【コラム】大原雄の『流儀』
山は、動くか。〜いま、石橋湛山を読む・1〜
山梨県と長野県、静岡県に連なる南アルプス(赤石山脈)。3000メートル超の峰が9つあるという急峻な山塊である。最高峰は、高村薫のミステリー小説『マークスの山』の舞台にもなった北岳。標高3776メートルの冨士山に次ぐ山で、北岳の標高は3193メートルである。その北岳を含め、間(あい)ノ岳(標高3190メートルで第3位、最近の標高修正により北アルプスの奥穂高岳と並んだ)、農取(のうとり)岳(標高3025メートル)の3峰で、「白根(峰)三山」と呼ばれる。古(いにしえ)より、「甲斐が嶺(ね)」という愛称で親しまれ、古歌にも詠まれている。
「甲斐が嶺をさやにも見しがけけれなく横ほり臥せるさやの中山」
古今和歌集 読人不知
冬の大気が寒冷に澄み渡る時期、甲府盆地の西の蒼穹に銀嶺が浮び上がる。その「白根(峰)三山」の東南にある前山が、櫛形(くしがた)山である。標高2052メートル。山稜が、和風の円(まる)い櫛の形をしているので、この名がある。山梨出身の放浪の歌人・山崎方代(1914年生まれ)は、「櫛形の山を夕日がげらげらと笑いころげて降りてゆきたり」と詠んでいる。円い櫛の形ならではの表現だろう。その櫛形山の麓に広がる富士川町(旧増穂町と旧鰍沢町が合併)。富士川の右岸にある甲州と駿府を結ぶ古くからの街道筋の街。旧増穂町の街道筋に取付け道路がある昌福寺で石橋湛山は、幼少の一時期を過ごした。
隣街の旧鰍沢町は富士川舟運の川港(時代により、「津」、「河岸」などと呼ばれた)があった。旧鰍沢町は、いわば甲州と江戸を結ぶ物流の拠点だった。江戸時代の物流は、ふたつのルートがあった。甲府盆地の東端にある笹子峠越え(歌舞伎の、通称「三千歳直侍」で甲州への逃避行を志す直次郎は、追いすがる愛人の三千歳に「山坂多い甲州へ女を連れて行かれねえ」と世話科白の啖呵を切る場面がある。それほど、笹子峠越えは難儀だった)か、甲州と駿府を結ぶ街道沿いを流れる「富士川開削」(徳川家康の命により京の角倉了以らが手がけた)の結果通じるようになった鰍沢から駿河の岩淵(静岡県富士市)間(約72キロ)の富士川舟運か、このふたつであった。鰍沢は信州往還と駿州往還の交わる地点にあり、鰍沢河岸は富士川舟運のターミナルとして、東海道に直結する江戸への「表玄関」(江戸の文化面でも登場する。明治期に作られた落語の「鰍沢」など。さらに、2000年8月、歌舞伎座で観た「侠客人情噺〜愚図六〜」という新作歌舞伎(初演)の第二幕第三場は、「甲州鰍沢の川べり」という場面で、鰍沢が登場する)として発展してきた。
当時の物流は「下げ米、上げ塩」と呼ばれ、「下り荷」は甲州や信州から幕府への年貢米など、「上り荷」は「塩」などの海産物が中心だった。鰍沢河岸で陸あげされた塩は、桔梗俵に詰め替えられ「鰍沢塩」として甲州から信州まで運ばれた。
2014年の今年は、方代生誕100年、湛山生誕130年。甲府盆地所縁のふたり。放浪の自由律の歌人とジャーナリスト出身の保守政治家。山崎方代は盆地の向こうに櫛形山を遠く見る。石橋湛山は、麓の里から櫛形山を仰ぎ見る。増穂町と右左口(うばくち)村。右左口村(現甲府市)は、富士山と甲府盆地を隔てる御坂山地を越えて精進湖に至る道にある右左口峠の北側の麓。方代が「骨壷」に入らないと帰れない土地としていた生まれ故郷である。湛山が幼少期を過ごした増穂町と湛山の30年後に生まれた方代の故郷は、甲府盆地の東西反対に位置する。今年の130年と100年という「0年の節目」は、本来10年ごとに繰り返されてきたが、これまでふたりが一緒に語られることはほとんどなかったことだろう。地域振興などの視点で今後は永遠に同じ節目で関連づけて捉えられるとおもしろかもしれない、と思うのだが。
