【アフリカ大湖地域の雑草たち】(27)

国連をダメにしたくない

大賀 敏子

 本稿は、コンゴ動乱をテーマにした先行の9稿(『アフリカ大湖地域の雑草たち(17)-(19)、(21)-(26)』(それぞれオルタ広場2022年5-7月号、9-11月号、2023年1-2月号、4月号掲載(末尾のリンク参照))の続きである。

I スーダンはナイルのほとり

スーダンと日本は同期

 スーダンで、2023年4月15日に始まった紛争が続いている(5月10日現在)。
 スーダンは紅海に接する北アフリカの国だ。ナイル川は首都ハルツームで白ナイルと青ナイルを束ね、エジプトを経て地中海に注ぐ。スーダン史は紀元前までさかのぼる。1956年1月1日にイギリス・エジプト共同統治から独立し、2011年7月9日に南スーダンが分離独立するまでは、南部国境はコンゴ(コンゴ民主共和国)に接し、アフリカ最大面積だった。
 スーダンの国連加盟は1956年11月12日だ。日本はおよそその一か月後、同年12月18日であり、いわば「同期生」だ。
 1960年7月に設置された国連コンゴ活動(ONUC)は、当時独立していたアフリカ・アジア諸国から主に兵を募った。スーダンも遅れることなく398人派兵した(1960年9月21日現在)。

スーダン領土・領空を通るには

 1961年2月7日付けで、安保理は、スーダンの国連代表から書簡を受け取った(S/4674)。上述のように、スーダンとコンゴは国境を接していたため、ONUCは人や物資を運ぶのにスーダン領土・領空を通過したり、着陸したりする必要が頻繁にあった。書簡の趣旨は、通行許可を申請するのはONUCが一元化してほしい、各国政府からの個別申請は受け付けないというものだ。しかもこれは、前年10月10日付けで提出済みの書簡と同じ内容で、あらためて徹底してくれというものだ。
 まさに「国連中心主義」を貫いた正論である。

東西に分裂する

 ハマーショルド国連事務総長は、ONUC参加国の代表者から成るアドバイザリー・コミッティと定期的に会合を持った。常任理事国からは派兵しないという原則があったため、超大国抜きで、アフリカ・アジア諸国とインフォーマルだが自由に意見を交わそうというものだ。
 とは言え、アドバイザリー・コミッティも、コンゴ内政を反映し、東西で分裂していた。
 ソ連・東側寄りのグループは、ルムンバこそ正当なコンゴ代表だとの立場だ。モロッコ、アラブ連合共和国(エジプト)、ガーナ、ギニア、マリ、アルジェリア、リビア、セイロンといった国々で、モロッコ国王が招聘した会議(1961年1月3-7日)に参加したことから、「カサブランカ・グループ」と呼ばれた。国連はルムンバを助けず見捨てたと、それぞれ自国兵の引き上げを表明し、20000人近かった現場の兵力は14000人に減っていた(1961年2月現在)。過激なアフリカンと呼ばれたゆえんだ。ソ連は、ONUC撤退と事務総長の辞任を主張し、資金不払いを示唆して圧力をかけた。
 アメリカ・西側寄りのグループは、カサブブ大統領が代表し、モブツ参謀長が実権を持っていた体制にひとまず承認を与えていた。ときのアメリカの表向き態度は、あくまで国連を通してコンゴ政策をとるというものだった。

II スーダンのとびぬけた重要性

あくまで中立を維持

 激しい東西の駆け引きにかかわらず、あくまで中立を堅持した国々もあった。チュニジア、エチオピアと並び、スーダンはその一つだった(1961年2月現在)。
 これらの国々は、ONUC派兵に条件をつけたと言われる。紛争勢力を互いに遠ざけ、保護すべきものや人を守ります。しかし、武力行使を余儀なくされると、どちらかに加担せざるを得なくなるので、そのような場所に配置されることは拒否します、といった趣旨だ(Office of the Historian; 38. Telegram From the Mission to the United Nations to the Department of State, New York, February 24, 1961)。
 なかでも、スーダンは飛びぬけて重要だった。地図を見れば一目瞭然だが、コンゴと国境を接する国のうち、当時独立しており、かつ、東西の明確な色分けがなかったのはスーダンしかなかったのである。言い換えれば、中立の立場でコンゴに近寄るには、陸路も空路もスーダンを通る以外の方法は、事実上なかったのだ。大西洋岸(海岸線は37キロ)からコンゴ川をさかのぼる水路もあったが、効率が低い(註1)。

(註1)
 コンゴと国境を接する国は次のとおり。Angola 2,646 km; Burundi 236 km; Central African Republic 1,747 km; Republic of the Congo 1,775 km; Rwanda 221 km; South Sudan 714 km; Tanzania 479 km; Uganda 877 km; Zambia 2,332 km(Congo, Democratic Republic of the - The World Factbook (cia.gov))

