【戦後70年を考える(3)】
戦後70年を考える
●私的回想と現状への実感
1950年生まれの私にとって、戦後70年の歴史のなかで最初の政治的出来事の記憶は、60年安保とケネディ暗殺だった。地方の小学生でさえ「アンポっ!ハンタイっ!」と口真似していた。日本の総理大臣というのは、国民の反対を押し切る、ふてぶてしい嫌われ者にしか見えなかった。それにひきかえアメリカの大統領は、若くて人気者で、暗殺という悲劇的な死によって一層神話化される存在だった。
そんな事件の翌年の東京オリンピックでは、アメリカの水泳チームの強さに圧倒された。日本が戦後復興を果たしてオリンピックを成功させたという晴れがましさよりも、世界レベルのすごさを感じ、連日鳴り響く米・ソの国歌に憧れた。やがて高校に入るとアメリカンポップスも聞き飽きて、リヴァプールサウンドに酔いしれた。
大学では70年安保を経験した。地方の国立大学にも政治的テーマがあふれ、ヒロシマや沖縄やベトナムが身近だった。かつてのアメリカへの憧憬は、「反戦」や「非核」への思いに打ち消され、決定的な反米感情が芽生えた。
それは大学卒業後にアメリカ留学の機会を得たときにも変わらなかった。中西部の保守的な中産階級を相手に、沖縄の米軍基地の実態について、少女暴行事件の話さえまじえて語った。そんな話にも熱心に耳を傾けてくれたアメリカ市民のなかには、心を痛め同情を示すだけでなく、自分たちの問題として、海外に米軍基地を置き続けることの無意味さに憤慨する人もいた。その地方の州立大学で、留学生に対するきめ細かなサービスを受け、好戦国家のイメージとは異なるアメリカ社会の懐の深さも知った。
帰国してからは就職活動や結婚・子育てなど、目の前のことに追われる日々が長らく続いたが、今、1960~70年代の政治意識に照らして日本の現状を考えると、まさかこんなことになろうとは、と愕然とすることが多い。
第一に、自民党政権がここまで生きながらえようとは
第二に、一国の総理大臣がここまで憲法を軽んじ民意を踏みにじろうとは
第三に、「平和憲法」の意味を最も重く受け止め、それをとおしてこそ日本への帰属を受け入れたはずの沖縄で、今なお圧倒的な面積の米軍基地が集中し、さらに巨大な新基地建設が強行されようとは
第四に、「核の平和利用」の美名に惑わされているうちに、原子力発電所が全国で51基も建設されようとは
第五に、大津波によってまぎれもない「メルトダウン」が発生してしまうとは
なのにその大惨事の後で、原発推進が止まらないとは……
派閥の領袖たちの影響力がうすれ、議席数という「大衆の支持」さえあれば、巧みな連立工作やマスコミ対策によってどんな持論も押し通せるような政治の質の低下ぶりは、本当に思ってもみなかった事態である。
社会・経済面においても、セレブ志向や株投資が、こんなにも一般庶民の間に広がろうとは、それに、ミュージカルのような大仰なエンターテイメントやファーストフードがここまで浸透しようとは……。
●背後にアメリカ、根底に日本社会における経験の空洞化
それらの背後にある最大の共通要因は、アメリカだ。とっさにそう思うのは、今年に入って見たテレビ番組の影響かもしれない。たとえば、NHKが「戦後70年 ニッポンの肖像―バブルと失われた20年」と題して放送した番組は、関係者へのインタビューと実録映像を中心に構成した、以下のような内容だった(2015年5月31日午後9時~)。
1980年代、莫大な貿易赤字と拡大し続ける財政赤字という二重苦に陥ったアメリカは、先進5ヶ国にドル安への対応を求めた。「経済大国」になった日本に対しても、円高と金融緩和への圧力が強まり、日米経済摩擦が深刻化した。そういえば当時、日本車の焼き討ち騒動が起きるほど反日暴徒化していたのは、アメリカだった。
NHKのインタビューに応じた日本の元大蔵官僚は、核の傘や戦後復興の支援などで日本はアメリカに逆らえず、日銀は公定歩合を引き下げ続けて地価上昇に歯止めがかからなくなった、と語る。企業は金融に、素人は不動産に走った。
