【コラム】『論語』のわき道(37)

埴生の宿

竹本 泰則

 場面は、第二次大戦の終結から間もないころのビルマ(現国名:ミャンマー)に設けられていたイギリス軍の捕虜収容所。敗戦を知って投降した日本兵が広場に集う。彼らは、翌日には帰国の途につくことになっていた。
 収容所を囲う鉄条網の外に一人の僧侶が立つ。気づいた兵隊たちはその僧侶がかつての仲間、水島上等兵であることを確かめようと声を合わせて『埴生の宿』を歌う 。
 ……やがて僧はそれに伴(あわ)せて竪琴を奏でる。
 「やはり水島だ!」。弾き方の特徴を知る仲間たちはすぐに見抜き、口々に一緒に日本に帰ろうと懸命に呼び掛ける。しかし水島は「今こそ別れめ、いざさらば」と竪琴で告げ、背を向けて森の奥に消える……

 かつて見た映画『ビルマの竪琴』のクライマックスシーンですが、ひょんなきっかけからインターネットであらためて視聴しました。
 あえて言うまでもありませんが、この物語では『埴生の宿』の曲が大きな役割を果たしています。
 この歌を教わったのと彼(か)の映画を観たのと、どちらが先だったのかはっきりしません。どちらにしても、今からすれば大昔のことです。以来、この歌を自ら口ずさむことはなかったように思います。いわば記憶の掃きだめに埋もれた枯葉の一葉みたいなものでした。それを突然に蘇生させたのはインターネット上に投稿されていた見ず知らずの人の文章。

 「私は、♪玉の装い裏山路♪ と歌っていました。裏の山道の茅の葉に宿している露の玉が、朝日を浴びて宝石の様に光り輝いている…… という美しい情景を思い浮かべていました。」

 思わず、「お前もか!」と。
 露の玉が、……光り輝いている、とまでは想像力が逞しくないものの、間違いなく同じ「裏山路」派なのであります。
 歌詞の意味もよくわからない(強いてわかろうともしなかったか)、しかも現代仮名づかいしか教わっていない身にあっては、「うらやまじ」といった種類の言葉が耳から入ると、時として、ほとんど自動的に「ひらめき」漢字に化けてしまうことがあります。当然ながら、知っている漢字しか浮かぶはずはありませんから「裏山路」といった風に、音は同じでも意味はまったく違うものになってしまうのであります。

 ついでながら、この歌については話題にのぼる箇所がもう一つあります。
 二番の歌詞に出てくる「 瑠璃(るり)の床も 」の床です。「ゆか」なのか、それとも「とこ」なのかがはっきりしないというのです。明治期の出版物の中に両方の混在が見られることが原因らしいのですが、今では「ゆか」でおおかた落ち着いているようです。

 歌詞とは違って、題名の方は特に取り上げられることはないようですが、読みも難しく普段なじみのない言葉です。そのせいか、ハニュウに「ひらめき」漢字などは浮かんできません。
 あらためて題名についても探ってみました。

 埴生は旧かなづかいでは「はに・ふ」となるそうです。「はに」という読みをする言葉には埴輪が見つかりました。「ふ」は芝生などの読みと同じ仲間でしょう。
 『広辞苑』を引くと、埴生を「埴(はに)のある土地」と説明しています。一方、「埴生の宿」の項には、貧しい小さな家としているだけ。歌詞全体からたどればそのような意味だろうとは思えますが、これだけで済ますのは素っ気ない気もします。

 漢和辞典を見ると、埴は粘土、陶器を作る土だそうです。生は植物などが「はえる」(麻生、蒲生など)、地中から鉱物などが「とれる」(例えば丹生は、古く「に」と呼ばれた鉱物が採れたところ)の意味ということです。宿は旅に出たときに泊まる宿屋ではなく、住み家と考えられます。いい加減な憶測ですが、埴生とは粘土質の土地をいい、その地質は当然に水はけも悪く、じめじめとしているところかもしれません。ともかく生活するのに適した土地ではないのでしょう。そんな場所であれば、建屋はおのずからつづまやかなものになるかもしれません。
 しかし、ここは字ごとの意味がどうこうなど問題ではなく、自分の住み家を大いに謙遜した言い方と理解しておけばいいように思われます。

