【投稿】

敗戦を終戦とした日本人のまやかしと偽りの戦後

仲井 富

 ◆ 終戦とはごまかしの言葉だと断じた東久邇宮稔彦首相

<はしがき> 敗戦記念日の8月15日、すべての新聞が相変わらず終戦記念日という記事で埋まっている。そのなかで朝日新聞3面に「日曜に想う」編集委員・曽我豪氏の署名記事があった。「終戦とはごまかしのことばだ」と言う見出しだ。
 そのなかで曽我氏は、要旨以下のように述べている。

 ――1945年8月17日、太平洋戦争を終結させた鈴木貫太郎首相の後を襲って皇族の東久邇宮稔彦王が首相に就任、初閣議を開く。初閣議では、国民に向け「今後に対処する覚悟」と題した声明を出すことが決まる。元朝日新聞副社長で、今の官房長官にあたる内閣書記官長に就いた緒方竹虎氏が自ら案文を書いたが、そこに「終戦」の言葉があった。「終戦とはごまかしのことばだ」と断じたのが首相である。「いたずらに国民の覚悟を弛緩せしめるだけだ。これは敗戦の事実を認めてよろしく「敗戦」とすべきだと言葉の修正を求めた。軍部の反発を怖れた下村定陸相が「それでは統帥の責任を取りたくてもとれませぬ」と強硬に反対、結局は原文のままとなった。ただ、首相の意思に共感してその言葉を記録した閣僚もいた。厚生相だった松村謙三である。松村氏は、首相の主張の方が「かえって国民に敗戦の認識を正しく与え、復興精進を緊張せしめたかもしれぬ」と綴る。

 ◆ 作家の半藤一利さんの批判 今も続く日本人の自己欺瞞

 1月12日に亡くなった作家の半藤一利さんが朝日新聞に連載した一文の中に、同感と思った記述がある。それは1945年の8月15日を境として、それまで米英撃滅と叫んでいた大人たちが、一斉に米英に媚びていく姿だった。半藤さんより二歳年下だったが、以下の記述に同じ思いを共有する。

 半藤さんは敗戦の日、「……光の下にしばらく座っていると、『即時灯火管制を廃して、街を明るくせよ』といわれた天皇のお言葉が、つよく心にしみてきて、涙をおさえかねた」と。
 それが何たることか。「一夜明ければ」という言葉どおり、少し落ち着いてくると、まわりの大人どもがあっさり寝返ったのを見たのである。あれほど精神の切り替えを鮮やかに、いや、あっさりとやってのけた例は、歴史上なかったのではないか。
 熱血殉国で私たちをポカポカ殴っていた教師や元警防団員たちは「民主化」の旗ふりとなる。戦争に負けるとは、軍事的には木っ端微塵(みじん)に砕かれる、だけではすまず、精神的、思想的かつ文化的にも、日本人はノホホンと変わるんだ、この厚顔無恥!と骨身に沁(し)みて思い知らされたのである。八月がくると、その情けない思いが蘇(よみがえ)る。このぬけぬけとした自己欺瞞(ぎまん)はいまにつづいているのではないか。

 ◆ 無名戦士墓苑で敗戦日を思う 大本営発表は嘘八百だった

 私は、近年は8月15日の敗戦記念日には、右翼の騒音に包まれる靖国神社に参拝することはやめて、千鳥ヶ淵の無名戦士墓苑に参詣する。8月15日は、戦中世代にとって様々な感懐を呼び起こす日だ。わたしの敗戦日は岡山県の山里の小学校で天皇の言葉を聞いた。ラジオが悪いのか天皇の声はかすれがちで聞き取りにくかったが、戦争に敗けたことは判った。あれ以来昭和天皇が嫌いになった。

 敗戦を聞いて、12歳の少年は恐怖に震えた。それは、大人たちから、戦争に敗けると鬼畜米英の兵士たちに、男は睾丸(きんたま)を抜かれ、女は鬼に強姦されると聞いていたからだ。その前の週には広島に原爆が落とされた。詳報はなかったがピカドンという爆弾が落ちて大変なことになっているという風評は聴いていた。当時のマスコミは政府の広報紙だったから、あの大被害を全く報道しなかった。