元日銀理事は、対応が後手後手に回り、バブルの膨張を許してしまった自分たちは「バブルの戦犯」だと懺悔する。日銀内の共通認識として、このまま利下げを続けるのは危険だという議論も始まった。円高不況の深刻化を無視できなくなった当時の宮沢外相は、訪米してベーカー国務長官に会うが、逆にさらなる利下げを要求されて帰ってくる。宮沢・ベーカー共同声明では、円高を抑えるのと引き換えに利下げが決定されたのである。日銀理事たちの共通認識どおり、ついにバブルは崩壊し、金融機関の廃業・倒産が相次いだ。
「異常さに気づいていながら止められなくなっていた」「危ないと思いながら流れに乗ってしまった」という30年後の証言は貴重だが、どこで何が変わったのか、そのときどうすれば防ぎ得たのかが見えてこない。同じような回顧は何度も聞いた。戦前・戦後をとおして、特定の勢力や事態のなりゆきによる「暴走」は、「あの当時は仕方なかった」を基調とする語りに傾きがちで、むしろ過去を問わない習性が美徳となる。完全には忘却されないとしても、「苦渋の判断」や「痛恨の思い」が美化され、あるいは「英断」という開き直りが再評価されてしまえば、どんな悲劇的な結末をもたらした体験も、具体的な方策や知識として経験化されることがない。
「アメリカが押しつけた」とされる日本国憲法は、何よりも、そんな日本の軍事的暴走を二度と許さないために草案された。しかも、戦争と軍備を禁じるだけでなく、それがなくとも人々が幸福を希求できるよう、草案作成に関わった人々の思いもこめて、近代的な恩恵を散りばめた内容だった。二つの大戦で疲弊し切った世界中の国々の願いも反映されていたにちがいない。そしてその憲法の精神と具体的な条文を盾にして、再び起こりうる「暴走」に何度も歯止めをかけてきたのが、私たちの戦後70年だった。
●私自身は何をしてきたのか
先述の問題意識に照らして、なんで、いつの間に、こんなことになってしまったのか、という嘆きは、私はその間一体何をしていたのだ、という問いとなって自分に返るのでなければ意味がない。私が政治に関心を持って世界を知ろうとしていたのは、実は、田舎のヒマな小学生だった頃と、受験競争から解放された直後の大学生時代と、そして今、本業をリタイヤして研究生活に専念しながら清貧に甘んじるゆとりを得た時期と、三回しかなかったことになる。
ここ数年、自分が再び政治的になったのは、私の知る戦後史のなかで、最もアブナイ情勢だと感じるからだ。政治的指導者が他者の声に鈍感になり、金切り声で「持論」をふりかざすなど、言語や知性の正当性が根幹から蝕まれていくような事態が出現している。私自身、同年代の仲間やその子どもたちの世代や、要介護の両親が住む地方のコミュニティとのつき合い方をとおして、また専門の研究や運動に根ざして、現実と向き合い続けるなかで、ひしひしと感じる危機感なのである。
近年の個人的変化としては、戦前世代の両親との接触が増えたことがあげられる。私の両親は、規則正しい生活と健康志向の食事を心がけてきたが、ある日突然、相前後して二足歩行さえ困難な状態になった。それぞれ90才前後の高齢だったにもかかわらず、本人たちにとってそれは「想定外」の出来事だった。二人ともただ元の生活に戻りたい一心で、医師の指示通りの治療や、自分なりのリハビリに励み、驚異の回復を遂げた。
しかしこの大変な経験を経ても、自分の客観的な状態の変化を悟り、今後も想定され得る厳しい事態にどう備えればよいか、という発想には至らない。相変わらずこのまま頑張り続けて元通りになることだけを願う。昨日よりも今日、今日よりも明日、と良くなることを疑わず、今は自分の回復の速度が遅いことが不満でならない。そのような一途さが生きる力となっていることは確かで、周囲の人々は老夫婦の不屈の精神を讃える。