 ところで、漢和辞典を開いたおかげで一つびっくりする発見がありました。人をあざけっていう言葉の一つに「へなちょこ」という表現があります。これを漢字で書くと「埴猪口」なのだそうです。当て字に過ぎないでしょうが、粘土だけで作った素焼きの猪口(さかずき)ならば、熱燗の酒を注ぐとピチピチと小さな泡が湧いてきそうな粗末な感じがあって妙に説得的ではあります。

 「うらやまじ」といった種類の言葉は、自動的に「ひらめき」漢字に化けてしまうと書きました。強弁するつもりはありませんが、このことは現代の日本語の宿命に根差しているように想像しております。耳から入った言葉は、一旦漢字に変換しなければ理解できないということがありそうに思います。

 大昔の日本人にはこうした現象はありません。文字というものを持っていなかったのだから化けようもなかったので当然です。今から千数百年くらい前に朝鮮半島を経由して漢字が伝わり、儒教(儒学)、仏教などをはじめとする大陸の文化が伝来します。それにつれて日本人の語彙は大きく膨らみました。それでも日常の言語生活は文字を知らなくてもほとんど支障はなかったのではないかと思われます。「ぎをんしゃうじゃのかねのこゑ(ぎおんしょうじゃのかねのこえ)」と耳に聞いて「どんな漢字?」などとは思わなかったと思います。「ぎおんしょうじゃはお釈迦様がお弟子さんたちとくらしたお寺の名前だよ」と聞けばそれで済む。そもそも漢字に接するような人はごく少数で、一般庶民のほとんどは漢字と無縁であったでしょう。

 日本人の言語生活に大きな変化が訪れるのは明治維新以降です。わが国は近代化に向けて西洋の知識・技術を懸命に取り込み、学制、兵制などの改革、欧米の科学知識の取り込みや殖産興業の策を大急ぎで推進しました。これに伴って日本語の語彙が飛躍的に増えたことは間違いありません。新しい概念、名称(外国語)などを日本語で表現するため、翻訳語を含む新しい言葉が大量に生まれています。その結果として科学と化学、製糸と製紙、あるいは興業、興行、工業,鉱業などの同音異義語が多数出現し、これらがわたしたちの語彙に加わったわけです。

 日本語以外の言語には暗いのですが、外国語にも同音異義語はあるでしょう。しかし、その数たるや現代の日本語に比べれば問題にもならないと思います。
 この同音異義語が多いということから、現代では日本語を耳で聞くとき、聞き手は相手の言葉を漢字に変換する必要が生じたと考えられます。言葉のアクセントやイントネーションや前後の文脈の流れなどを手掛かりにして、当てはまる漢字を見つけ、それによって相手の言うことを理解していく、そういう仕組みを働かせているということを聞いたことがありますが、これは納得できます。

 もちろん、漢字置き換えの作業は無意識に、しかも、きわめて瞬間的に行われます。つまり、わたしたちは日本語を耳で聞くとき、非常に精緻な情報処理を、気づかないうちに、しかも苦も無くやっていることになります。このためか、話を聞いているときにはたらいている脳の場所を観察すると、日本人は欧米人よりもその箇所がひとつ多いのだそうです。

 日本人自身でも漢字変換に困っている言葉はいくつかあります。たとえば「しりつの小学校」と言われても、ほとんどの場合、市立か私立かは判断がつきません。そのため「イチリツ」とか「ワタクシリツ」などと言い換えたり、「公立じゃなくて」などと言い添えたりしています。「エこうぎょう」だの「バケがく」などの類も含めて、これらは「欠陥語」といえるのではないでしょうかね。

 (「随想を書く会」メンバー)

(2022.6.20)
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