■連載 回想のライブラリー(10)         初岡 昌一郎

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(1)
 去る3月末で50代半ばから17年間勤めた大学を定年退職した。早速この機会
をとらえ、前から夢見ていたトスカーナの春を楽しむために、イタリアに3週間
ばかり妻と一緒に旅し、連休前に帰ってきた。イタリアにはこれまでに何回も行
く機会があったが、新緑の季節に田舎を中心にのんびりと滞在したことは初めて
で、とてもエンジョイすると同時に、あらためてイタリアの魅力を見直すことが
できた。
 
 最初の5日間はシエナから70キロばかり離れたところにある、12世紀初頭に
建造された古城(15世紀頃からは僧院)を修復改造したホテルに滞在した。客室
7部屋のみだが、音楽会のできるチャペルや、立派なダイニングルームとラウン
ジなど素敵な設備を備えている。これは、ATGという、イギリスのウォーキング
専門の旅行社が所有するもので、その「ロレンゼッティの風景」というプログラ
ムに参加した。ATGについては、別の機会に書きたいが、それを紹介してくれた
のは、前号でふれたアメリカの友人、ボブさんである。
 
 ピェーヴェ・カステロと呼ばれるこの館は小高い丘の上にあり、そこからみる
トスカーナの眺望はまことに絵ハガキのようだった。周囲にみえる人家はほとん
どなく、よく手入れされた畑や牧草地がうねうねと続き、イギリス人のいうロー
リング・ヒルズ(ころがっているようにみえる丘とでもいうべきか)とはこのよ
うな風景をさすのだと思った。かつてスポーツ写真家だったマネージャーのパウ
ロによると、フィレンツェ近郊はもっと山に近く凸凹のある風景のトスカーナで
男性ともいえるが、遠望には欠けているのにたいし、シエナ近郊は女性的な美し
さだという。山が遠景にみえるだけで、低い丘がおりなす高地の実にやさしい景
色だ。
 
 人間の手は加えられているものの、歴史的景観と断片的自然がよく保存されて
いる。このホテルの周辺は禁猟区になっているためもあり、イノシシ、シカなど
野生動物が住んでいる。ケーンという雉の鳴き声をよく耳にしたが、ある日の夕
方、畑でエサをあさるつがいを別々の場所で3組もみかけた。その後に泊まった
「ラ・フラテリア」という僧院(コンベント)は一部を宿泊施設としている。人
里離れたこの僧院はすばらしい庭園に囲まれており、広大な敷地とその裏山に野
生のシクラメンが群生して咲き乱れ、野生の蘭の花が点在していた。
 
 イタリアでは歴史的景観の保存が憲法によって義務づけられており、法律的行
政的に大きな努力が払われている。かつて、同国憲法第9条がそれを規定してい
ると聞いたことがあるが、本当にそうなのか、日本憲法の9条のように骨抜きに
される傾向にあるという話だったか、チェックしないまま今日に至っている。し
かし、わが第9条よりもはるかに厳しく守られているようにみえる。このピェー
ヴェ・カステロも修復許可までに厳しい審査を受け、しかも、いろいろな手続き
を経て認可されたそうだ。特に外観の保存と周辺の風景との調和が最も重視され
たという。すぐ気がつくことは、野立て看板や広告が厳重に規制されており、ど
こをみても目につかないことである。
 
 かつてジャーナリストであったATG創立者がこの城の修復と利用を考え、所
有権はイギリスのATGに属するが、運営はすべてイタリア人の手で行われ、周
辺の農家にも産品の供給先だけではなく、雇用や仕事を提供している。ここでの
イタリア料理はこれまで味わったことないものがいろいろあって、十分に満足し
た。そのほとんどの素材は周辺30キロ以内で調達しているという。
 われわれのガイド兼リーダーのジャンカルラは、シエナ生れでシエナ大学を卒
業した生粋のシエナっ子で、彼女から徹底したシエナ自慢を吹き込まれた。20代
の後半に5ヶ月をフィレンツェで過ごしたことのある私にとっては、フィレンツ
ェを中心にルネッサンスの歴史を見るくせが自然についていたが、このフィレン
ツェ史観は彼女に木端微塵に論破されてしまった。
 