 替って大本営発表1945年8月7日15時30分の「広島に新型爆弾」という見出しで状況はわずかに分かった。これによると ①咋8月6日広島市は敵B29小数機の攻撃により相当の被害を生じたり ②敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり。そして以下のような報道が続く。
 広島市の戦災地を視察して8日帰着した中部軍管区司令部の赤塚中佐は「新型爆弾決して恐るるに足らず」と述べ、「従来の教訓を徹底すれば十分これに対抗し得るということだ」などと報告させている。あっという間に広島市を破壊し、被害者が川に流れている状況を無視した、恐るべき大本営発表だった。かくして無条件降伏と言う敗戦を迎えたのだ。

 我々は、こういう嘘と誇大妄想で固められた東条以下の大本営発表で、勝った、勝った、負けても勝ったという宣伝を信じて、ついに320万人の戦争犠牲者を出すまで、戦争を継続し、広島、長崎への原爆投下とソ連参戦でようやく戦争終結、敗戦日をむかえたのである。12歳の少年は、敗戦後大人たちや政府の言うことを信じなくなった。敗戦後の学校の校長以下、教師たちは教科書に墨を塗って、平然と平和教育に転換した。

 ◆ 母政子の死と叔父二人失い祖母きしのは発狂そして首吊り自殺

 敗戦の年の4月20日には、6人の子供を残して母政子が数え年38歳で、肺炎のため短い生涯を終えた。そして8月15日の敗戦、母方の祖父母は、長男敏継を支那事変で失った。次女は結核で早世。長女の母は死亡。唯一の希望は南方に参戦した叔父茂のみだった。しかし年明けて間もなく叔父茂は南方ブーゲンビル島で、敗戦前日の8月14日死亡していたことが分かった。当時60代半ばの祖母はその夜狂った。ワアーという叫び声を上げて雪深い山里の道を裸足で走り出したのだ。12歳の少年が聞いたあの祖母の獣のような悲痛な叫びはいまなお88歳の耳朶に残る。

 祖父母たちはその後12年生きたが、1957年相次いでこの世を去った。祖母は祖父の死後自ら命を絶った。祖父上畑太平次が77歳で死去した同年秋、病を得て、祖父母の隣に住んでいた父と妹が看病していた。明日、鏡野町の町立病院に入院させると決まった日の夕刻、父と妹が隣の実家に帰った隙に、自ら縄をかけて首吊り自殺した。私が東京に出て2年目の秋、砂川基地反対闘争に現地オルグとして参加していた1957年、24歳のころだ。

 ◆ 終戦と言わず敗戦日と明確にうたった俳人たち

 俳句の世界でも終戦とする俳人は多いが、私の尊敬する俳人の金子兜太、鈴木真砂女、石田波郷、岡山県出身の西東三鬼らは敗戦忌、敗戦日を季語として詠んでいる。

  敗戦日の午前短し午後長し   三橋敏雄
  敗戦日の水飲む犬よわれも飲む 西東三鬼
  敗戦日非業の死者と風の島に  金子兜太
  教へ子の割腹ありし敗戦日   能村登四郎
  日照を阻むものなし敗戦忌   上田五千石
  暮れはててなほ鳴く蝉や敗戦日 石田波郷
  朝顔の地を這つて咲く敗戦日  鈴木真砂女
  射的人形苦もなく倒し敗戦日  伊丹三樹彦
  焼夷弾筒向日葵をさす敗戦日  山口青邨

 ◆ 高見順の敗戦日記に見る日本人 国家主導の慰安婦施設提供

 歴史家の大濱徹也氏は『高見順の敗戦日記に見る日本人』という著作の中で以下のように述べている。※1)