石橋湛山は、1884(明治17)年9月、東京生まれ。母方の石橋姓を継ぐ。翌年、僧侶の父親の転勤で甲府に転居。1891(明治24)年、旧増穂村(現富士川町)の昌福寺で父親と同居することになり、増穂村尋常高等小学校に転校。1894(明治27)年、旧鏡中条村(現南アルプス市)の長遠(じょうおん)寺の望月日謙に預けられることになり、鏡中条村尋常高等小学校に転校。1895(明治28)年、山梨県尋常中学校(後の山梨県立甲府中学校、現在の山梨県立甲府第一高等学校)に入学。長遠寺から通学した。湛山は、1903(明治36)年、早稲田大学高等予科に入学、1907(明治40)年、卒業。1911(明治44)年、27歳で東洋経済新報社に入社。記者として活動を始める。1924(大正13)年、40歳で東洋経済新報主幹に就任。1941(昭和16)年、57歳で東洋経済新報社社長に就任。1946(昭和21)年、62歳で戦後初の総選挙に自由党から立候補し、落選したが、第一次吉田内閣の大蔵大臣に就任。1947(昭和22)年以降の総選挙に静岡2区より立候補し、1963年まで衆議院議員を務める。1954(昭和29)年、70歳で鳩山内閣の通産大臣に就任。1955(昭和30)年、保守合同で自由民主党が結成される。1956(昭和31)年、72歳で石橋内閣が成立し、総理大臣に就任。1957(昭和32)年、73歳で急性肺炎を発症して倒れ、内閣総辞職し、総理大臣を辞任。没年は、1973(昭和48)年。88歳であった。
2014年10月下旬、湛山所縁の増穂小学校へ行ってみた。静岡方面に繋がる国道52号線を右折すると櫛形山が正面に見えて来る。その背後に、南アルプスの山稜。富士川町役場の駐車場に車を入れる。そこから、増穂小学校までは、徒歩で行く。1891年〜94年まで、7歳から10歳の湛山が通った小学校である。職員室に声を掛けて、グラウンドの片隅にある湛山の胸像を見せてもらう。今年は、湛山生誕130年ということで、9月に建立披露されたばかりだ。藤村式建築という屋上に鯱を飾った太鼓櫓(礼拝堂を模したデザインで、鐘の代わりに和太鼓を吊るし、時を告げたという。一種の時計台)のあるモダーンな洋風建築の旧春米(つきよね)小学校の校舎(木造寄棟造三階建浅瓦葺、漆喰造り。現在は、町の民俗資料館になっている)を背に胸像は立っている。「舂米学校」は、湛山が転校する15年前、1876(明治9)年に舂米地区に落成した。1888(明治21)年には、現在の増穂小学校体育館の位地に移築され増穂尋常小学校の本館として活用された、という(民俗資料館の館内には、当時の舂米学校で使用されたという机、イス、黒板などで教室の様子を再現しているが、開館日は、限定されている)。従って、湛山少年は、このような「教室」で授業を受けたことだろう。
湛山が父親(当時住職)と暮した昌福寺へは、来た道を戻って、役場の前を通り過ぎ、52号線との交差点を右折し、シャッターが閉まったままの店も目立つ、眠り込んでいるような感じの商店街を通って行く。52号線沿いに取付け道路の入口がある。寿命山昌福寺は、広い敷地に山門本堂ほかのある落着いた雰囲気の寺だ。山門から入って本堂に向かって境内の左側には、今年建立披露されたばかりの湛山翁顕彰碑が黒御影の真新しい輝きを放っていたが、この寺で暮した湛山少年の面影を連想し、「翁」という文字には、少年も面映い思いをしているのではないかと思った。その後、元の鏡中条村、合併前は旧若草町であった現在の南アルプス市にある長遠寺へ。武田ゆかりの寺。田園地帯の面影を残す雑居地域の狭くて曲がりくねった道路を巡り、長遠寺に辿り着いた。