 シエナはフィレンツェよりも早く経済的に発展し、銀行という金融形態もシエ
ナの質屋ギルドが歴史上初めて生み出したこと、軍事力でシエナがフィレンツェ
に侵略された以後、メディチ家が真似してそれを発展させたことも教えられた。
 このプログラムの主題の「ロレンゼッティ」は、シエナを中心にルネッサンス
に先行して活躍した画家である。それまで人物中心の宗教画の世界に、初めて風
景画という新しい世界を拓いた人で、ルネッサンスに多大な影響を与えたという。
ロレンゼッティの絵をシエナで観た後に、その風景を歩くというのがこの旅のテ
ーマだった。シエナの美術館や教会の絵を彼女の熱心な解説によって、これまで
敬遠してあまり本気で観たことのない宗教画についての見方を教えられた。

 中世までの宗教画がすべて空想によって画かれ、ビサンチン的な金色に輝く背
景にすべての人間は死者のようにフラットに描かれていた。シエナ派の画家達が
次第に現実の世界の建物や風景を取り入れ、人間も生き生きとかくようになって
ゆくプロセスを実感的に学んだ。それに遠近法(パースペクティブ)が加わって、
ルネッサンスへの道が準備された。イタリアでは、絵画の勉強は、書写技術の習
得にとどまらず、数学や理科、歴史を結合して行われてきたことを知った。
 
 ロレンゼッティの風景をめでながら、半日かけて塔の町として知られるサンジ
ェミニアーノまで、やわらかい春の陽射しの中を彼女の先導の下で歩いた。この
町はかつて青春時代にきたことがあったが、「タワーはパワーである」という、
ジャンカルラの解説によって新しい見方をとることができた。多くのタワーが今
でも残っているが、よくみると現在町役場と博物館となっている最高の塔を除き、
すべてのタワーの先端はフラットになっている。
 
 それは、最高の地位についた一族が、他のタワーがそれより高くそびえること
を許さず、先端を切らせたからだという。ヨーロッパの歴史をさかのぼると、ア
ラブ世界の歴史と不可分に結びついている。建築技術、特に石を用いて高層の建
造物がヨーロッパで作られるようになったのは、十字軍時代に先進的だったアラ
ブ世界から(おそらく拉致した技術者を通じて)摂取したものである。こうみる
と、アラブ系のテロリスト達がマンハッタンの最高峰、世界貿易センタービルを
9.11という日(アメリカではその数字は救急車を呼ぶためのナンバー)に狙い撃
ちしたシンボリックな意味がより鮮明になる。

(2)
 トスカーナの滞在が4月9・10両日のイタリアの総選挙を重なったので、久し
振りにイタリア政治に関心を甦らされた。私の話したイタリア人達は、今回は左
派連合の完勝とまでいかなくとも、楽勝を予想していたが、結果はジャーナリズ
ムの予想通りの大接戦だった。トスカーナ地方など中部では伝統的に左派が強く、
経済的中心の北部地方と後進地方の南部で右派が強いというのは、伝統的政治地
図である。今回もその基本的パターンは崩れなかった。
 
 それにしても、83%という高い投票率が、あのあまり真面目にも、政治的にも
見えないイタリア人によって達成されたことはどうしてかよくわからない。前回
も81%程度だったし、戦後一貫してイタリアの投票率は高い。
 ベルルスコーニが上下院での敗北にも拘らず、あれだけ往生際が悪かったのは、
政権を手放すとこれまで政治的に防いできた数々の違法行為とテレビ界を徒手空
拳で独占するに至ったあくどい手法が暴かれ、塀の中に落ちる可能性が高いとい
われているからだろう。最後には、彼が「大連立」まで提案して政権に固執した
が、まともには相手にされなかった。ドイツなどで経験されている大連立は、ヨ
ーロッパ統合に反対する左右の極端派を排除するために行われてきた。

だが、イタリアの現在の政治は明確に左右両派に分かれており、右派はファシス
トまで含み、左派は正真正銘の共産主義者まで包含している。民主主義者を中心
にしたファシストと共産主義の連立などは、いかにイタリアといえどもありえな
いだろう。
 今回の選挙結果をみて私が特に印象づけられたのは、まず左翼民主党の政治的
力量の大きさだ。この党はグラムシが創設し、トリアッチが育てた共産党の後身
で、冷戦が終わった1992年、社会民主主義的政党に転換した。もともとヨーロ
ッパの共産党は社会民主主義政党の左派がロシア革命後にソ連共産党の影響下に
分裂して結成したものなので、ソ連共産党消滅後に社会民主主義に復帰しても驚
くにあたらないことであろう。
 
