【コラム】『論語』のわき道(33)

寿命

竹本 泰則

 喜寿を超え八十路も近い。そんなわが身の寿命にふと思いが向かう。
 厚生労働省の簡易生命表(令和元年)を基にして大雑把な計算をしてみると、わが余命はまだ丸々十一年を残している可能性がある。であるならば、米寿を迎えることもあり得るということになる。いやはや……。

 それにしても日本人は長生きするようになったものだ。平均寿命を見ると戦後の昭和23年では男が55~56歳、女がおよそ60歳であったものが、令和2年にはそれぞれ81歳余(男)、87歳余(女)に達しており、26~27歳も伸びている。
 この長生き現象はヒトがもつ生物としての基礎的な寿命が延びたということではないだろう。医学をはじめ科学が進歩し、生活環境なども改善された。そのおかげで、病気やら災害などによって本来の寿命を全うできず、幼くしてあるいは若くして亡くなる人の数が減る。そのことが生存年数の平均値を押し上げたということだろう。生物本来の寿命は今も昔もさほど変わるものではあるまい。

 『論語』の中心人物である孔子は二千数百年も昔の人だが、この人は72、3歳までながらえている(史料によって両説がある)。孔子自身が「七十にして心の欲するところにしたがえども、矩(のり)を超えず」――七十になると、思うままのことをしても、人としての道を踏み外すようなことはなくなった――といっている。
 少し話がずれてしまうが、朱子(中国・宋の時代の学者。儒学中興の人)たちはこの章句を孔子の回顧談とはせず、後(のち)の人に対して、七十にもなればこうあらなくてはいけないと諭す教訓であると解釈する。孔子を聖人とあがめる彼らにとって、孔子自身は生まれながらにして矩(のり)を超えない人であるという理屈によってである。

 現代では、晩年における孔子の回想と読むのが通例のようだ。中には、七十にして円熟完成の域に至ったという風には読まず、七十にもなってしまうと矩(のり)を超えるほどの欲も気力も体力もなくなったという老衰の嘆きだといった人もいる。これはこれで面白いと思った。
 その生涯には何人かの弟子の死にも遭遇しており、当時としては長寿であった孔子だが、年寄り仲間となるとどれほどいたことやら。

 『論語』には寿命という語は出てこないが「死生、命(めい)あり」との句が見える。これは『広辞苑』や国語辞典は慣用句として採用している。「人の生死は天命によるもので、人の力ではどうすることもできない」(広辞苑)といった意味。
 孔子の弟子同士の会話に出てくるものだが、もともと誰が言い出した言葉であるのか、はっきりしない。
 『論語』本文では、この慣用句にもう少し言葉が続く。

  死生 命(めい)有り、富貴 天に在り

 後半は「金持ちになれるか、高い地位を得られるかなどということは、天のかみさまの思し召し次第だ」くらいの意味だろう。

 昭和の時代の中国文学者・吉川幸次郎が『論語』の解説書の中でこの成句を取り上げている。その言うところを要約すれば、「人間の努力ではどうにもならないものが、人間の生活にはある」ことを、この句のように「露骨」に表すのは『論語』の全体基調に合致しないという主張である。
 吉川博士も言っているが、孔子も人の力ではいかんともし難い宿命のようなものがあるということは認めている。しかしながらこの人は、人がなしうること、すべきこと……こちらの方に圧倒的に関心と力を注ぐ人だった。したがって命(運命・宿命の類)について口にするということが稀であった。運命論に伴いがちな「努力しても意味がない」、「どうせなるようにしかならない」といった種類の考え方を嫌った人だったようにわたしも思う。

 寿命がどのように決まるか知らないが、動物の中でヒトの寿命は長い方であろう。「命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし」(徒然草)という思いはあながち的外れではないような気がする。
 あらためて長生きをする動物を探してみると、100年以上生きる種がいくつかある。ゾウガメは万年とはいかぬまでも2百年くらいの寿命があるというし、4~5百年生きるサメや貝もいるらしい。驚いたのは不老不死ともいえる種がいたこと。
 ベニクラゲといって、温帯から熱帯地方までの海に広く生息しているごく小さなクラゲで、日本の沿海でも見られるという。このクラゲは、一説では5億年も生きるという。5億年などと途方もない数を言われると眉につばをつけたくなる。
 こんな説が成り立つのは、このクラゲ、老いても再び青年期にもどる術を心得ているかららしい。

 クラゲは卵からかえったあかちゃん(幼生)に始まって、骨のないこうもり傘のような見慣れた姿(成体)になるまでのあいだに何度か変身をする。ベニクラゲの場合、成体のまま衰えて死んでいくのではなく、もう一度成長過程の前々段階にもどって、そこからまた成長を繰り返し続けるのだという。だから他の生物に食べられたり、殺されたりしない限りは何度でも若返りをしながら生き続けることが可能なのだという。5億年かどうかはともかく、とてつもなく長生きをするようだ。しかしこれほどに長い人生(?)も耐え難い気がする。

 兼好法師は短命のたとえにセミとカゲロウを挙げた。セミの一生については、卵から孵化した幼虫はいったん土の中に潜り、木の根から養分をもらい数年をかけて大きく成長する。ようやく地上に出てきた幼虫は、木に上で羽化し成虫になったあとは1週間ほどで死んでしまう、そう言われてきた。最近、この説は覆ったようだ。地上での生存期間は10日以上、種類によっては1か月程度生きるものもあるということを広島県の高校生が突き止めたという。1か月だとしてもやはり短い生命といえるのではなかろうか。

 はかない生命の代表ともいえるカゲロウの寿命は数時間。まさに朝に生まれて夕べを待たぬ一生らしい。
 このカゲロウの一生を「超絶早送り」のように終えてしまう種が存在した。ウミユスリカといって地中海沿岸地域に生息するユスリカの一種。亜種は日本にもいて「一時間ブヨ」の名があるそうだ。そのメスは30分から1時間程度で命を終える(オスはもう少しだけ長生き)。そのわずかの時間に伴侶とめぐり合い、次の世代(卵)を残して死んでいく。ただそれだけ。食べることさえしない(口は退化しているらしい)。なんともすさまじい生涯である。

 かくも短い一生は、生物にとって命がもつ根源的な意味の一つが生殖であることを端的に示唆しているように思う。
 その見地から言えば、ヒトの一生は長い。生殖を果たした後もそれまでと同じ程度か、それ以上の期間を生きる。ヒトは生まれ出てしばらくは自立ができず、親の支えを不可欠とする種である。その育成の期間を生殖に準じるものとして含めたとしても、なお余りが出る。これぞまさに余生というべきか。

 (「随想を書く会」メンバー)

(2022.2.20)
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