湛山の年譜と絡む1946年までの世相の主な出来事は、以下の通り。
1914年、第一次世界大戦始まる。
1915年、中国に対して、対華21箇条要求を提出。
1917年、ロシア十月革命、ソビエト政権成立。
1918年、シベリア出兵。
1919年、朝鮮で、三・一事件、中国で、五・四運動がそれぞれ起こる。ベルサイユ講和条約調印。
1931年、「満州事変」起こる。
1937年、盧溝橋事件・日中全面戦争突入。
1939年、第二次世界大戦始まる。
1941年、太平洋戦争始まる。
1945年、ポツダム宣言受諾、敗戦。
1946年、日本国憲法公布。
湛山が書いた論文を「石橋湛山評論集」(岩波文庫版)から取り上げてみよう。
1921(大正10)年7月30日、8月6日、8月13日号、東洋経済新報社説の「大日本主義の幻想」。今回は、「その1」で7月30日の社説の概要を見てみよう。表現は、掲戴のままとする。
「大日本主義」とは、湛山自身の説明によれば、「即ち日本本土以外に、領土もしくは勢力範囲を拡張せんとする政策」だという。1919年、朝鮮で、三・一事件、中国で、五・四運動が起こり、日本は、1931年、「満州事変」へ向けて、拡張路線を進めていた時期だろう。
「朝鮮・台湾・樺太も棄てる覚悟をしろ、支那や、シベリアに対する干渉は、勿論やめろ」という書き出しで始まる。「朝鮮・台湾・樺太ないし満州を抑えて置くこと、また支那・シベリアに干渉することは、果してしかく我が国に利益であるか。利益の意味は、経済上と軍事上との二つに分れる」とし、経済上の
データとして、以下のような表を提示する。「関東州」とは、現在の中国の一部、遼東半島先端部(旅順・大連地区)。
移出 移入 計
朝 鮮 169,381 143,112 312,493
台 湾 180,816 112,041 292,857
関東州 196,863 113,686 310,549
計 547,060 368,839 915,899 (単位は千円)
これに加えて、湛山はアメリカとの輸出入合計額14億3800万円、インドとの5億8700万円、イギリスとの3億3000万円などを提示し、「もし経済的自立ということをいうならば、米国こそ、インドこそ、英国こそ、我が経済的自立に欠くべからざる国といわなければならない」と主張する。棉花、米、石炭、石油、鉄、羊毛、「重要というほどの物で、朝鮮・台湾・関東州に、その供給源を専ら仰ぎ得るものは一もない」。「樺太については、領有以後すでに十余年、ついに何の経済的利益も齎し得ぬは、遍く人の知る処」である。「支那およびシベリアに対する干渉政策が経済上から見て、非常な不利益を我に与えておることは、疑う余地がない」。これら国民の日本に対する反感の害の方が大きい。「さて朝鮮・台湾・樺太を領有し、関東州を租借し、支那・シベリアに干渉することが、我が経済的自立に欠くべからざる要件だなどという説が、全く取るに足らざるは、以上に述べた如くである」。
次に、軍事について。「他国を侵略する意図もなし、また他国から侵略せらるる虞れもないならば、警察以上の兵力は、海陸ともに、絶対に用はない」。「さればもし我が国にして支那またはシベリアを我が縄張りとしようとする野心を棄つるならば、満州・台湾・朝鮮・樺太等も入用でないという態度に出づるならば、戦争は絶対に起らない、従って我が国が他国から侵さるるということも決してない」。「経済的に、既に我が国のしかく執着する必要のない土地ならば、いかなる国がこれを取ろうとも、宜いではないか」。「日本に武力あり、極東を我が物顔に振る舞い、支那に対して野心を包蔵するらしく見ゆるので、列強も負けてはいられずと、しきりに支那ないし極東を窺うのである」。
