■投稿 家族と友への遺書 若林 英二
───────────────────────────────────
◆◇生い立ち◇◆
8人兄弟の2男に生まれ、貧しいながら慈愛あふれる大家族で育ち、大人しかっ
たという。
小学1年(昭6)の時から天皇の写真を拝み、中学では軍事訓練。中学2年の
時(昭和12年7月)北京盧溝橋での一発の銃声から戦火拡大。頑固な軍国少年に
なった。
◆◇無学の祖母が勝った日◇◆
戦線が中支那へ拡大するにつれ、新聞には多くの戦死者の氏名と写真が載った。
私がチヤンコロ(支那人)は憎いといっていると無学の祖母が「天皇はなんで偉
いんだ。同じ人間じやないんか?」といった。私はあわてて「そんなこと言うと
警察に捕まるど」といって黙らせたことが何度かあった。戦い終わって、天皇が
人間宣言された。私も東条も近衛も無学のおっかやんに負けた。やがて平和憲法
に国民は歓声を上げた。そして(1)この戦争が天皇や大本営の命令まで無視さ
れて高級軍人の独断で拡大した。(2)9年間も中国を戦場にして中国人民に多大
の被害を与えた。(3)彼我合わせて600万人が犠牲になった。ことなどを知った。
我が家では大黒柱の長男が幼い2児を残して南海の孤島に散った。一家はムチャ
クチャになった。頑固な軍国少年は60年かかって反戦平和論者に変わった。いま
さら、改憲論者になる時間はない。いまやっている運動は(1)イラク派兵反対
(2)憲法9条改悪反対(3)扶桑社教科書反対 などである。
◇◆矛盾だらけのバカ◇◆
以前町長をやっていた関係で保守党政治家の町後援会長をおおせつかり、今も
やめられない。故人岩崎純三、植竹繁雄氏のを務め、今も佐藤勉、国井正幸、矢
野哲郎、それに福田富一知事の会長をやっている。改憲の保守党に護憲の私。相
容れないはずだが、平和憲法を自分は今でも宝石のように思っているのだが、党
の方が目の上のタンコブにしているのに頑固少年は泣く。だが、教科書問題が起
こった平成13年、私が『前の戦争は侵略戦争だ。扶桑社の歴史教科書はおかしい』
と新聞発表したとき、佐藤勉氏はよくいい難いことを言ってくれた。といって手
を離さなかった。それにしても、後藤田正晴先生が他界されて衝撃を受けた。彼
は官房長官のとき、中曽根を諌めて中東派兵を止めさせた。当時より、ずっと反
戦平和運動は難しくなった。改憲改憲、軍備軍備と草木もなびく。一人ぐらい靡
かぬバカがいてもよかろう。国内が戦場になるとき、ミサイルが落ちた時、軍隊
が守れるのは自分と家族だけであって一般国民まで護りきれないことを自分の体
験から知っている。子孫は反戦平和に徹して欲しい。
◇◆我が家の災難◇◆
私の家は多少の資産もあり、父は早死したが大家族が楽しく暮らしていた。す
ると昭和18年春杖とも柱とも頼む戸主 寛に召集令状がきた。輜重兵だった。幼
い2児がいる長男だったから行きは逃れるはずだったが船底に押し込められ、中
国沿岸や島々を回るあいだに栄養不足とマラリヤにやられニューギニヤ近くで戦
病死した。
◇◆戦争末期(昭和20年6月)の家の状況◇◆
女と子供ばかりでは2haの農業はできぬ。馬を売り馬車を売り泣きながら暮ら
した。戦死の家は「靖国神社に祀られる名誉の家」とおだてられ、母は愛国婦人
会の役員を押し付けられ国債や供米の割り当ても多く、江田豊作さんという人か
ら2俵のコメを譲ってもらった。家族構成;祖母イチ52歳(後妻に来たため)母
フミ52歳、嫁サキ27歳(兄寛のあと私の妻)妹仲子13歳、妹良子11歳、弟貞
司7歳、甥栄一6歳(遺児)、姪フキ3歳(遺児)
長男 寛2児残し戦病死、私 出征中、 弟鐘作出征中、弟祐蔵 勤労動員。
――(中略)――
◇◆私がした戦争体験(兵役が短いので残虐行為は見ていない)◇◆
1)昭和18年1月戦車師団要員として高崎に入営。直ちに内蒙古へ。
2)2月平地泉着。
3)蒙古平原の兵舎で戦友の浜松君は鬼軍曹に木銃で尻を打たれるたびにヒーツ
と泣いた。木銃が折れた。戦争が終わったら鬼を殺してやると戦友と話した。
4)猛訓練に脱走したくなったがガマンした。
★慰安所を見たこと。5月ごろ外出許可。町外れで慰安所を見た。カベ土塗りの
住宅の入り口にムシロが下げてあった。日本兵がズボンのベルトを緩めて何十
人も行列していた。
★青空市のナシを私も盗んだ。炎熱の黄河の近くを行軍中、戸板にナシを売る老
人1人。先の者がナシを盗むと兵隊が群がって戸板をひっくり返しナシを盗ん
だ。
★行軍中女性の姿はなかった。★天津駅前で将校が中国の人力車夫を足蹴にして
いた。
★昭和19年8月千葉戦車学校入学。宮崎で終戦。
◇◆この戦争を侵略戦争と見る理由◇◆
★無数に農民・女性・老人など非戦闘員を殺害。
★女性に性的暴力を加え無数に殺害。
★無数に全戸焼き討ち。
★捕虜を無数に殺害。
★糧秣を持たずに大軍を派遣。略奪しながら侵攻。
◇◆結び◇◆
1)敵産を奪って兵を養い、命に反して無断進軍させた軍幹部の
責任は重く憎い。許せ百万の英霊。許せ百万の被災者。
2)自衛隊には文民統制で臨んでほしい。閣議決定だけで派兵延長OKで
は戦前と同じではないか。
3)ささやかな私の幸せ。長兄の遺児は立派に成長し、私をお父ちゃん、
お父ちゃんといってくれる。靖国神社に行ったことはない。ついこの
間、墓に寛の名を刻んだ。
元陸軍軍人 若林英二 (大正12年生まれ)
目次へ