【コラム】『論語』のわき道(31)

新しき年に

竹本 泰則

  新しき年の初に 思ふどち い群れてをれば 嬉しくもあるか

 たまたま出会った万葉の歌です。
 歌の趣としては、新しい年のはじめに、気心が通じ合う人たちと一緒に集まっていることは本当にうれしいことだなぁ……くらいでしょうか。
 素養のない者にもわかりやすい歌で、思いそのままの表現も好ましく感じます。
 新型コロナウィルス(COVID-19)が猛威をふるう中、仲間との会合や談笑の楽しみを奪われ続けた2021年であっただけに、新たな年は「思ふどちと、い群れていたい」との願いはひとしおです。

 歌の詠み人は道祖王(ふなどのおおきみ)という人。この人は天武天皇の孫にあたるのだそうです。756年に聖武上皇の遺言によって皇太子に立てられたものの、翌年にはそれを廃されてしまい、さらにその翌年には橘奈良麻呂の乱という事件にかかわった廉(かど)でとらえられ獄死をしています。

 出だしの「新しき」は「あたらしき」とつい読んでしまいますが、正しくは「あらたしき」だそうです。
 あたらしいという意味の日本語はもともと「あらたし」だったということです。同様の意味合いで「あらたな」、「あらたに」といった表現を現代(いま)でも普通に使いますが、あ・ら・たと続く文字の並びから考えると、こちらはもともとの言葉の名残をとどめるものかもしれません。

 「あたらし」を古語辞典でみると漢字表記は「惜し」となっています。意味としては「対象を傍から見て、立派だ、すばらしいと思い、それが、その立派さに相当する状態にあればよいのにと思う気持ちをいう」とあり、さらに「平安時代以後アラタシ(新)と混同が起り、アラタシは亡びてアタラシが新の意味をもっぱら表わすようになった」とあります(岩波古語辞典)。亡んでしまったと断じられていますが、確かに現代(いま)では「あらたしい」などとは言いません。
 一方で、アタラシは本来、惜しいという意味あいであったといわれてみれば、「あたら若い命を散らす」といった言い方がそれをとどめているのかとも思います。

 万葉の時代にはまだ「あらたし」だった「新」ですが、平安期の半ばに書かれた『枕草子』では「あたらし」に変化しています。
 あてなるもの(上品なもの、優美なもの)の一つとして清少納言が挙げたものの一つです。

  削り氷にあまずら入れて、あたらしきかなまりに入れたる

 ピカピカ光る金属製のうつわ(鋺;かなまり)に削った氷を盛り、蜜(甘葛〈あまづら〉という植物由来の甘味)をかけたもの――その風情を愛でています。多分うつわの表面には水滴が輝いていたことでしょう。
 それにしても、かき氷かシャーベットか知りませんが、千年もさかのぼる昔に、大宮人は随分と洒落たスイーツを召し上がっていたものですね。

 『論語』は五百あまりの章からなりますが、「新」の字はそのうちの三つの章に出てきます。一つは「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」ですが、あとの二つは音読みです。
 『論語』などと並んで儒学の重要な経典(「四書〈ししょ〉」と呼ばれています)とされた『大学』という書物の中には次のような成語があります。

  苟(まこと)に日(ひ)に新(あら)たに、日日(ひび)新(あら)たにして、
  又(また) 日(ひ)に新(あら)たなり

 ひとは、日々に新しくなること、つまり日を重ねるごとに進歩・発展していくことが大切であるということを、言葉を反復して強調したものだろうと思います。この中の一部をとって慣用句のように使うことがあります。たとえば昭和の経営者で経団連の会長も務めた土光敏夫は「日に新たに、日々に新たなり」が座右の銘だといっています。
 また、原文の日新という熟語も好まれており、特に会社の名前などに見受けられます。
 新しい、新た……意識せずに使っていますが、背後には言葉の混同が隠れていたということを知りました。

 常用漢字表を見ると、新の訓読みには、あたらしい、あらたのほかに、さらにもう一つ「にい」を採っています。新潟県の読みはこれですが、ほかにも地名などには結構多く見られ、新座(にいざ)、新島(にいじま)、新居浜(にいはま)などがあります。人名でも同志社大学の設立者新島襄などが浮かびます。また、新妻、新盆などは現代でも普通に使われる言葉でしょう。
 新の字に対して「にい」の読みを当てることは古くから行われていて、現代までそのまま続くようです。

 昔の例を万葉歌から引きます。

  若草の 新手枕(にいたまくら)をまきそめて 夜をや隔てむ 憎くあらなくに

  新妻と初めて手枕を交わして以来、たとえ一夜であってもどうして一緒に
  いないなどということができようか。かわいくてしかたがないのに。

 こうまで純朴(ストレート)に吐露されると読み手としては何をかいわんやです。
 なお、現代語訳は、身のほど知らずに山っ気にそそられた挙句のいい加減な私訳です。

 辞書によれば、「にい(にひ)」はその年に収穫されたばかりの新穀の意で、これが転じて、まだだれも手をつけていない、未経験のといった意味になったそうです。新嘗祭の「にい」などは原意が感じられます。単にあたらしいというだけにとどまらず、純粋、清浄といったニュアンスを含むのかも知れないと想像します。

 実はこの歌には興味深いことが別にあります。原文の万葉仮名です。
 「憎くあらなくに」の「にくく」という部分の表記は「二八十一」となっているそうです。二は「に」。これはまっとうです。八十一で「くく」なのだそうです。「くく、はちじゅういち」だからということなのですが、まるで言葉遊びのようです。「に」に数字の二を当てたものだから、その流れで洒落っ気を出したものでしょう。それにしても万葉の昔に、一部の人であれ「九九」がいきわたっていたというのは興味あることです。

 あたらしき年に向かいて願わくは、世をかきみだす病魔奴(コロナども)、あたら短き晩節ぞ、くらし二八十一(にくく)とすることなかれ。

 (「随想を書く会」メンバー)

(2021.12.20)
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