 この大転換を指導したのは、キリスト教民主主義との歴史的妥協を提唱して話
題となったベルリンゲルを後継したオケット書記長だった。サルディーニアの貴
族出身でとっつきの悪かった前任者ベルリンゲルと異なり、オケットはイタリア
青年共産同盟出身の大衆運動家であった。私が1960年代の初め頃に、何回かイ
タリア青共のゲストとして滞在した時、彼はその書記長であった。しかし、個人
的に接触した記憶はない。彼は国際会議に自分で出ることはほとんどなく、担当
者にまかせていた。その当時から、分権的な運営が徹底していたからであろうが、
イタリア青共の代表達は個性的で、セクト的なにおいを全く感じさせなかった。
青年学生の国際会議でよく同席したが、自分の主張を展開しても、相手や違う立
場を攻撃しない点にいつも感心していた。中ソ論争にたいしてもどちらかにいれ
あげ、片方を攻撃するという態度をとっていなかった。 
 
 10を越える政治党派を集めた左派連合の中で、20%台の投票を得た最大の政治
勢力は左翼民主党であった。他に二桁得票をした政党はその連立内にないのだか
ら、抜きん出た中心的存在である。しかし、ウィングを右に広げるために、キリ
スト教民主党系の学者出身テクノクラートのプロディを首相候補として支えて選
挙戦をこれまで闘ってきた。
 
 選挙後、最大党派であるこの党から党首ダレーマが下院議長に選出されること
は当然とみられていた。しかし、5%台の得票で、629議席の下院において11人
から41人へと躍進した再建共産党が下院議長に固執すると、その党首であるベ
ルティノッティを率先して支持する方向に音頭をとった。この両党は旧共産党時
代から左右に分かれて対立していた人々によって結成され、その後は組織遺産と
支持勢力をめぐって激しく競合してきただけに、他の国においては信じ難い政治
的出来事である。しかも、国会内で十分の一にも満たない極左の政党から首相に
次ぐ政治的地位である下院議長が誕生したのには、本当に驚いた。きわどい議席
差での議長選を制したということは、左派連合からほとんど造反がなかったとい
うことを示している。議論の多いイタリア社会だが、約束を守ることを基本とす
る西欧型契約社会の原型は生きているようだ。

(3)
 今回の旅でイタリアが変化し、また変化しつつあることを田舎と小都市だけを
回ったことによって、これまで以上に感じとった。小さなことから例をあげると、
英語が広く通じるようになっている。45年前、フィレンツェでさえ英語はほとん
ど役立たなかった。今は田舎でも旅行には英語でほとんど不自由がない。片言の
イタリア語で話し始めると、すぐに英語で返事がくることがしばしばだった。持
参していた昔のイタリア語会話帳は途中で棄ててしまった。でも、イタリア人は
片言のイタリア語に非常に寛大で、カンよくこちらの要求を汲みとってくれる。
 
 あまり変わらないのは鉄道の駅だ。無人化が進んで駅員の姿は見えなくなって
いるのだが、表示や案内は旧態依然のままだ。便利でわかり易いことこの上ない
スイスの鉄道と比較すると天国と地獄ほどの差がある。荷物を運ぶのにもエレベ
ーターやエスカレーターはまず皆無に近く、階段を上下してホームに行かなけれ
ばならない。歳をとって非力となり、おまけに膝に痛みを持つものにとっては難
行苦行であった。
 
 変わったことの一つは、イタリアが物価高の国となったことである。ユーロの
採用以後この傾向が顕著になったようだ。もはやイタリアは安上がりに旅行しう
る国ではなく、物価高で有名だったスイスとあまり変わらなくなってしまった。
同じユーロ採用国でもスペインが比較的低物価であるのとは大きな違いだ。これ
もあってか、イタリアの経済はこのところ低迷している。輸入が増加しているの
に輸出が伸びない。かつては豊かな農産物を誇っていたこの国で今や食料品の輸
入が増大し、乳製品や肉類も輸入依存度が高くなっている。素材の優秀さを特長
とするイタリア料理の将来も脅かされつつある。
 
