落穂拾記(18) 羽原 清雅
戦争の犠牲か。ある新聞記者の自決
────────────────────────────────────
筆者が朝日新聞西部本社に勤務したころ、「終戦時に、駐留米軍の調べを受け
て自殺した社員がいたよ」という話を聞いていた。当時は調べることもなかった
が、気になり続けた。社史には若干のことが紹介されていたが、70年近く経った
いま、歴史の影に消えていきそうな話題である。
事実は、このようなものだった。
終戦から4ヵ月余が過ぎた1945(昭和20)年12月、あと2、3日で新年を迎えよ
うというとき、突然、駐留米軍の憲兵隊の武装兵10数人がジープで小倉市砂津
(現北九州市)の西部本社に乗りつけて来た。そのMP隊長らは、戦時中撮影さ
れた日本軍の残虐行為などの写真を押収するのが目当てで、社の調査部で新聞を
調べるなどしているうちにその種の写真を見つけ、若い中尉の隊長らが「明日取
りに来るから、全部整理しておけ」と命令していったん引き上げた。
東京本社からは、その種の写真類は全部焼却するよう指示が来ていたが、調査
部次長の太田了介さんはその指示を聞いていなかった。それで、太田さんは責任
を感じて、その写真を処分する。しかし、それを怒る憲兵隊は太田さんを小倉警
察署に連行した。
責任者である編集局長らも捜索のあった夜、憲兵隊に出頭させられ、「この電
話で福岡の憲兵隊本部に通ずれば、朝日新聞はたちまちつぶせるぞ」と脅された。
数時間尋問されたあと、若いMP隊長は手にしていた皮手袋を机にたたきつけ、
「ゲッタップ」と怒鳴りつけた、という。
編集局長は廊下でMPに連れられた太田さんとすれ違ったが、会話は禁じられ
ていたので、それが最期になった。「事の重大化に自責の念のためか青ざめて、
すまなそうな顔色であった」と、その印象を語っている。
太田さんはその夜、「通訳は無罪である。私の罪は天で裁かれるであろう」と
の英文の遺書をポケットに残して、小倉署の留置場で自らの皮バンドで首をつっ
た、という。
12月28日午後5時40分、38歳だった。その葬儀は、クリスチャンとして大晦日
の31日午後4時から、小倉市(現北九州市)日本基督教団小倉鍛治町教会(現東
篠崎教会)で行われた。
太田さんは1908(明治41)年、福岡市に生まれ、西南学院高等部を出て、1931
(昭和6)年に朝日新聞の大阪本社時代の門司支局編輯部に入り、その後九州支
社に組織替えになって整理部校閲課員、ついで西部本社調査課に配属されている。
調査部の次長となって1年半の時期だった。温厚で、博識。敬虔な信者だった、
という。自死を禁じられるクリスチャンがなぜそこまで追い詰められたのだろう
か。
戦争の勝者の驕りを感じる。一方、律儀で、忠誠心の強い人物の悲劇とも思
う。また、終戦後に豊多摩刑務所で拘禁状態のまま獄死した哲学者、三木清と異
なりはするが、ともにある種の戦争犠牲者だ、とも感じる。著名、無名にかかわ
らず、そのような怨むに怨めない犠牲者は、決して少なくなかったのではない
か。事実上冤罪に終わった横浜事件の被害者も同様だった。
太田さんの事例は、いまでこそ忘れられようとしているが、やはり記録を広く
残すことで、国家の「戦争」ではなく、個々人にとっての「戦争」を考えたい気
分である。
ついでながら申せば、小倉在勤のころ、自宅は陸上自衛隊城野分屯地のそばに
あった。かつては米軍が使っており、朝鮮戦争に出動した米兵たちが一定の期間
が来ると休暇をとるために戻ってきていた。
殺戮に加わった兵士らは怖しい体験から解放されるためか、あるいは平常心を
失いデスペレートになるせいか、彼らの犯罪は多かった。自宅近くの飲み屋など
で生々しい話を聞いたことがある。こうした米兵の地元住民に対する犯罪を素材
として、そのころ小倉の朝日新聞社に勤務していた地元出身の松本清張は、「黒
地の絵」を書いた。
6、7月になると、小倉の街には祇園太鼓の音が鳴り響くが、例の無法松を思い
起こす一方で、やはり朝鮮戦争から一時日本に戻ってきた黒人兵たちの集団がビ
ートのリズムに誘われるように酒や女を求めて脱走し、犯罪に走った様子のほう
が胸に迫った。
この稿をまとめている時に、沖縄で子どもを孕んだ日本の女性が米兵に捨てら
れ、その兵士は基地内に逃げ込んだり、イラクなどの戦争に狩り出されたあと帰
国して不明になったり、というドキュメント報道を見た。国家の命令で沖縄に派
遣されて、妊娠したり、子どもが生まれたりしたら、その兵士を基地内に保護し
て女性側に近づかせない、あるいは派遣先からそのまま帰国させる、といったケ
ースが少なくないことを報じていた。
「そんな男と」と、女性側を軽侮できなくもない。しかし、それでは自己責任
にして放置しておけば良いのか。子どもは子どもとして生まれてきた以上、育て
られる法的保障がなくて良いものだろうか。
日米地位協定、とはなんなんだ、屈辱的な不平等を黙認する国家が「自立」と
か、「対等平等の同盟関係」とか、そのようなことをいえるのか。兵士のモラル
欠如とか、靡く女性の軽薄さとか、それで済ませられる問題なのか。そんなこと
を、個人にとっての「戦争」、あるいは「武力行動」の副産物として重く考えざ
るを得ない。
牽強付会するわけではないが、国家はその利害や名誉にかけて戦闘を挑むが、
そこに参加したり、させられたりする個々の兵士、あるいは戦闘に同調させられ
る国民、というか一般の個人としての市民をどう考えたらいいのか。
靖国神社が祀る兵士たちのなかに、戦争を企画し遂行した責任を問われたA級
戦犯たちがまじる。そのために、各国首脳も、天皇ですらも、儀礼的にでも靖国
には参拝するわけにはいかない。
クリスチャンや仏教など神道以外を信奉する戦没者は、強制もあった朝鮮や台
湾などから参戦した兵士らは、あるいはそれらの遺家族は、「靖国」を歓迎でき
るだろうか。信仰の自由が認められないままに祀られている故人の状態をよしと
するだろうか。
新聞記者太田了介という先輩の自死を知って、思うことは多い。それぞれのひ
とが身内に起きた戦争状態における「個の死」と国家の存在とを考えたとき、そ
の結論はどうか、などと思いながら、ついつい話を広げてしまった。
(筆者は元朝日新聞政治部長)