アメリカに感謝された

 スーダン・ルートを、喉から手が出るほど渇望していたのはエジプトだ。スーダン国境に面するコンゴ領はオリエンタル州だが、その州都スタンレービルはルムンバ派の拠点だったためだ(地図(The New York Times, 11 December 1960から転写)参照)。もしこれが可能になれば、ソ連のコンゴ政策は、エジプトを介在して、圧倒的に有利になるし、その反面アメリカはいちじるしく不利になる。
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 「(スーダンの)アッブードゥ大統領……には恩がある」
 これは、アメリカ国連大使(Stevenson)が本省に宛てた電報にある(Office of the Historian, 35. Telegram from the Mission to the United Nations to the Department of State, New York, 22 February 1961)。東から西からスーダンが受けていた外圧は、想像を絶するほどであったことは疑いようがない。
 このときのスーダン国家元首は、1958年11月の軍事クーデターで政権をとったイブラヒム・アッブードゥだ。ラベルは軍事政権だが、そこにも多様な顔があったのだろう。1961年に訪米し、ケネディ大統領に「近隣国との平和共生のお手本」と称賛されたという記録もある
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Ibrahim Abboud with President Kennedy at the White House, 1961(Wikipediaから転写)
(The New York Times by Joseph B. Treaster “Ibrahim Abboud, 82, was Sudan’s Leader from 1958 to 1964”, 9 September 1983)。

スーダン人を起用

 だからと言って、当時のスーダンが西側寄りだったわけでもない。これは、ONUCを現場で指揮する事務総長特別代表の人事からもうかがえる。スーダン出身のMekki Abbasが起用された(正確には、事務代行(1961年3-5月))。
 何をしてもしなくても、いずれにしても批判の矢面に立たされる政治的なポジションだ。スーダン出身の人物なら、多くの加盟国が概ね納得するだろう、いや、たとえ納得しないまでも、表立って反対することはないだろう、といった、バランスが斟酌された結果ではないか(別表「ONUC現場責任者」参照)。
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III 寄ってたかって

そのほかの国々も

 スーダンのほかにも国連中心主義を真剣に追及する国々はあった。
 上述のように、兵力を撤退する国もあった一方、インド、マラヤ(マレーシア)など、兵力を増強した国もある。インドのネルー首相は、「これまでの半年間の国連事務総長の指揮に、全面的に賛成なわけではないが」と断りながらである(The Times “Mr. Nehru’s Terms for Sending Combat Troops to Congo”, 16 February 1961)。
 幸か不幸か、この時期に安保理非常任理事国になった国々(とりわけセイロン、チュニジア、アラブ連合)は、会議の舞台裏で文字どおり奔走した。国益を主張するだけでは不足で、アフリカ、アジア諸国の意見を吸い上げ、安保理につなげるという重責を担った(註2)。
 手を変え品を変え決議案をつくり会議に提出する。否決される。決議案を練りなおし再提出するが、また否決される。それでもまた再調整して提出する。資金が潤沢にある国でなければ、ニューヨークに外交官を常駐させるのは大きな負担だ。深夜まで会議が長引いても代わってくれる同僚がいたとはかぎらないだろう(審議経過については別稿にゆずる)。

(註2)
 1960年非常任理事国は、アルゼンチン、セイロン、エクアドル、イタリア、ポーランド、チュニジア
 1961年非常任理事国は、セイロン、チリ、エクアドル、リベリア、トルコ、アラブ連合

コンゴをサラエボにしてはならぬ

 「コンゴがアフリカのサラエボにならないことを願う」これはイギリス紙論説の一部だ(The Observer, “The Congo After Lumumba: One Last Chance”, by Andrew Wilson, 19 February 1961)。国際連盟があったのに、あの悲惨な世界大戦を防げなかった、国連に国際連盟の轍を踏ませたくはない、といった趣旨だ。
 この思いは、南の国々には特別な意味があっただろう。
 ONUCは、アフリカ・アジア諸国のパワーを、国連という仕組みを介して、コンゴの平和と安定のために活用しようとするものと言えた。それはまた、植民地解放、非同盟運動、南の国々の団結といった、コンゴを超えた、大きなゴールを追求していこうというものだ。せっかくつくった国連をダメにしてはならぬ。
 そしてこれは、常任理事国にいかに大きなパワーがあっても、それ以外の国々が寄ってたかって支えなければ、ぜったい実現しない。

IV 国連を支えるなら

日本は安保理メンバー

 スーダンも安保理非常任理事国をつとめたことがあるが、1972-73年の一度だけだ。非常任理事国になるには、国際平和と安全への貢献具合が斟酌される(国連憲章第23条)。成長のポテンシャルが注目される国であるものの、なかなか紛争が絶えてこなかったためだろうか。
 一方、冒頭で書いたように、日本はスーダンとほぼ同時期に国連加盟した。日本の安保理入りは「1956年の国連加盟以来12回」「国連加盟国中最多」と外務省のホームページにある。だと言うのに、きちんとフォローしたときばかりではなかったことに、はっとしてしまった。
 これを書く2023年も、日本は現に安保理メンバーである。

ライター・ナイロビ在住

先稿のリンク
・アフリカ大湖地域の雑草たち(17)「1960年の国連安保理」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(18)「ベルギー統治時代のコンゴ」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(19)「国連職員のクライアント」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(21)「相手の実力」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(22)「お兄さんと弟」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(23)「生涯感謝している」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(24)「国連のきれいごと」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(25)「誰が問われているのか」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(26)「武力をつかって平和を追求する」

(2023.5.20)
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