 イタリア経済の特長といわれてきた優秀な中小企業にも陰りがみえている。こ
れらの中小企業の多くは、繊維被服や皮革製品などの軽工業分野において品質と
デザインの上で優位を保ってきたが、やはり中国をはじめとする途上国からの価
格面での追い上げや、生産の途上国への移転に直面しており、昔日の面影を失い
つつある。
 
 教育の機会は拡大したが、内容や制度が旧態のままだと指摘されている。たと
えば、大学は学生増で混雑しているのに施設は追いつかず、先生は旧来の特権に
あぐらをかいたまま昔ながらの授業方法を続けていると批判されている。イタリ
アは日本と並んで人口減少と高齢化に悩んでいる。働く女性にとっての環境や条
件が悪く、これが少子化につながっている点では日本によく似ている。
 宗教的にはカトリックの強さが知られているが、この面でも変化は進行してお
り、教会に出席する人の数は着実に少なくなっているといわれる。カトリック教
会の政治的影響力は大きく落ち込み、今日の政治状況はそれを反映している。
 
 戦後のイタリアは政権交替が頻繁なことで有名だったが、それは国民政党であ
ったキリスト教民主党内部の勢力争いによるもので、政権は代わっても政治があ
まり変わらない点では日本の戦後政治そっくりであった。イタリアの本格的な政
治的変化は、冷戦末期に社会党が政権参加する時代に始まった。キリスト教民主
党が非共産系左派の参加なしに政権が維持できなくなったからである。
 この時代を代表する政治家は、社会党首クラクシであった。クラクシは戦後で
最も長命な首相の一人に数えられるが、末路はあわれで疑獄事件で失脚し、現在
もチュニジアに亡命したままである。この事件を契機に社会党は消滅したし、キ
リスト教民主党も霧散し、いくつかの小政党として分立した。
 
 クラクシは少数派政党の社会党の出身でありながら、長期に政権を維持したや
り手だった。社会党を消滅させた罪とは別に、彼が政権について、国家と宗教の
分離に向けて大きな改革を実現させたことは後世に残る功績である。
 カトリックがイタリアの国教となったのは、その後楯を利用しようとしたムソ
リーニのファシズム政権成立のことだから、神道を国家宗教化した日本と軌と時
期を同じくしている。
 1929年のこのラテラノ条約は、イタリア近代国家を樹立した際のカブールによ
る有名な「自由な国家における自由な宗教」という原則を否定したものであった。
カトリック教会はその特権を否定したこの原則を激しく批判し、国家と対立関係
に入った。当時のローマ法王は信者が国家公務員になることを禁止したほどであ
った。
 
 ムソリーニによるこの条約は、(1)イタリアと法王領をそれぞれ主権国家として
領土的に分ける、(2)カトリックを唯一の国教として認め、その宗教教育を義務教
育の一環とする、(3)宗教活動と教会財産を免税とし、神父や神学生の軍事義務を
免除するなど、多くの特権を認めた。この時まで財政難に苦しんでいた法王庁は、
ムソリーニ政権の莫大な補償によって、きわめて豊かな財産を獲得した。富める
カトリック組織はこの時に成立した。ラテラノ条約がファシズム国家とカトリッ
ク教会の和解と一体化を促進した。
 
 反ファシズムの立場で行われた共産主義者とカトリック教会の共闘が、戦後の
日本ではややロマンティックにクローズアップされる傾向があった。しかし、戦
後もラテラノ体制は続いた。イタリア民主化を進めたアメリカも、共産主義に対
する最強の防波堤としてカトリックの政治的影響を削減するよりも、これを温存、
強化しようとした。この意味で、ドイツとは異なり、イタリアと日本では旧体制
の一定の生き残りが成功し、戦後改革は徹底されなかった。
 
 ラテラノ体制を過去のものとする画期的な協定が、1984年にクラクシ政権によ
ってバチカンとの間で調印された。これにより、公教育での宗教教育義務、教会
財産の免税、結婚の独占的承認などの教会特権が廃止された。そして、イタリア
法規の規制を受けずに活動し、カトリック教会の財政を支えてきたバチカン銀行
もイタリアの法的管理下におかれることになった。
 
