【オルタの視点】

新潟米軍基地拡張反対闘争余話②
黒人米兵強姦事件とジラード事件

仲井 富


◆◇ 黒人米兵暴行事件は実刑4年 白人米兵殺人事件は執行猶予付き

 米軍飛行場拡張反対闘争が始まる1年前の1953年11月8日夜に、朝日新聞新潟版によれば、黒人米兵の婦女暴行事件が起きた。そして黒人米兵のジョージ・T・ジョーンズ一等兵(28)は逮捕起訴され、翌1954年1月14日、新潟地裁で懲役4年の実刑を言い渡された。その間実に2カ月余の間に、新潟地裁に於いて実刑判決が下った。
 1957年1月30日、群馬県相馬が原米軍演習場で、空薬莢拾いに来ていた主婦・坂井なかさん(46)が米兵に射殺された。当初は流れ弾に当たったものとされたが、米兵・ウィリアム・S・ジラード(当時21歳)が射殺していたことがわかった。これは殺人事件である。
 ところが米軍側のさまざまの妨害によって、日本での裁判権行使が認められたのは5月18日、検察庁はジラードを傷害致死罪で起訴。11月9日、前橋地裁・河内裁判長はジラードに懲役3年・執行猶予4年という軽い判決を言い渡した。

 婦女暴行犯の黒人米兵は懲役4年の実刑判決。殺人事件の白人米兵には執行猶予付きの懲役3年判決。これほどの差異はどこから出て来たのか。まさに日米地位協定が米軍の思うままに運用されている歴史を見事に証明した事件だった。

◆◇ 黒人米兵婦女暴行事件における経緯と実刑4年の判決

 新潟の黒人米兵暴行事件は、1953年11月8日に起きた。朝日の記事は以下のように報じた。

 ――11月8日午前2時ころ、新潟市新興町猿子鉄工場減量置場付近で、はげしい犬の吠え声で眼を覚ました隣の金井商店、金井鉄王さんが鉄ドロボウではないかと東新潟署に通報、同署員二名がかけつけたところ駐留軍黒人兵士らしい男がその場から逃げ、若い女が暴行されて気を失って倒れていた。手当をして事情を聞いたところ―山ノ下秋葉町の会社員 某女(19)で、同夜2時近く帰宅の途中、山ノ下末広通り一を通りかかった際、後ろから急に首をしめられ暴行されたと言っている。同女はすぐに告発の手続きをとった。尚この事件は10月29日、米軍兵士による犯罪の裁判権が米軍から日本側司法部門に移って以来、はじめてのものである――

 そして、11月9日、引き続き朝から山ノ下米軍飛行隊で憲兵隊の協力を得て犯人捜しを行った。被害者某女や犯人を目撃したという東新潟署山ノ下派出所長原、堀両巡査による首実験などの捜査で黒人米兵一等航空兵ジョージ・T・ジョーンズ一等兵(28)が容疑者として浮かび上がり、同人の身柄を議定書公式議事録に従い憲兵隊拘禁所に留置することになった。新潟市警は新潟地裁に逮捕令状を請求した。注目の第一回公判は12月12日に開かれた。朝日は「注目の米兵裁判開廷 証拠隠滅を衝く 被告は控訴事実を否認」の見出しで同日の状況を報じた。

 ――12日午前10時から新潟地裁堀切裁判長係、柴田検事、山本弁護人立ち合いで開かれた。法廷は傍聴人、米軍軍人、この事件を扱った新潟市警察捜査係、報道関係者で満員、母親に付き添われた被害者も傍聴人席に姿を現わし、弁護人席の後の特別傍聴人席にはワイズ米軍飛行隊司令官、ウェルズ憲兵隊長らも姿をみた。定刻を少し遅れて空色の空軍服に無帽のジョーンズ被告が入廷、宣誓に続いて人定訊問を受けた。当日の公判では被告は控訴事実を否認した。――

 その後連日の公判を経て、94年1月7日午前10時から開かれた第12回公判において検事から懲役5年の求刑があった。柴田検事は「この事件は同夜の被害者の服の汚れ、付近の人の証言、事件後被害者が自殺を図ろうとしたこと、などからジョーンズ被告が抵抗する被害者に暴行を加え傷を負わせたもので合意でないことは明らかだ。情状の点でも被告は終始犯行を否定して改める態度がないと2時間にわてって論告した。
 かくして1949年1月14日、T・ジョーンズ一等兵(28)に対する判決公判が開かれ、堀切裁判長は同被告に対して懲役4年の実刑を宣告した。判決後同法廷は直ちにジョーンズ被告の勾留状を発行、新潟市警察員が付き添って同人の身柄を新潟刑務所に収容した。以上が黒人米兵の婦女暴行事件における裁判と判決の要旨である。

◆◇ 白人米兵ジラードの婦女殺害事件は懲役3年・執行猶予4年の判決

 新潟黒人米兵の婦女暴行事件は、実刑4年の判決だったが、米軍当局も一言も苦情を言わず追認した。ところが3年後の群馬県相馬が原の白人米兵の殺人事件は紛糾を重ねた。結果は懲役3年・執行猶予4年という軽い判決だった。
 当時の私は、社会党本部軍事基地委員会の書記であり、事件の調査のため地元の茜ケ久保重光代議士らとともに相馬が原に出向いていた。
 社会党は、砂川基地闘争等の延長線上に、茜ケ久保代議士らが政府を厳しく追及していた。