 日本政府は、まさに「日本兵が支那でやったことを考えれば」なる思いを共有していたがため、敗戦直後から占領軍将兵による婦女子への凌辱行為で「日本の娘」が汚されるのをおそれ、「婦女子への貞操の防波堤」なる名目で国家の主導で連合国将兵のための慰安施設の設置を検討していました。東久邇内閣の国務大臣近衛文麿は「日本の娘の純潔を守ってくれ」と警視総監坂信弥に要請、ここに連合軍将兵専用の慰安所が設営されることとなりました。
 警視庁は、花柳界に協力をもとめ、8月26日に特殊慰安施設協会(Recreation & Amusement Association RAA)を設立、9月4日に「キャバレー・カフェー・バー ダンサーを求む 経験の有無を問はず国家的事業に挺身せんとする大和撫子の奮起を確む最高収入 特殊慰安施設キャバーレー部」等々の新聞広告、「新日本女性を求む」云々なる街頭広告で広く女性を募集しました。「大和撫子」なる呼びかけは、占領軍将兵への売春行為を国家の使命とみなし、戦時中の工場への勤労動員を「女子挺身隊」と位置付けたのに通じるものです。ここには国家管理売春を国是としてきて構築された日本という国の変わらざる体質が読み取れましょう。ちなみに協会設立の資本金1億円のうち5500万円は大蔵省の保証で日本勧業銀行が融資。資金調達に尽力したのは後に総理大臣となる池田勇人です。

 ◆ 尊皇攘夷論者が米軍慰安婦施設を先導 前代未聞の「愛国」

 高見は、このような施設に関わった経営者が終戦前は「尊皇攘夷」を唱えていたことを指摘、次のように慨嘆しております。

 世界に一体こういう例があるのだろうか。占領軍のために被占領地の人間が自らいちはやく婦女子を集めて淫売屋を作るというような例が――。支那ではなかった。南方でもなかった。懐柔策が巧みとされている支那人も、自ら支那女性を駆り立てて、淫売婦にし、占領軍の日本兵のために人肉市場を設けるというようなことはしなかった。かかる恥かしい真似は支那国民はしなかった。日本人だけがなし得ることではないか。
 日本軍は前線に淫売婦を必ず連れて行った。朝鮮の女は身体が強いと言って、朝鮮の淫売婦が多かった。ほとんどだまして連れ出したようである。日本の女もだまして南方へ連れて行った。酒保の事務員だとだまして、船に乗せ、現地へ行くと「慰安所」の女になれと脅迫する。おどろいて自殺した者もあったと聞く。自殺できない者は泣く泣く淫売婦になったのである。戦争の名の下にかかる残虐が行なわれていた。
 戦争は終った。しかしやはり「愛国」の名の下に、婦女子を駆り立てて進駐軍御用の淫売婦にしたてている。無垢の処女をだまして戦線へ連れ出し、淫売を強いたその残虐が、今日、形を変えて特殊慰安云々となっている。(昭和20年11月14日)

 日本国家の指導者は、いかに「日本人だけがなし得ることではないか」といわれようとも、「愛国」の名の下に平然と国民を人身御供にすることで、己の存在を確保してきたのだといえましょう。昨今耳にする「美しい日本」なる掛け声をはじめ、女子スポーツ界にみられる「撫子」なる言説がいかに世間の気分を高揚させようとも、その言説に何が託されてきたかを凝視し、歴史の闇を読み解くべきではないでしょうか。ここに展開してきた虚妄なる世界こそは、日本という国の根底に国民を平然と売り飛ばす、高見流にいえばある種の「淫売帝国」ともいえる体質が未だに根深く息づいている証左ではないでしょうか。それだけに現在こそ、国家が説き聞かせる言説に向き合い、私の場を確かめたいものです。

参考文献
・水野浩編『日本の貞操 外国兵に犯された女性たちの手記』 蒼樹社 1953年
・五島勉編『日本の貞操』 蒼樹社 1953年
・なお、乃南アサ『水曜日の凱歌』(新潮文庫 2018年)はこのRAAを素材とした作品

(「学び!と歴史 <Vol.128> 日本の政府は占領にどのように向き合ったのであろうか 大濱徹也) https://www.nichibun-g.co.jp/data/web-magazine/manabito/history/history128/

 (世論構造研究会代表、『オルタ広場』編集委員)

(2021.08.20)
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