経済誌の記者らしく湛山は軍事上、経済上のデータを元に判断を下し、軍備より、外交力、経済力を優先せよと主張する。アジアと欧米との相関関係を鳥瞰し、アジアとの連繋を視野に欧米を牽制している。目下、議論している「集団的自衛権」の主張に対抗する論理として、反論にも何やら使えそうな爽快な文章ではないか。
石橋湛山と言えば、保守の政治家で、岸信介と争った末に総理大臣になったと思ったら、体調を崩して、短期間に政権を「放棄」して、岸に政権を譲ってしまったという断片的な知識しかなかった。保守政治家のひとりというイメージだ。岸は、戦前の満州建国(贋満州国構想)に執念を燃やした経済官僚出身の政治家で、いまの安倍晋三の祖父に当る。岸政権は、1960年、日米安保条約(いわゆる「60年安保」)を強引に改定し、国民の反発を招いて失脚した。この時、当時76歳の石橋湛山は、東久邇(ひがしくに)、片山という元総理大臣と連名で岸総理大臣への辞職勧告文を提出している。保守の中にいるリベラル派の政治家だったのだ。37歳のジャーナリスト、大日本主義に反発する湛山の思想は、上記小論文掲戴から40年後、76歳の政治家の中にも生きていたということだろう。
改めて、湛山を読み返してみると、ジャーナリストとして、保守リベラル派の政治家として、時代状況を見据えながら、適時、発言をし、行動をしているのではないか、という気がし始めた。岸信介の孫である安倍政権は、岸政権がなし得なかった戦前の満州建国(贋満州国構想)と真っ向から異なる戦後レジームを否定し、改めて祖父の満州建国(贋満州国構想)という理念を元に戦後体制を構築し直そうとしている。つまり、いわば、「戦後」をなきものとし、「戦前と現在、あるいは未来を直結させよう」としているのではないか、という疑念が私の中で沸き起ってきた。そういえば、大正から昭和初期、敗戦までの時代状況と現在の時代状況(特に安倍政権になってからの右傾化した政策、脱亜論、近隣アジアへの蔑視、大国意識、ヘイトスピーチに象徴されるようなファッショ的な世相、右派ジャーナリズムの跋扈など)の類似を考えると、石橋湛山の思想と行動は、戦前の道を歩むまいとする人々に取って、先人が掲げてくれている貴重な一灯になるのではないのか。
私と同じ思いを抱いた人に作家の井出孫六(敬称略)がいた。いや、井出ばかりではなく、ジャーナリスト、作家、編集者ほかが、意を同じうして集ってきたのだ。「石橋湛山の著作を読む会」(以下、「湛山を読む会」)が出来て、10月初旬、神田の出版社の会議室で発足式を兼ねて第1回の会合を開いた。私も呼びかけ人のひとりとして名を連ね、発足の準備を手伝ってきた。以後、定期的(おおむね、3ヶ月に1回開催予定)に読書会を開く予定である。私としては、この後も、とりあえず、湛山の「大日本主義の幻想」の続き、2回目、3回目の主張の概要を伝えたい。その後も適宜、論文を読みながら、あわせて、「湛山を読む会」の動きも含めて、不定期ながら、このコラムの場を活用して報告を続けたいと思っている(この項、不定期連戴)。
いま、石橋湛山というジャーナリストの後輩の系列に連なる私としては、僭越ながら、ジャーナリストは、右傾化するジャーナリズムが跋扈する流れに対抗して、「いま、湛山になれるか」という問題意識を持って、発言を続けて行く必要がある職業だ、と思う。
(筆者はジャーナリスト・元NHK社会部記者・元日本ペンクラブ理事)