【オルタのこだま】                     

改憲と岸信介氏の思い出      今井 正敏

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 3月3日付の「朝日新聞」の朝刊一面のトップ記事に、「安倍色回帰 国民投
票法を最優先」という大きな見出しで、「安倍首相が変身した。「タカ派」イメ
ージの払拭のために続けてきた持論の封印を解き、与党との関係にも変化が見え
始める」という書き出しから始まって、「憲法改正手続きを定めた国民投票法案
の会期内成立を最優先する方針を固め、与党も首相の意向を追認する構えだ。参
議員選に向け、「やりたいことをやって国民の審判を仰ぎたい」─。とらわれて
きた「小泉路線」からも距離を置き、保守理念の実現にこだわる首相の本来の姿
がむき出しになってきた。」と伝えている。
 
この記事で取り上げられている「憲法改正」や「国民投票法案」などのことに
ついてはいずれ「オルタ」でも特集を組んで論じられると思うので、大いに期待
したいのだが、今回私があえて書こうとしたのは、上記の記事の後半の部分に、
「安倍政権ができたらテーマは当然、憲法改正になる」。四年前、官房副長官だ
った首相は周辺にこう語り、祖父・故岸信介元首相の悲願に思いをはせた。(中
略)政府関係者は、「最近の首相は父・晋太郎氏より岸信介氏に近づいてきた。」
と見ている。」と書かれてあり、現在の安倍首相には、祖父である故岸信介元首
相のカゲが大きく投影されているという記事が目に止まった。その岸信介氏と日
青協の本部役員が、岸氏が戦後、政界に復帰する前につくった日本再建連盟で活
躍し始めたころ、顔を合わせて話し合ったので、そのことを思い出し、このいき
さつを書こうと思ったからだ。

 1951年(昭和26年)の夏に、鳥取県の県連合青年団長(日青協の常任理
事に選ばれていた)から、知り合いの代議士を通じて、「日本再建連盟をつくっ
て活動を始めた岸信介会長より、日青協の本部役員と面談ができないかと話があ
ったので、検討して欲しい」という要請があったことが日青協の金星会長に伝え
られた。
 日青協の執行機関である常任理事会で相談した結果、日本再建連盟は政党では
ないので、その連盟の会長と面談することは問題ないという意見が集約され、日
青協の会長と副会長3名(男子のみ)、事務局長、常任理事3名(私もその一人
に選ばれた)が岸会長と面談することになった。

 面談場所に指定されたのは帝国ホテル。現在でもそうだが、当時、帝国ホテル
といえば、超一流のホテルで、一般庶民にとっては高嶺の花のホテル。
 面談におもむく日青協本部役員も、帝国ホテルに入るのは、全員初めてという
ことで、岸会長との初顔合わせのこともさることながら、帝国ホテルに入ること
のほうにも関心が高く、高ぶる気持を押さえながらホテルの中に入った。 ロビ
ーの受付で用件を話していると、ボーイが、「当ホテルは、ネクタイを着用しな
いと、部屋には入れない決まりになっていますので、ノーネクタイの方には、ホ
テルに用意してあるネクタイを貸し出しますから、それをしめて部屋に入ってく
ださい」という。こちら側でネクタイをしめていたのは、会長と副会長1名、事
務局長の3名だけで、ほかの5名は、夏用の開襟シャツ。ホテルに足を踏み入れ
たトタンに、一流ホテルのマナーのきびしさを思い知らされ、オープンで自由な
青年団方式では通用しないことを強く感じながら、それぞれYシャツ、ネクタイ
を借用して身なりを整え、岸会長が待つ部屋へ向かった。
 
入った部屋は、大きな応接室のような所だったと思うが、そこに新聞の写真や
ニュース映画などで見なれた(当時はまだテレビはなかったので、手がかりにな
ったのは新聞とニュース映画だった)岸信介氏がにこやかな笑顔でわれわれを出
迎え、その背後に国会議員のバッチをつけた人たちが5人ほど立ちならんでいた。
 私が岸氏本人と接するのは、このときが初めてだったので、やや緊張した気持
ちで、岸氏と握手を交わした。
 
