【アフリカ大湖地域の雑草たち】(44)

垣根の低い年末

大賀 敏子

I 季節のあいさつ

 ギブ・ミー・クリスマス

 「Give me Christmas(クリスマス・プレゼントください)」
 筆者は、この年末もまた、何人ものケニア人にこう言って、年がいもなく手のひらを差し出した。
 ケニアでは「ギブ・ミー(くれ、くれ)」という言い回しがしばしば使われる。多くの場合、現地人が外国人、それも、一般に豊かだと考えられている非黒人(白人、日本人など)に向かって。親しい間柄ばかりとは限らない。
 意図するものはキャッシュだ。場面にもよるが、100シリングから500シリング(約120円から600円)程度か。100シリングで street food を食べられる。携帯のデータを買って、通話やSNSを楽しむことができる。
 筆者はつねづね良いカモになる。このため、くれと言われたら言い返す、または、言われる前にこちらから手を差し出すことにしている。とくに年末年始は、これがますます頻繁だ。かくて、冒頭の発言となる。ただし、このような会話が必ず金銭の授受を伴うわけではない。季節のあいさつのようなものだ。

 贈りもの

 贈りもので一年間の感謝の気持ちを表すこともある。社長が従業員にボーナスを支給したり、家庭が使用人、つまり、メイド、ガーデナー、警備員などにプレゼントしたり。とあるホテル清掃人は、5000シリング相当のギフト・バウチャーを支給されたとうれしそうにしていた。
 筆者が住むエステートでは、住人たちが募金を募って、共同で雇っているワーカーたちに贈りものをするのが恒例になっている。中身は、主食のトウモロコシの粉、米、小麦粉、食用油、砂糖、石鹸など、どの家庭でも必要なものだ。音頭を取るのは住人の中のボランティアだ。資金を集め、買い出しに行き、仕分けし、プレゼントし、そして、責任をもって出資者たちに報告するのはひと仕事だ。
 謝意表明という意味では、「ギブ・ミー」と言ってこない人や、ふだん目につきにくい人も大事だ。額の多寡は問題ではないし、メッセージだけでもいいのに、つい忘れてしまっている人もいるだろう。

II 緊急の金策

 食べ物がなくなった

 年末にかぎらないが、「資金を用立ててほしい」と言われることがある。この年末も筆者は何人かから依頼を受けた。たとえば次のような人たちだ。
 知人のAは、閉店して新事業を始めるという雇用者側の都合で職を追われた。おりしも妻が出産、しかも、容体が悪く入院・治療を要した。4人の子供―新生児を含めた自分の子3人と亡くなった弟の子、つまり甥―の生活と妻の回復を支えねばならぬ。滞納家賃が3ヶ月になったとき、家主に立ち退きを迫られた。
 Bの仕事は、携帯アプリのタクシードライバーだ。日本製中古車を大事にメンテしていたが、ついに修理不可能になった。収入が絶えた。妻、老母、未婚の妹、2人の子供、そして自分自身の計6人の食べ物を購入できなくなった。クリスマスのお祝いどころではない。

 試験を受けられない

 Cは長女の大学のコストに目の前が真っ暗になった。サラリー前借りで授業料と寮費・生活費をとりあえず払って入学させた。ところが未納額があり、これをクリアしないと年末試験の受験を許可されない。未納額は月額サラリーの倍以上だった。
 公立大学は、学部・専攻によるものの、学費だけで年間10万から15万シリングだ。一方、一般労働者(清掃人、ガーデナー、日雇い労働者など)の法定最低賃金は15000シリングほどだ(The Regulation of Wages (General) (Amendment) Order, 2022)。他に収入源がないかぎり、大学教育は高嶺の花である(大学教育事情については2023年9月号拙稿も参照されたい)。

