【コラム】『論語』のわき道(41)

国葬雑感

竹本 泰則

 会社勤めを終えて閑居の生活が続く中、新聞・テレビへの接し方もだいぶ変わってきました。新聞は見出しだけを眺めて済ますことが多く、テレビも選ぶ番組の幅が狭くなったような気がします。それでもNHKの朝夕のニュースは何とはなく習慣のように見ています。
 9月19日は、例年に無く強烈な台風(14号)が前日に鹿児島市付近に上陸し、列島を縦断しそうな気配があったため朝から台風関連のニュースでもちきりでした。
 夕刻に帰宅して、いつも通りに「NHKニュース7」にチャンネルを合わせると、画面は台風を素通りして、いきなりエリザベス女王の葬儀の様子を伝える英国からの中継でした。おそれ多くも晩酌をかたむけながら拝見しました。舞台といい、演出といい、出てくる役者といい、世紀の大スペクタクル! しかし、残念なことには、昔日の勉学不熱心がたたって、英語を聞いても聖歌を聞いてもわけが分からずじまいでした。
 それから8日後の27日は安倍元首相の国葬。「NHKニュース7」でももちろんトップニュースでした。しかし、テレビで見る限り両者には大きな違いが感じられます。英国からの画面は儀式の次第を追うだけというように見えながら、儀礼の厳粛さ、人々の哀悼(王室否定のプラカードを掲げる姿も伝えていましたが)といったものが伝わるものでした。NHKも儀式の主要なシーンの放送はしていたのですが、一方で、国葬反対派・支持派による会場付近でのデモンストレーションの様子や、海外の反響として、この国葬をめぐって国内が分断しているとする外国のニュース記者のコメントなども交えており、この行事が国民の多くからの支持・納得を得ているものではないことを反映するものでした。

 NHKはさらに与論調査の結果を取り上げて解説しています。「国葬を評価するか、しないか」の設問に対する答えを追うと、7月には「する」は49%と「しない」の38%を上回っていたものが、8月には「する」は36%、「しない」が50%と逆転した。そして9月には「する」は32%、「しない」は57%と差は拡大した。さらに9月に調査項目として加えられた国葬に関する政府の説明についての回答は「不十分だ」とする人の割合が72%にのぼったというものでした。
物事の賛否が分かれることは普通のことと言えましょう。しかし国民の6割近くが否定的である中での強行は慎重であるべきでしょうが、ことが国民の生命・財産・基本的な人権にかかわる重大事でないという観点からは見過ごせるかもしれません。
 一方、なぜやるのか、やることの妥当性が法律なり何らかの手続きによって得られているかについて「説明が不十分」のままということは看過できません。考えてみますと、どうも説明が「不十分」なんていうものじゃない。説明が「無い」、有体に言えば「できない」のではないでしょうかね。
納得できる説明がないということは、この国葬が一部の政治家の私的弔意、もしくは「受け」を狙った催し、あるいはとっさの思い付き・気まぐれの類といわれてもしようがないでしょう。
 行政における最高の権力者であろうと、ただやりたいからといって何でもし放題ではない、それこそ彼のエリザベス女王の国で8百年も前に、度重なる軍役に反発した貴族たちが当時の国王に対して法の支配を認めさせた「マグナカルタ」以来の基本的な原則でしょう。

 安倍元首相の国葬は政教分離の原則に則り、宗教色を排して行われたようですが、そもそも葬儀は宗教と切っても切れないほどに結びついたものではないでしょうか。
 葬儀には、こころ、すなわち思想・精神の側面と、かたち、すなわち形式・儀礼の側面があるように思います。我が国の場合、前者には浄土信仰が代表するような仏教教義、「孝」や祖先供養といった中国渡来の儒教・道教的思想が大きな部分を占めるように感じられます。後者の儀礼に関して、中国学者の加地伸之氏は、「儒教こそ葬儀を重視し、見事に体系化している」といっていますが、わが国でも儒教の影響は大きいようです。
 儒教の入り口にある『論語』をめくって「人の死」に関係する漢字を探してみました。葬が4回ほど出てきます。この漢字の訓読みは「ほうむる」、遺体を埋めるというのが原意のようです。クサカンムリからできているのは、大昔は遺体をくさはらに埋めていた名残かもしれません。今では土葬だけではなく火葬、水葬といった具合にも使われています。次に喪があります。「も」と訓じて、死者を悼む儀礼、哀悼する期間などを言うようです。動詞としては「うしなう」の意味で使われます。喪失という熟語にある喪はこの字義ですね。この字は22回登場しますが、「も」と「うしなう」とは半々の割合です。ほかには弔(とむらう、いたむ)と殯(かりもがり;棺のままで死者を安置すること)とが1回ずつ現れます。

 『論語』には儒教の祖である孔子の死あるいはその葬儀についての記述はありません。歴史書である『史記』によると、孔子は紀元前479年4月11日に73歳で亡くなり、故国「魯」の都の北、泗水の川岸に葬られ、弟子たちは三年の喪に服したこと、喪が明けてから互いに別れを告げて去るときには、みな哭泣したと書かれています。中には、その後までも残る人もいて、子貢(しこう)という高弟などは墓所の傍らに庵を結び、6年もの間とどまったということです。弟子ばかりではなく、魯人の中でも孔子の墓の近くに居を移すものがあり、その数は百戸余りであったといいます。
 どのような葬儀が行われたのかわかりませんが、その人柄にふさわしいものであったのだろうと想像しています。

 孔子の葬儀については『論語』に記述がないと書きましたが、その準備がされていたという話があります。
 孔子が病気に臥し、予断を許さぬ状況が続いたときのことでしょう。古参弟子の代表格である子路(しろ;本名は由)という人が、一門の人たちを孔子の臣下に仕立て、立派な様式で葬儀を出すように取り仕切っていたらしい。
病間に意識を取り戻した孔子がこれを知ってこう述懐します。

 久(ひさ)しいかな、由(ゆう)の詐(さ)を行うや。臣(しん)無くして臣有りと爲す。
吾(われ)誰をか欺かん。天を欺かんか。
 且つ 予(わ)れ臣の手に死なんよりは、無寧(むしろ)二三子(にさんし)の手に死なん。
 且つ 予れ縦(たと)い大葬(たいそう)を得ずとも、予れは道路(どうろ)に死なんや

  わたしには臣下などいないのに いるかのようないつわりを子路は長いことやっていたのだな。
  わたしは見栄のために相手を欺くような気など 誰に対しても持っていない。
ましてや天までを欺くなどもってのほかだ。
  それどころか わたしは臣下などに送ってもらうより、むしろ君たち(愛する弟子たち)の手の中に死にたい。
  さらにいうなら 私は立派な葬式をしてもらえないからといっても道端で野たれ死にするというわけはないじゃないか。

 子路は子路なりに、師を丁重に弔おうとする気持ちがあってのことだったのでしょう。しかし、その短慮は孔子の心に沿ってはいなかったようです。
 岸田総理も安倍元首相をできるだけ手厚く弔おうという気持ちからの国葬であったとしても、過半の国民の心には沿っていなかった。肝心の安倍元首相が草葉の陰でどういっているかは知る由もありませんが……。

(2022.10.20)
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