 この措置がとられた後にローマ法王庁の財政管理とそれにまつわるスキャンダ
ルが白日の下にさらされ、財政責任者の自殺事件までが発生した。その後、クラ
クシ政権の金銭的スキャンダルが暴露され、その失脚と中道政権の崩壊にいたる
が、それをカトリック側の報復とする陰謀説もあった。いずれにせよ、これらの
事件とイタリアの諸条件の変化が、戦後政治に終止符を打ち、左右の大連立によ
り政権交替という、質的に新しい政治状況を生んだ。日本と違って、イタリアの
民主主義の根強さを示しているのは、左翼勢力が健在でセクト的でないことと、
ファナティックな右翼が少数にとどまり、しかも宗教と戦後処理をあまり政治的
に利用できない点であろう。

(4)

 私がこれまでイタリアに一番長く滞在したのは、40年以上前の1963年10月
から翌年3月中旬にかけての5ヶ月間だった。その大半の日々をフィレンツェで
過ごした。当時ベオグラードにユーゴの奨学金をもらって留学していたのだが、
「平和と軍縮のための世界青年学生会議」準備書記局のあった同地に出向したか
らだ。
 この会議の枠組みは私がユーゴに出発する前から準備されており、日本の青年
団体も提唱者に加わっていた。日本準備会は総評青年婦人協議会(議長は私と最
も仲の良かった新井則久全逓青年部長)が中心になっていた。民青は中国共産党
寄りの当時の日本共産党路線を反映して、こうした平和共存路線には背を向けて
いた。
 
 その頃、親しかった岩波書店の安江良介(後に『世界』編集長を経て、社長。
故人)の仲介で、日本準備会の発起人には、大江健三郎や開高健なども名を連ね
てくれていた。そして、64年3月のフィレンツェ会議には、日本からも大型代表
団が参加し、団長の新井君は会議議長団の一人に選ばれた。
 
 フィレンツェの書記局は、フランス青共、イタリア青共、ソ連コムソモール代
表と私の4人で構成されていた。構成が少人数に留まったのは、常任書記局員の
費用は派遣団体負担だったため、あまり希望する国がなかったことによるものだ。
書記局の作業語は一応フランス語と英語になっていたが、私以外の3人はフラン
ス語で話していた。ハンガリア系フランス人の女性が英仏間の通訳として働いて
いた。だが、食事時になると私を除く全員がフランス語で会話するので、これに
は孤立感を味わった。
 
 当時の私はワインも飲まず、長時間をかけて食事をとる習慣にもなじめなかっ
たので、なるべく一人で食事をするようにしていた。それでも時には誘いを断り
きれず、フランス人のピェールとロシア人のヴァロージャの3人で彼らが常連と
なっていた「アルティスト」というレストランに行った。ようやくメインが終わ
ったと思うと、ピェールは特注のチーズに塩とコショウをつけ、パンを食べなが
らシャベリまくる。彼には、そのオンボロ・ルノー車に時々便乗させてもらって
いた私としては文句もいえず、ナマあくびをかみ殺すしかなかった。
 
 イタリア人書記局員のペトローネはローマに帰っていることが多く、余りフィ
レンツェに居なかった。彼はひょうきんで洒脱な男で、ユーモアに富んでいた。
黒の背広を着ていた私に「お前は日本のカトリックか」とか、「日本社会党もイタ
リア共産党のように腐敗しているか」などと真顔で質問するのだった。彼の警句
の一つに「バチカンはローマの中の独立国。それは問題ではない。イタリアが独
立しているのかどうかが問題だ」というのがあった。
 
 中心街のドゥオーモ(大聖堂)に近い、ベルニーニという古いホテルをイタリ
ア青共が提供してくれていた。フロントは2階で、下は商店。目の悪い老人がシ
ェパード犬と一緒に管理していた。風呂はフロアの奥に一つあるだけで、使用す
る時にはカギを借りることになっていた。20年後にフィレンツェを再訪した時に
探してみたが、このホテル・ベルニーニもレストラン・アルティストもなくなっ
ており、ホテルや食堂も高級化が進行していた。
 
 それぞれの費用は出身団体負担になっており、日本から送金を受ける時代では
なかったので、ユーゴの奨学金と出発時のカンパ金をやりくりし、1日5ドルの
予算でフィレンツェで暮らしていた。物価が安かった当時のイタリアでもこれは
苦しかった。朝はパンとコーヒーだけの典型的なコンチネンタル、昼は事務所か
ら数ブロック離れた、フィレンツェ大学の学生食堂、夜は下町の横丁にある小さ
なトラットリア(食堂)で定食(プレッツォ・フィッソ)をとっていた。この定
食の唯一の選択は、ワイン、ミネラルウォーターもしくはデザートの果物から一
つを決めることだった。
 
