なところに追いやり、自らの安全を最後まで求め続けた実態がたくまずして浮き彫りになっている。一般住民を避難している洞穴から追い出し、そこに入り込む軍隊の姿は実になさけない。こうした日本軍隊のDNA、国民の生命よりも自らの維持を優先する体質は、はたして今日の自衛隊において清算されているのだろうか。
 最後に、この公園内に記念碑が沖縄では行政区別に、本土については府県別に戦死者名を刻んだ碑が「平和の礎」として立ち並ぶ公園を再訪した。これまでは駆け足だったので気がつかなかったが、その一隅にアメリカ人兵士の戦死者名を記した
碑が同じように建立されていることに目がとまった。敵味方の区別なくすべての死
者を悼む気持こそがまことの平和の祈りであろう。
 
 オランダ系アメリカ人の学者、マリウス・ジャンセンの『日本と東アジアの隣人
- 過去から未来へ』(岩波書店)を読んで、摩文仁の丘の平和祈念堂が、沖縄戦を体験した画家の山田真山の熱意と遺志によって献立されたことを知った。この祈念堂の中央部は世界七つの海を象徴する7本の柱で囲まれている。沖縄の歴史を知ることは、現在の日本に台頭する盲目的なナショナリズムの解毒剤として効果がある。
 ジャンセンのこの本は講演集なので読みやすく、東アジア共同体論議を考察する
上で、日本の論者にほとんど欠落している東アジア的視点を与えてくれる。江戸時
代までは、日本が沖縄を「外国」として表面上はあつかってきたことをあらためて
学び、日本政府がよって立つ今日のご都合主義的領土論が根深い歴史を持っていることに気づいた。
                  (筆者は姫路独協大学外国語学部長)

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