そして背後の人たちに目をやると、その中に、私と同じ栃木県人で、選挙区が
同じでよく知っている、当時、外務政務次官をつとめていた森下国雄代議士が見
えたので、すぐ近づいて挨拶すると、森下先生も「おお今井君も来てくれたのか」
といわれて、大変よろこんでくれた。私のほかに、3人ほどが同じように議員の
人たちと知り合いということで、それぞれ親しく挨拶を交わした。
 このように、岸会長がおのおのよく知っている代議士を同席させたということ
は、この面談に岸氏側が周到な配慮をしていたということが理解でき、まず最初
から大物政治家の事の運び方の巧みさに感銘した。

 面談の内容は、初めに岸会長がやや長い時間、岸氏が考えている日本再建の方
策について熱っぽく語り、この戦争に破れた祖国を再建するのには、これから二
十年、三十年の長い年月がかかるだろう。それだけにいまの若い青年たちの力が
必要で、青年団に私が大きな期待を寄せているのも、そこに理由があると語られ
た。
 このあと、日青協側を代表して金星会長が質問し、一問一答の形で話し合いが
進行した。当初私たちは、当然、政治を中心にした話し合いがされ、最後には、
日青協に対して選挙への協力要請があるのではないか、と思っていたが、そうし
た話はまったく出ず、一般的な時局の動きを主体にした話し合いだけで終わった。

 それというのも、この1951年(昭和26年)当時、日本の巨大組織体とし
て、総評と全学連、そして日青協の三つが「ご三家」と呼ばれ、総評380万、
全学連160万、日青協430万(昭和25年に行われた文部省調査による数字)
という巨大な人数を組織していたので、これらの巨大組織が政治にあたえる影響
も大きいと見られていたため、発足早々でまだ足もとがまったく固まっていない
日本再建連盟が、結成されたばかりの日青協に目をつけ、この青年団の組織を再
建連盟として活用できないか、と考えたため、日青協本部役員との面談が企画さ
れたのではないかと、日青協側は推測していたからであった。
 
このように、日本再建連盟の岸信介会長と日青協の本部役員との面談は、具体
的な話し合いはなく、きわめて一般的な顔合わせで終わった。しかし、事はこれ
で終わらず、しばらくたってから、この面談を企画した代議士から、日青協とい
うことではなく、日青協会長の金星氏本人に対して、参議員選に出馬しないかと
いう打診があり、出馬する場合は、金銭的な面での心配は一切いらないという話
があったことが明らかになり、金星氏本人から、金星氏の側近といわれていた静
岡県団の鈴木重郎団長や私に、「どうしたものか」と相談があった。
 
私たちは、日青協430万といっても、日青協の実態は、団員一人々々の個人
加入ではなく、各道府県団の全国連合体なので、日青協ということを知っている
のは、ごく一部の道府県団の役員クラスぐらいにしかすぎず、430万という数
字にまどわされるな、と強く出馬に反対したので、金星会長自身は大いに意欲が
あったものの、金星ラインといわれた側近の同志に反対されたのではどうにもな
らず、やむなく断念ということになり、この参議員選出馬の話は、表に出ること
なく消滅した。

 こののち、岸信介氏は、2年後の1953年(昭和28年)に当時の自由党に
入党、翌年、同党の憲法調査会長に就任して、憲法改正に取りくむようになり、
このころから活発になった保守合同にも積極的に動き、1955年(昭和30年)
にその保守合同が実現して自由民主党が発足すると、その幹事長になり、翌昭和
31年には、自民党総裁選に立候補、石橋湛山氏との決戦投票で敗れたものの翌
32年2月に石橋首相が病気のため総辞職すると、副総理格で外相をつとめてい
た岸氏が、A級戦犯容疑者という経歴の持ち主でありながら、首相に就任・・・
ということで、政界の中枢部をかけのぼったので、日青協本部役員との面談も一
回だけで終わった。
 岸信介氏と日青協本部役員との面談、このまったく異質の顔合わせは、関係者
だけの記憶にとどめられただけで、「日青協20年」「同50年史」にも登場す
ることなく、幕を閉じた。
                        (元日青協本部役員)

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