 最近のイタリアの少なくとも三ツ星以上のホテルでは、伝統的なコンチネンタ
ルにおめにかかることはない。ハム、チーズ、果物、ヨーグルト、ケーキなどを
揃えたバイキングスタイルの朝食が一般的となっている。これは外国人観光客、
特にアメリカ人やドイツ人などが多くなっているからだろう。また、安い定食ス
タイルの食事であるプレッツォ・フィッソもほとんど姿を消してしまった。
 フィレンツェ生活での贅沢は、毎朝1ドルをはたいて、パリで発刊している英
文日刊紙「ヘラルド・トリビューン」を買うことと、毎週日曜日に美術館や教会
などを巡ってルネッサンス期の芸術にふれることだった。有難いことに日曜日は
入場料なしでこれらの場は開放されており、観光客もほとんどいなかった。マス
ツーリズムはまだ世界的に成立していなかった。
 
 5ヶ月間にフィレンツェで会った日本人は二人だけだった。一人はフランス留
学の終わりに立寄った東大の内田満先生、もう一人はスペインでのフラメンコ修
行から帰国途中の女子学生だった。
 今回の旅行ではフィレンツェには行かなかったが、最初イタリアへ行った1961
年9月に平和大集会で挨拶したアシジを再訪した。その時の集会では珍しい日本
人代表として挨拶を求められた。翌日の共産党機関紙「ウニタ」に大きな写真入
りで私が紹介された。しかも、そこでは「ゼンガクレン代表」となっていた。そ
の時は何も観なかった町並や聖フランチェスカ大聖堂などを今回はゆっくりと見
ることができた。しかし、数年前の大地震の傷あとはまだ随所に残っており、気
の長い修復作業が続いている。
 
今回の旅行から帰った後、ルイジ・バルジーニ著『イタリア人』」に再び目を通
し、自分の今昔イタリア経験に照らして実に興味深かった。今回、事前に送られ
たATG参考書リストをみると、この本は「古典的な名著」として推せんされていた。
 バルジーニは警句を随所にちりばめているのだが、「あらゆる時代を通じて
人々がイタリアにやってくる理由は、たいてい全く空想的なものである」と断定
している。イタリアにほれ込んでいたゲーテもその一人だった。しかし、イタリ
アの魅力は「ほれぼれとするほど自然な人間と自然な態度」にあり、「彼らがなす
ことすべてに示す熱心さや強い興味は、旅人にも感染する」という。
                 
    ***************************************************
 
 本号の原稿を書き上げてから、約一ヶ月が過ぎているので、その後の政治的展
開を少しだけ追加して紹介しておきたい。

 まず、再建共産党のベッティーノ党首が下院議長に選出された。左翼連合各党
所属議員は、ほとんど造反なく、彼に投票した模様だ。共和国大統領には、かつ
ての共産党幹部会員で、今は左翼民主党の長老議員ナポリターノが選ばれた。ダ
レーマ左翼民主党党首は、副首相兼外務大臣として入閣した。この政府はアメリ
カとの正面衝突を避けながらも、イラクからの撤兵に向かうだろう。

 ベルスコーニの往生際はまことに悪く、最後まで総選挙結果を認めず、首相の
座にしがみつこうとした。いよいよ降りざるをえなくなると、各国首脳に書簡を
送り、「すぐに、カムバックする」と宣言した。しかし、5月末の地方選挙の結果
は彼の夢を打ち砕くもので、左翼連合の圧勝に終わった。ベルスコーニ派が勝利
したのは、大都市では、彼の地元、ミラノだけで、ローマ、トリノ、ナポリなど
他の主要都市では左翼連合の市長候補が当選した。シエナはもとより、トスカー
ナ地方では、同連合の完勝であった。これで、先の総選挙での敗北は投票操作に
よるものという、ベルスコーニの主張はまったく根拠を失った。 今年の後半に
は、イタリアを連邦制にするという、ベルスコーニ首相時代の国会決議が国民投
票に付される予定であるが、これが葬られるのは確実であろう。その後は、ベル
スコーニに対する刑事訴追が浮上すると思われる。
               (筆者は前姫路獨協大学外国語学部長)

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