【戦後70年を考える(4)私にとってのアジア】

戦後70年を迎えて

棚田 由紀子


 1960年代生まれの私には、戦争体験が無い。戦争は常に歴史上の出来事か外国での出来事だった。私にとっての戦争は「受験戦争」や「就職戦線」であり、人と人が殺し合い、残忍さを増していく攻撃が繰り返される本物の戦争は、どこか知らない世界の話であり、自分には直接関係の無いことだと思ってきた。
 どうしてここまで無知な人間が出来上がったのか? それは、戦争の現実について教えてくれる人が周りに誰もいなかったからである。
 もちろん、学校の歴史の授業では習うので(といっても、たいていは3学期修了間際に駆け足で教科書を読んでおしまいだったのだが)、ある程度の知識は有している。だがそれは、年号であったり終戦後の条約名だったりと、受験で問われる内容に限られていたので、受験終了と共に大方の知識は消えてしまった。骨組みだけで肉付けされていない知識は消えるのが早い。頭だけで理解するのではなく、実際に戦争を体験した世代からその体験談を聞き、戦争がもたらす悲惨さを心で感じ取って初めて、戦争に対するはっきりとした考えを持つことができるのではないだろうか。
 今年は戦後70年の節目ということもあって、全国各地で戦争体験者から話を伺う活動が増えているという。今年をきっかけに、来年も再来年も地道に活動を展開していってほしい。

 だが、辛い戦争体験を語ることが心理的に大きな負担になることは想像に難くない。例え話にするには不適切かもしれないが、阪神淡路大震災で被災した私は、今でもあの震災の体験を語ることができない。記憶ははっきりと残っているし、語ろうと思えば語れるのだが、語ることで「心の中に封じ込めている何か」(恐怖、怒り、猜疑心、無気力等々)が再び噴き出すのではないか・・・と思ってしまい、語ることをためらってしまう。大震災よりも遙かに長い時間、遙かに大きな犠牲を強いられた戦争体験を「はい、語ってください」と言われても、なかなか口を開く気になれないと思うのだ。どうすれば語っていただけるのか、私たちは常に考えながら、戦争体験者の心に寄り添いながら体験談を伺っていかなければならない。
 戦争を実際に体験した方々の数が徐々に減っている今、その体験談を聞いて受け止め、次世代へ繋いでいくのが、戦争を知らない世代の務めだろう。戦争の記憶がある親族の中で、もっとも年若だった父も何も語らないまま今年初めにこの世を去った。今のうちに聞いておかないと、本当に聞きそびれてしまうと切に感じる。

 今、政治の世界では、世界のどこかで常に起きている戦争(もしくは戦争になるかもしれない状況)のうち、日本と無関係ではない(かもしれない)ケースに限り「お金ではなく形で」貢献できるよう、あれこれ策を練っているようである。それらが妥当なのかどうかについては、正直分からない。だが、戦争体験者は一様に「戦争は絶対に繰り返してはならない」と言い切っている。これが真実ではなかろうか。

 (筆者は、日中市民社会ネットワーク(CSネット)事務局スタッフ)


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