私も二人の自立心には敬意を払うが、反面、そんな庶民の愚直さが、指導者の無策や暴走を許す日本人の一つの典型なのではないか、という側面も見えてくる。彼らを生かしているのは、生きようとする主体の意志というより、慣性の力にすぎないのではないか。思考するよりもまず対処してしまうという姿勢は、たとえ原発が爆発しようと戦争が始まろうと、その状況下で日々頑張り続けるしかない態度につながる。
第二次安倍政権が誕生したときも、私の両親は「最初で失敗してるから、今度こそ大丈夫だろう」と口をそろえた。しかし民主党政権にうんざりした後の安倍政権への期待は、いつしか「安倍は調子に乗ってる」という反感に変った。ただし、日常生活のほとんどをヘルパーさんに依存し社会的ネットワークを断たれた今、二人には夫婦間のつぶやき以上の政治的表現の術がない。『朝日新聞』とNHKニュースを欠かさない父でさえ、国鉄の労働者だった時代を除いては、情勢を客観的にとらえる言語も、そのような言語を共有して現状に働きかけるような他者とのつながりも、ほとんどない人生だった。
●考えられうるポジティヴな変化
戦後70年を考えるにあたって、いつの間にこんな事態になってしまったのかという嘆かわしさ以外に、現状におけるポジティヴな変化を見出すことはできないのだろうか。
一つ言えるのは、少なくとも個人的には、中国への理解が増したことだ。1990年代に入って中国が開放されるにつれ、ようやく私も中国の文化や歴史にふれるようになった。ほぼ日本とアメリカに限定されていた私の視野が中国・台湾・香港へ、韓国へと広がるにつれて、認識枠組みが一変し、反米意識に論理性が加わった。
かつて周恩来総理が述べたように、艦隊を仕立ててやって来るのはいつもアメリカだ。それにしても、アメリカが中国の間近で中国を仮想敵とみなす演習を展開してきたのに対し、中国が国力に見合う軍備増強を目指したからといって、日米がそれを口実に結束を固め中国敵視を強めるなど、日本の勝手な思惑にすぎない。米・中それぞれの国益にもとづいて独自の戦略を展開するのは当然で、相対的に日本の影響力が低下するのは避けがたい。その現実を受け入れず、中国に追い越された日本が、国力・威信ともに凋落したアメリカにますます追随して、世界に新たな敵をつくることの危険性は計り知れない。
私が中国に行くようになって、両親の中国観も明らかに変った。父はようやく自らの戦争体験を語り始めた。暗号解読という任務についたため実戦に加わることはなかったらしいが、それでも実の兄と多くの戦友を失い、「日本は中国でありとあらゆることやったんだ」という記憶も今なお鮮明だ。私が中国の友人たちについて語るのを嬉しそうに聞く態度に、彼の戦後の変化が明らかである。
私が実家に帰ることが多くなり、久しぶりに再会する地元の旧友たちからも、中国への親近感や韓流への興味を示す言葉が聞かれるようになった。領土問題では不安の声も大きかったが、少なくとも彼女たちとは、政治も歴史も、情と理の両面から語ることができる。
最近会ったときの話題は沖縄だった。旅行好きなのに沖縄だけは抵抗があって行けなかった友人が、ついに行ってきたと言う。広大な基地を目の当たりにして「あれはおかしい」「絶対に行ってみなければダメだよ、絶対におかしい」と、強調する。おかしい現状への問題意識を高めること、何がおかしいのかを知ろうとすること、現場に足を運び当事者の声に耳を傾けること――それが、60年代の運動が挫折した後に、かつてその運動の周辺にいただけの私たちの間に残された、貴重な遺産だといえる。
そして彼女たちが今一番おかしいと感じるのが、安保関連法案である。あれは複雑で難しいから庶民に理解できないのではない。提出の仕方も、内容も、強行採決へと突き進む姿勢も、何もかもが道理に欠けているのだ。それに対する強い憤りが近所の茶飲み話で語られ、何十年ぶりかで反対署名が盛り上がっているという。そのような、地を這うようにして広がる声と行動が一顧だにされないとすれば、それこそが民主政治の存立危機事態だ。
