【追悼】仲井 富

市井の快男児・トミさん―仲井富氏を偲ぶ―

関口 正俊

 新潟生まれの私が結婚を機に横浜に居を定めたのは1972年、24歳の時である。当時の市長は後に社会党委員長になる飛鳥田一雄氏で「市民参加の市政」を標榜し、各区に区民会議の結成を提唱していた。
 その中に一般公募枠があり横浜を知る良い機会だと思い応募をすると選ばれた。―若者の応募者が他にいなかったことが選ばれた理由だと後で知ったのだが―

 初回の会合に参加し開会を待っていると、「やあ、ご苦労さん!」と声をかけて隣席に座ったのが飛鳥田市長その人であり、同席したのが当時横浜市参与の舟橋成幸氏で同じ区の住民とのこと。社会党との出会いであり入党のきっかけとなった。
 同じ区には渡辺道子(社会党婦人局長)、初岡昌一郎(PTTI東京事務所長)、大久保英太郎(横浜市議会議長)、佐藤賢治(元神奈川県議会副議長)の各氏も党籍をもつ住民で、皆さんとは親しくお付き合いさせて頂だきご指導頂いた。

 その後、私は全電通労組(現NTT労組)役員の道を歩み、1999年に神奈川県議会議員となり、禁煙運動を介し渡辺文学氏と出会った。飯田橋の渡辺事務所で「面白い人がいる」と紹介されたのがトミさんこと仲井富氏である。
 何度か酒席も共にし実直で飾らぬ人柄と巧みな語り口で私を魅了したが、社会党本部専従ならではの戦後日本革新運動裏面史は時間を忘れさせた。

 現在、私は地元で生涯教育団体NPO法人未来塾(75講座に約700人が学ぶ)を主宰し、「日本近現代史再考」という講座を担当しているが、ゲスト講師として仲井氏を招聘したことがある。渡辺文学さんとご一緒に来浜した仲井氏に、自らの歴史を振り返るように「地域に根ざした活動とはこのようなことかも知れんな、関口君頑張れ!」と励まして頂いた。あれから6年、コロナ禍でお会いするのもままならず還らぬ人となってしまった。

 私は今この原稿を台湾海峡の洋上で書いている。コロナ禍で2年遅れの金婚旅行となり、ピースボート世界一周クルーズの途次である。この船には日本被団協代表委員の田中熙巳氏も乗り合わせ、平和のバトンを若い世代に繋げる取り組みも試みられている。
 トミさんが生涯をかけて戦った反戦平和の礎は、日本のそして世界の心ある人々の深層にしっかりと息づいている。やすらかにお眠りください。アリガトウそしてサヨウナラ・トミさん。

 (NPO法人未来塾理事長・元神奈川県議会議員)

(2024.5.20)
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