【コラム】八十路の影法師
国字(1)怺
日本人が中国大陸、朝鮮半島の文明についておぼろげにでも認識をもったのは、どれほど昔のことだろう。二千年くらいさかのぼるのだろうか、あるいはもう少し後のことか。
知るほどに、彼らの先進性を認識したことだろう。その一端に漢民族が創り出した文字、つまり漢字があった。日本人は、おそらく躊躇なく漢字によって自らの言語を書き表すことを決めたと思う。ほかの選択肢などないに等しいはずだ。
漢字は数が多い。そのことは学習するうえでは大きな不都合だが、一方で日本人の認識の域を拡げた面もありそうだ。
数をいうとき、日本人にも一から十までは一つ一つに固有の言葉があった。「ひぃ」、「ふぅ」、「みぃ」、「よぅ」…「とぅ」である。しかし百、千、万、億などを表す言葉はもっていなかった(それを必要としていなかった)。数の世界が漢字とともに拡がったのだ。
大きな数など、日本語に相当する言葉がない漢字は中国における発音をまねて読むこと(音読み)で採り入れた。金、銀、銅などもそうである。金には「かね」という語があるが、これは金属、金銭をいうもので、黄金ではなかろう。「金メダル」は「キンメダル」としか読めない。
このような訓読みがない(定まっていない)漢字は漢と和、両民族の上古における文明の差の一端を示しているかも知れない。
常用漢字でいえば全体のおよそ四割は訓読みが定まっていない。
充分に数の多い漢字であったが、日本人にとって不足するものもあった。
日本は古くから神の概念をもち、それへの信仰があった。いつごろからか、庶民の家庭においても神棚が見られるようになる。そこにはサカキという木の枝を供えるのがしきたりである。サカキの学名はCleyera japonicaとなっているそうだが、中国にも、香港、台湾や朝鮮半島の南部、済州島などにも生育しているという。しかし、サカキを特別な木とするのは日本だけのようだ。現代中国ではサカキを「紅淡比」と漢字表記しているようだが、これは古い時代からの名称ではないような気がする。
ともかく、いにしえの日本人にとってサカキを表す漢字はなかった。そこで「榊」という漢字を考え出して使うことにした。このように日本人が漢字の成り立ちなどを模して新たに作りだした字を「国字」と呼ぶ。いわば日本製の漢字だ。
国字はいくつあるのか、わかっていない。常用漢字のうちでは「働」「匂」「込」「畑」「峠」「枠」「搾」「塀」「栃」「腺」の10字は国字という。『漢字の知識百科』(三省堂・阿辻哲次ほか編)では74文字を取り上げている。コンピューターなどを利用するとき必要となる日本語処理のためにJIS(日本産業規格)で定めた漢字があるが、このうちの第1水準と第2水準の漢字(総数6300字余り)の中にある国字は173字にのぼる。ところが、実数はこんなレベルではないようだ。1000字を優に超えるとも、いや、もっと多いなどともいわれていてはっきりしない。またそれぞれがいつころ作られたのかなどもわからない。
数ある国字の中でいくつか興味を覚えるものがあります。その一つが「怺」です。この字は常用漢字外ですがJIS第2水準の漢字には含まれており、日本語文書作成のソフトで「こらえる」と打ち込むと「怺える」と変換することができます。「痛みをこらえる」、「涙をこらえる」などのように、主として苦痛や不快をがまんする意味で使われることが多い。
三省堂の漢和辞典『漢辞海』ではこの「怺」の字義として「耐える」と「がまんして許す」の二つをあげています。後者は苦痛や不快をがまんするばかりか、その出どころである相手を許す、許容するまでをいうとしているのです。年齢のいったかたでは、「こらえる」に「許す」という含意があることに思い当たるのではないかと思います。こどものころに大人から「こらえてあげなさい」などとなだめられたことのある人もいらっしゃるでしょう。
「怺」の字の特徴は、この「許す」の意味を併せ持つことだと思われます。単に「がまんする」ということだけならば「忍」(しのぶ)、「堪」(たえる。こらえるにも当てる)、耐(たえる)といった漢字がすでにあるので、わざわざ国字を作る必要はなかったはずです。わたしたちの祖先には「やられたら、やり返す」式の敵愾心は薄かったのでしょうかね。
何でも彼でもこらえておればいいというものではないでしょうが、現代は忙しさ、社会の変化に伴ういらだちなどなどで人々の「許容する心」が狭くなってはいやせんかと気がかりです。「何人も、あらゆる場において、カスタマーハラスメントを行ってはならない」などという条例を自治体が定めるような社会は「道が有る」とは言えたものではありません。
心理学では返報性と呼んでいるそうですが、人はもともと相手からの仕業、それが敵意からであれ、あるいは好意からであれ、それを受ければ同様の行為でかえすという心理をもっているそうです。「目には目を、歯には歯を」という発想などはその口かも知れません。
ところが「やられたら、やり返す」は限りない敵意の循環を生みます。それを断ち切るには「相手を許す」という選択をとらざるを得ないでしょう。わたしたちの祖先もこのことに気づき、実践していたのかもしれない、そうとも思えます。
趣は少し違うかもしれませんが、中国の古い言葉に「怨(うら)みに報(むく)ゆるに徳を以てす」というのがあり、『老子』や『論語』にも出てきます。相手の仕業を怨んでいても、その対応に当たっては道徳的に善い策や態度で臨むというくらいの意味でしょう。1945年8月15日、当時の中華民国国民政府の主席・蔣介石の演説がラジオで放送されたそうです。蔣介石はその中で日本人(「敵国の無辜の人民」、つまり戦争指導者以外の人)に対しては恥辱・危害を加えないよう訴えました。そのときにこの言葉が使われたことが知られています。
また、仏教の開祖・釈迦の思想を色濃く残すと思われる最古層の経典『ダンマパダ』には次のような句があります。
「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みをもってしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である」 (中村元訳)
日本の国字「怺」、中国の古語、釈迦の法句、これらは大昔の人々の知恵を表すものかも知れません。今のぎすぎすした社会にも、世界の幾人かの指導者たちにも、叡智とこらえ性(自制心)を願ってやみません。
(2024.10.20)
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