【コラム】技術者の視点(6)

文系と理系

荒川 文生
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 優秀な後輩が、ここ数年に亘る研究実績を書籍として出版しました。『デジタルグリッド』という情報処理技術を応用した新しい電力システムの構築を提案するものです。それを自ら紹介するに当たり、「いっさい 図を使いませんでした」というので、「何故?」と問うと、「図を見ると文系の人は思わぬ理解をする事が判った」と言うのです。

画像の説明

 流石 賢明な判断です。ただ、「文系の人」と言う区分は如何でしょうか? 物事を理性的に判断する人と感性的に受けとめる人の違いのような気がします。工学で用いる図は、理性的判断を助けますが、感性的な受け止めとしては別物に為り得るのです。逆に、感性的に劇的な受け止めが期待できる図は、工学的には不正確(杜撰)とされる場合があります。自分の主張をどちらの方法で説得するかは、「観人説法」の教えに拠るべきなのでしょう。

 海外では、自然科学の研究者が哲学の分野で優れた所論を展開する例も少なくなく、元合衆国大統領ジミー・カーターの様に原子力工学を学びつつ、弁護士の資格を持って政界で活躍する人もいます。日本でも同様の例がない訳ではありませんが、終身雇用が一般的な社会では、技術者として社会に出た人が政治の世界に入ると、ある種の偏見を持ってみられると言うのは、技術者の僻みでしょうか?
 具体例として、菅直人・内閣総理大臣が3・11の原発事故に際し、自らの原子力工学の知見に基づく判断で、現場の指揮を執っていた吉田所長と同じく「炉心への海水注入」已むなしとした所、これが政治的には誤ったものと糾弾されました。現在、これは「名誉回復」されつつありますが、当時の政治情勢の中で野党であった自民党が「原子力ムラ」の意向を戴して政権党の党首を糾弾するに当たり、その技術的判断を尊重しなかったのは、正当な行為とは言えないでしょう。このような批判が的確に為されなかった背景に、文系と理系を峻別する日本的文化があったとは言えないでしょうか?

 もとより、人間は右脳と左脳を持っており、夫々に感性と理性を司ると言われております。それらを「脳幹」が確りと繋いで機能させるとき、人間本来のあり様が実現されるものです。技術者が「1+1=2」だけで事態に対処するとき、人間としての倫理観を含めた正当かつ的確な生きざまは実現できません。逆に、謙遜を含め「自分は文科系だから」とその思考を限定することは、人間として偏っているとの批判は免れない事でしょう。

  寅彦忌文科も理科も隔てなく  (青史)

 (地球技術研究所代表)


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