●沖縄と安保関連法案という結び目
その友人の言葉に急かされるように、私は先月、初めて沖縄に行った。本誌『オルタ』関係者のとりはからいで、現地で有機農業を営む反戦運動家の仲西美佐子さんから万座毛付近の海岸を案内してもらい、沖縄大学で環境学の桜井国俊先生から辺野古埋め立ての違法性などについて話をうかがった。東村高江地区のヘリパッド建設現場付近や、それに反対する座り込み8周年報告会の会場にも足を運ぶことができた。もちろん辺野古も訪れた(注)。
(注)2015年6月27日~30日までの沖縄訪問は、砂川基地拡張反対闘争の継承者である福島京子さんと、沖縄各地で反米軍基地闘争を闘う人々との連帯・交流をめざしたもので、私は主に記録撮影のために同行した。詳しくは報告会で述べるが、現地で撮影した映像は編集後『オルタ』ホームページの動画欄にアップ予定。
大江健三郎の「沖縄ノート」や若泉敬の沖縄密約エピソードや、最近立て続けに見たドキュメンタリーなどをとおしてしか知らなかった沖縄へ、極めて重要なタイミングでの初訪問である。しかし沖縄は、そんな初心者の緊張感を見事に裏切って、内外の観光客でにぎわうのどかな南国リゾートだった。
週末だったたため、辺野古の海には作業船も監視船もなく、巨大な鉄塔だけが不気味な威容をさらしていた。浜辺は人影もまばらで、カヌーは岸に山積み。抗議行動どころか、その日は伝統的なカヌーの「ハーリーレース」が開催される日で、例年米軍チームも参加するのだという。キャンプ・シュワブゲート前に移動すると、歩道に並んだテント内に座りこむ人々の表情も、いたって穏やかだった。
当初の記録映像を見たときには、資材搬入トラックの実力阻止行動など、あまりにも少数による悲壮な闘いの印象が強かった。それと比べると、拍子抜けするほど静かな第一印象だった。しかし、それこそが沖縄の抵抗と闘いの真髄なのではないかと、わずか数日の間にも実感できたような気がする。
闘いは、沖縄にとってむしろ日常でありほぼ永続的なのではないか、という実感である。事あるごとに、とりわけ衝撃的な事件の起こるときに、沖縄の怒りの瞬発力が本土のメディアにも注目されてきた。だが、鳩山首相の「普天間基地県外移転」発言以来、辺野古新基地建設反対へと高まってきた運動は、第二次安倍政権のアメリカ最優先姿勢に抗して、これまでになく強靭な基盤を築いて広がってきた気がする。沖縄の心ある人々の怒りは、戦後70年目にして強まる一方であることは疑いない。しかしそれは爆発してすむものではなく、日常的に継続可能な運動へと方向づけられ、戦術的なしたたかさに鍛えあげられてきたのだ。
専用バスが到着するたびに、キャンプ・シュワブゲート前に続々と集まる人々は、ひたすら目の前の基地を見据え、行き交う車に手を振って応える。内外の各地から訪れる人々の連帯の挨拶には、過激な言葉も怒声もない。修学旅行中だという学生グループが教師とともに訪れたりする。それに、辺野古でも高江でも何より印象的だったのは、小さな子供や高齢者を伴う、家族連れの参加が目立つことだった。
多様な人々を受け入れ、非暴力を貫く不屈の抵抗は、世代を超えて身体的な感覚として継承されるだろう。それは、東京でも感じることだ。参加者それぞれの切実な思いが創意をこらして表現される集会やデモが、すっかり定着してきた。大学やNPOなどをベースとしながらも、ソーシャルネットワークをとおした自発性・開放性が特徴的で、仲間づくりの場にもなっている。ますます多くなったそのような活動で、最近は沖縄とのつながりが言及されることが多い。
沖縄ならではの特徴は、独自の文化に対する誇りと、それを傷つけられてきた鋭い歴史認識であろう。初心者のナイーブな感想かもしれないが、それでいてナショナリズムを超えたしなやかさも感じられる。翁長知事の掲げる「イデオロギーよりもアイデンティティー」「誇りある豊かさ」という言葉が、いかに沖縄の人々の心に沿ったものか、よくわかる気がした。