III 質の違い

 「助け」より「おつきあい」

 事情を打ち明けられ、頼まれた側はどうするか。誰しも資金繰りにはそれぞれの事情があるので、頼まれても困ってしまうことも多い。「あぁうるさい」「面倒だなぁ」「聞かなければよかった」と。しかし、できるかぎり拒絶、無視はせず、全額はムリとして、少しでも出すのが一般的だ。頼む側も、誰か一人に頼るといった横着はせず、何人にもあたる。
 もっとも、困窮したと言いながら、土地、家畜など郷里に資産があったり、親戚をたどれば余裕がある人がいたり、厳しく言えば、真に公正かどうかはわからないこともある。少子化著しい国から見れば、そもそも何人も子供を持ったこと自体が当事者の責任ではないかとも言いたくなるだろう。
 しかし、いちいち論争せず、それぞれができる範囲のことをして、ことを納めるのが普通だ。それは、「助ける」「助けられる」というより、もっとニュートラルに「つきあっている」といった方がふさわしい。こうして人と人との間の垣根は、一般に低めだ。

 絶望はしない

 この秘訣は何だろうか。もともと共同体意識が強いという伝統と、社会保障制度に頼れないという現実もある。これに加えて、信仰的背景も大きく働いているのではないか。それは、お天道さまが見ているから善行をしなさい、といった道徳規範だけではない。
 お金も物も、一見、自分のもののように見えるが、実は自分のものではなく、所有者は神だ。人はこれらのものを神から預かって、管理を任されているだけだ。こう考えると、目先の利害だけで財布の紐を固くしてばかりはいられない。聖書は、この「stuwardship(管理者)」の考えを説いている。
 頼む側も、確かに当座のキャッシュは足りない。だがそれは、いまのところ、たまたま神から預けられていないだけで、事情は必ず変わる。だから、このような人たちは、確かに困ってはいるものの、筆者の見るかぎり、絶望しているわけではけっしてない。

 境界線はっきり

 日本はどうだろう。祝儀、香典、歳暮、年賀状やり取りなどは、長年の良き慣習だ。しかし、これらが多くの人に順守されているからと言って、人と人の垣根が低いわけではない。
 ボランティアが、ワーカーのための年末の贈りものを段取りすると書いた。日本だったら、ボランティアの善意をあてにするより、コストをかけてデパートなど業者に任せるか、でなければ住民の間の持ち回り、管理組合決定などルールにしてしまう方が、なじみやすい。
 困窮することは日本人にもある。でも誰かに頼もうとは考えないし、逆に、頼まれることも、まずない。一般に日本人は、それぞれが境界線をはっきり引き、時間も資金もエネルギーも、その範囲内で堅実にマネージしようと努める。
 人間関係のあり方として、どちらが良い、優れていると言うのではない。そこにはあきらかな質の差異がある。

 IV 肩ひじ張らずに

 スマホ一つを武器に

 独立独歩でアフリカで働く日本人にときどき出会う。国際協力は、援助機関と大規模NGOと総合商社がリードするもの、ではもはやない。組織に縛られず、規模は小さくても、資金とやる気、勇気と健康が許すままに活動する人たちだ。彼ら、彼女らの唯一の武器と言えばスマホで、写真と動画を器用に編集し、SNSを駆使して発信する。
 ―〇〇の人々を救いたい
 ―△△の女性たちの未来を応援したい
 ―平和な社会をつくりたい
 日本人として「困っている人たちのためになりたい」という、情熱がほとばしるようなキャッチコピーだ。
 しかし、こんな言葉からは見えにくいが、彼ら、彼女らを駆り立てるのは、犠牲的、利他的精神だけではないだろう。どこかにメリットを見出し、楽しんでいなければ長くは続かない。しかもそれは、豊かな自然、純朴な人々、くったくのない子供たちといった、いわゆるアフリカの魅力とイメージされるものをはるかに超えたもののはずだ。
 尋ねても「言葉にできない魅力」と口をつぐんでしまう人も多いのだが、いったいその正体は何なのか。

 楽しいこと

 人によって多様だし、これだけではないだろうが、筆者はこう思う。
 現地人と一緒にいれば、上述した人間関係の質の違いを、誰でも必ず感じる。それがいいか悪いか、好きか嫌いかではない。質の違いを発見すると、いやがおうでも自己吟味を迫られる。それがやがて自己再発見につながる。人格成長とかレッスンとか、肩ひじをはって難しく考える必要はない。ただそのことが、楽しいのである。
 そしてその楽しさは、アフリカ人を「困っている人たち」「助けてあげるべき人たち」とみなしているかぎり、なかなか実感できないのだろうと思う。

  ナイロビ在住

(2025.1.20)
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