【コラム】
ザ・障害者(28)

尊厳死は●●死的である

堀 利和


 命、生きるということに意味があるように、死にも意味がある。一人ひとりの死にもすべて意味がある。死はその意味を問いかける。

 先日テレビで、難病女性の尊厳死が放映された。これに対して、JCILから批判の声明文が出された。日本では尊厳死は法的に認められていないため、それはスイスでの日本女性のそれであった。尊厳死は究極的に生きる価値のある命とそうでない命とに線引きを行い、結果、生きる価値のない、または低い、あるいは役立たずのお荷物とされてきた。特に重度の障害者の存在に対してそれは深く関わってくるので、こうした尊厳死は決して許されるものではない。
 そのことは、96年に廃止された旧優生保護法の下で、不良な子孫を残さないためとして行われてきた強制不妊手術・人工中絶の問題につながりかねないことは言うまでもない。これは杞憂だろうか。否、そうではない。ある意味必然であると言える。このような措置は国家的犯罪であるとともに、世間の罪でもある。なぜなら国家は「法律」、社会は「制度」、世間は「個人」によってつくられているからである。

 しかし私はそれ以上に、死の装置を本人が作動させる瞬間、二人の姉の目の前で装置が作動した瞬間、そして死んだかどうかを確かめる場面。それは私にとって言いようもない耐え難い瞬間であるとともに、空しさ、嫌悪感、そして存在と時間の停止、しかしそれでいながら永遠と無が密かに織りなす厳かな静寂、そこには否定しがたい現実があった。現実だけが唯一、誰のものでもないたった一つの現世の命を死に替えてしまったという事実、それをを物語っていた。そこに残された「証し」だけが沈黙を守っていた。もはや、たとえテレビの前であっても二度と立ち合いたくない、そう思った。
 一方、同じその番組の中で、同じような境遇にある女性が家族とともに車で花見を楽しんでいる風景も映し出された。この時、二つの命が私の中で一つになった。それは丁度仏教の二元性一元論のように、尊厳死か自然死かの二項対立を超えた安堵感にも似たようなものであった。

 また、別の番組では横浜市にある病院を取り上げていた。透析患者のことである。
 いよいよの時には透析も延命治療も行わない、そのことが患者の意思として厳格に文章にされている。それを常に点検・確認しながら、同時にそれも家族との相談の上のことであった。
 その患者の一人は、かつて会社でモーレツに働いていて、世の中の役にたっているという誇りと自負心、そんな自分が在ったという。ところが今はそれにひきかえ、役に立たないどころか、医療費を考えただけでも迷惑をかけていると話す。そんな自分の不甲斐なさや自責の念から、文書をしたためているようであった。

 これは一見崇高な倫理観とも言えるのだが、世の中の模範生としても受け止められるのだが、また犠牲の美学とも感じられるのだが、しかしながらそこには実は『人口論』の著者であるマルサスの思想、すなわち、自国イギリスの救貧法に反対した思想に通底しているとも言えるのである。それは劣性な人間は淘汰されるべきとする不条理な優生思想であって、それもそもそも誤った経済理論と経済思想に裏付けられている。
 こうした一連の思想、考え方には、私は与しない。優生思想に無自覚的に汚染されている人生観、人間観、社会観、とどのつまり一切がこうした価値観の下に貫かれてしまっている事実、そう言わざるをえない。

 だが、翻って言えば、死は他人のものではない。とやかく言われる筋合いのものでもなかろう。自然死は悲しむしかない、それをただただ忍耐強く耐え忍ぶしかない、それしか方法はないのである。もし加害者がいればそれを憎むしかない。
 ところが尊厳死はそうはいかない。では、だから、ぎりぎりのところまで誰と、そして社会が一体どこまでどのように関与しているのか。それは見方を変えればある意味悟りとも言える境地の中で、つまり「意思」が関わる死の選択でもある。いずれにせよ、それを肯定しようが否定しようが、たとえそれを受け入れたとしても、尊厳死は明らかに自然死ではない。人為的な「社会」的死である。それにより、結果当然のように社会のありようが問われる。

 その上で、しかしながら、スイスでの日本の難病女性は自らの生と死を個人の中で受け入れたのも確かであろう。それだからこそ、そこには沈黙が支配するのであった。だが、それでもなお、結局尊厳死は自然死ではなく「社会」的死であり、「社会」的である以上、私たちに突きつけられる課題は社会の中の生と死、言い換えれば、それは私たちが今生きている社会の中で、障害者が一人の市民として人間らしく尊厳をもって当たり前に生き、あるいは障害を持った子が当たり前にインクルージョンの教育の中でいきいきと育っているかどうかにかかっている。

 以上のことから、尊厳死に対する私の応えは、尊厳死とは「社会」的死であって自然死ではなく、難病女性の尊厳死も結局のところ社会から切り離された「個人」的死でも自然死でもない。それが法律によって定められることにもなれば、なおさらである。ますますそれは「社会」的死となる。
 そうである限り、私たち一人ひとりがその命をどう生かすのか、それとも殺すのかが厳しく問われている

 (元参議院議員・共同連代表)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最新号トップ掲載号トップ直前のページへ戻るページのトップバックナンバー執筆者一覧