基地を目の前にした現場だけが闘いの前線ではない、ということも感じた。今、沖縄では関係市町村や全県あげて怒りが渦巻くなか、翁長知事は、無礼千万な安倍自民党にも軍事大国アメリカにも、可能な限りの理性的なアプローチを試みている。安倍政権がありとあらゆる手を使って強行し続ける限り、それとの闘いは、辺野古の埋め立て承認手続きの瑕疵を摘発し、辺野古の環境アセスメントの問題点を指摘し、埋め立て用の土砂搬入を規制し―と、縦横無尽にならざるを得ない。
そもそも沖縄に米軍基地が必要なのかどうか、アメリカ国内でさえつとに疑問視されてきた。1959年、上院議員だったジョン・F・ケネディは「原子力の時代に、外国に駐留することは意味ない」「現地民とトラブルも起こるし軍隊の規律もゆるむ」と発言していた。私が沖縄に行く直前にも、日米同盟強化論者であるアマコスト元駐日大使が、極めて冷徹な戦略的判断から、沖縄の海兵隊の必要性に疑問を呈した。基地移設強行への懸念を表明し、「もし強行すれば、嘉手納のような重要な基地すら住民の反発というリスクにさらす恐れがあります」と述べたのである。
あらゆる闘いのなかでも、一箇所にとどまらない「住民の反発」の結集が、日本政府の頭越しにアメリカを動かす力になり得る、ということだ。それは、経済的に逼迫したアメリカが、手を引くかわりにすべてを日本に肩代わりさせる可能性もあり、それを見据えた運動を考えなければならない、という意味でもある。遅かれ早かれ安倍政権は終わるが、沖縄の闘いは息長く続かなければならないのだ。
●自民党政治を本当に終わらせるものは
A級戦犯容疑者だった人物を党首とし、日米新安保条約を強行採決して生きながらえた戦後の自民党政治は、今その孫の暴走に対し、かつて党の要職にあった人々までが「異常さに気づいていながら止められない」という事態にある。現存する憲法を軽んじ民意を踏みにじる暴挙に歯止めがかけられないのは、形だけ生きながらえた自民党政治の末期症状といえるだろう。
その一方で、「平和憲法」の意味を最も重く受け止めた沖縄で、そして沖縄との連帯をとおして安保関連法案の危険性を認識した広範な人々の間で、法案の強行採決反対にとどまらない運動が空前の広がりをみせている。運動の現場で、あるいは福島や沖縄で、新たな情勢認識の言語を得てネットワークを広げた人々は、生活スタイルの変容や価値観の転換という社会的な変化を生み出していく。たとえ日本じゅうの大勢が、アメリカの文化支配のもとで相変わらず目の前の生活に追われ、あるいは享楽を求め続けるとしても、である。
かつて「革命」を掲げ、戦後民主主義の形骸化を訴えて始まった運動は、自民党政府を打倒するほどの効果を上げることはできなかった。しかし運動の影響かどうかはともかく、いわゆる「政治」はすでに終わっている。一票の格差が一向に是正されないまま、有権者の半数しか参加しないような選挙が続くということは、機能不全に他ならない。ちょうど、私たちの世代が育てた子供たちが、結婚も出産も拒否し(あるいはしたくてもできず)、少子化が加速して家族観や施策が変わらざるを得なかったように、価値観の変化を反映した抜き差しならぬ事態が出現することで、否応なしに複合的な変化が起こるだろう。そのメカニズムを発動するには、社会の至るところで、大勢に従わず体制を揺るがすような言動をゲリラ的に展開して、オルタナティヴな見方と生き方を創り出していくしかない。
まずは、沖縄と安保関連法案をめぐるなりゆきに対して、考えられる限りの目に見えた「反発」を示すことだ。戦後70年の節目に訪れたこのような状況は、戦後史の重要な一幕として記憶されるだろう。いつか、その歴史的意味をふりかえるにあたって、「あのとき私自身は何をしていたのか」と問い直す自分に、しっかり応えうる言動を心がけたい。二足歩行のできるうちに、耳や目の使えるうちに。
(筆者は社会学者・翻訳家)