【終戦記念日をむかえて思う】

指導者がなすべきことをしない無責任の歴史の再点検
―猛暑とコロナ禍の中で迎えた終戦記念日に考えたこと

初岡 昌一郎

 今夏に読んだ本の中で感銘深かった一冊は、田中伸尚『大逆事件』(岩波現代文庫)であった。この本は、歴史家E.H.カーのいう「過去と現在の対話」と「過去と未来の対話」の目覚ましい成功例である。本書は現代の価値観によって過去の事件を解明しているだけでなく、未来に対する警告と貴重な教訓を示唆している。
 事件の記録や被告と関係者の言動の記録を系統的に読み返す作業に加えて、比較的最近まで生き残った被告と司法関係者、死刑や獄死により犠牲となった被害者家族、そして周囲の関係者から丹念な聞き取りを積み重ねてきた記録である。それによって、当時の人々だけでなく、今も多くの人々が全く知りえなかった事件の実像が浮き彫りにされている。読みやすく、感動的なストーリーである。

 概略的に事件を知っているつもりであった私自身、目から鱗の落ちる思いで読了した。一部司法指導者の独断的専行と、それを積極的に推進したのではないのに、許容した国家指導者が引き起こしたこの事件は、昭和戦争の軍部主導と他の国家指導者による追随的容認の構図と酷似している。
 多くの協力者の支援を得た著者たちの努力もあり、これまで犠牲者を国家犯罪者として排斥し、残る家族にも塗炭の苦しみを味合わせてきた出身地域でも、理解と再評価が進み、名誉回復の措置が次々と取られている。だが、依然として国家の壁は残り、事件再審の道は閉ざされたままである。

 この本を読んだ余韻の残るときに迎えた今年の終戦記念日に思ったことは、このような手法で戦争の原因や経過を今後あらためて検証すべきではないか、ということだ。それによって、今まで一般に広く知られているような戦争の歴史とは非常に異なる実態が浮上するに違いない。

 開戦に至る事情とその責任はかなり明らかになっているし、戦争責任の追及は不十分ながらもかなりの程度行われた。しかし、日本の軍事力の限界が国家指導者にとって明らかになりながら、「終戦」を引き延ばした判断と責任はほとんど解明・追及されていない。
 対日戦争の終結と戦後処理の合意がなされた、米英ソ首脳によるヤルタ会談は、1945年2月4日より一週間をかけて行われた。その後、日本に対する「終戦」の働きかけは戦争当事国からだけではなく、当事者外の諸国からも行われた。しかし、これらは「外交の機密」というベールに妨げられただけではなく、個人の歴史家の手が届きにくい国際間の行為であったので、ほとんど解明されていない。歴史研究も他の研究と同じく、動機と目的、奨励と支援がなければ行われにくい。特に、国際関係の研究は軍部や国家の後援なしに本格的に行われたものはあまりない。

 ヤルタ会談後、あまり時間を置かずに終戦が実現していたならば、その後の半年間に引き起こされた悲劇的な歴史、すなわち沖縄戦、東京大空襲などの都市爆撃、そして「終戦」に直結することになった原爆投下とソ連の参戦はすべ回避できた。「もし」を歴史の禁句として真っ向から否定する人は、歴史を自然現象のごとく観察し、当事者による判断の当否や指導責任を視野の外に置く人たちである。

 現在の価値観と将来に対する責任から、過去に新しい光を当てることは歴史を研究するものにとって当然かつ必要なことである。このような歴史的なアプローチとその方法は、過去を解明するためだけではなく、現在の国家、経済、社会を指導するエリートの言動を理解、評価するうえでも役立つ。指導者の「していること」に対する批判と評価だけではなく、なすべきことを「していない」無責任が厳しく問われるべきである。これは他者に問うだけではなく、我々自身がまず自問しなければならないことでもある。

 (姫路独協大学名誉教授、元国際郵便電信電話労連東京事務所長)

田中伸尚『大逆事件』(岩波現代文庫)の立ち読みはこちらからも可能です。
https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/0330790.pdf

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