 事件の概要は以下の通りである。1957年1月30日、群馬県相馬が原の米軍演習場で、空薬莢拾いに来ていた主婦・坂井なかさん(46)が米兵に射殺された。当初は流れ弾に当たったものとされたが、米兵・ウィリアム・S・ジラード(当時21歳)が射殺していたことがわかった。
 同演習場は榛名山の南側に広がる原野で、1920年(大正9年)に旧日本陸軍が開設した。その直後から、地元の農家の副収入だった炭俵編みの材料であるカヤが実弾演習で使い物にならなくなり、空薬莢拾いはそれに変わる副業として地元の人の貧しい生活の足しにするために行なわれていた。米軍は薬莢の回収について無関心だったため収穫は多く、村人たちは1日に2、3貫の薬莢を拾い、週に1度来る“仕切り屋”に貫7、800円ほどで売っていた。激しい演習が行なわれるほど、効率よく弾は拾えるので、村人達は立ち入り禁止区域に入ったり、実弾射撃をくぐるなど危険な行為をするようになった。

 この時、前橋地検の小縄検事は演習中といっても必ず米軍に裁判権があるわけではない」と徹底捜査を主張した。群馬県警と高崎署が乗り出し、群馬大で遺体の解剖がされると、空薬莢が出て来た。さらに坂井さんと行動していた農民を米軍キャンプに同行させた結果、撃ったのがジラードであることも判明した。
 米軍側は早々にジラードの身柄を確保し、2月5日には第一騎兵師団の師団長エドウィン・カーンズ少将は「調査中だが事故死と断定できる」と言明。7日に籠原キャンプを訪れた県警幹部に対しても、「警告のために空に向けて撃ったところ、誤って命中した」と憲兵隊は説明した。
 だが県警は目撃者の「故意に撃った」という証言や、最初こそジラードをかばっていたニクル三等兵が日本側証言に同調したため、2月9日に傷害致死容疑でジラードを前橋地検に書類送検した。この事件は国会でも取り上げられ、また忘れられていた同種の事件も報道されたことで、国内の世論も高まった。

◆◇ 日米談合よる執行猶予付き判決だった 37年後外交文書公開で判明

 裁判権の対立は続き、5月16日の分科会で米軍は国防省の方針に従い、「この事件については裁判権を行使しない」と日本側に通告した。かくして5月18日、検察庁はジラードを傷害致死罪で起訴したのである。
 米国内では「ジラードを日本側に引き渡すな」という声が高まった。彼の故郷であるイリノイ州でも親族や在郷軍人会を中心に同様のキャンペーンが沸き起こっていた。同年7月5日、ジラードは埼玉県・熊谷の米軍キャンプで日本人女性ハルと結婚式をあげていた。

 ようやく8月26日、前橋地裁で第一回公判が始まる。事件発生から既に9カ月を迎えようとしていた。かくして1957年11月9日、前橋地裁・河内裁判長はジラードに懲役3年・執行猶予4年という軽い判決を言い渡した。
 12月6日、ジラードは日本人の花嫁を連れて、横浜港から米軍用船で帰国している。この屈辱的な判決には日米の密約があったことが後年判明した。

 事件から37年後の94年11月20日、外務省は戦後の「対米外交文書」の情報公開を行った。そのなかでジラード事件に関して、米側が日本の裁判権を認める代わりに、「ジラード三等兵を殺人罪より軽い傷害致死罪で起訴すること」、「裁判では可能な範囲で判決が最大軽減されるように働きかけること」といった条件を出していたことがわかった。また57年6月16日に岸首相がアイゼンハワー大統領との日米会談のために訪米した際、「米の裁判手続きが終わるまでジラード三等兵の公判開始を延期してほしい」という要請もあったという。
 周知のように後年『CIA秘録 上・下』で暴露されたように、戦犯岸は巣鴨から釈放された直後からアメリカのエージェントとして、左翼勢力駆逐のために、1955年から10年間にわたって自民党の選挙資金の援助を受けていた売国政治家であった。

 もう一つ、米軍側は新潟黒人米兵暴行事件では、粛々と判決を受け入れた。それに反して、群馬の白人米兵逮捕には故郷のイリノイ州から抗議運動が展開され、それがさらなる裁判の遅延につながった。未だ黒人差別が色濃く残るアメリカでは、黒人米兵に声を上げるものはなかった。キング牧師の公民権運動によって公民権法が制定されるのは、1963年のことである。日米合同委員会における恣意的な日米地位協定の最大の被害者はいまなお沖縄県民であることも周知のことだ。

[注]①ジラードは前橋地方裁判所で行われた裁判で懲役3年・執行猶予4年の有罪判決が確定した。ジラードへの処罰を最大限軽くすることを条件に、身柄を日本へ移すという内容の密約が日米間で結ばれていたことが、1991年に米国政府の秘密文書公開で判明した。日本の外務省が1994年11月20日に行なった「戦後対米外交文書公開」でも明らかとなっている。
[注]②岸信介は1955年からCIAの資金援助によって自民党を支配していた。ニューヨークタイムズの調査記者テイム・ワイナー氏が2007年6月に出版した『Legacy of Ashes; The History of the CIA(灰の遺産 CIAの歴史)』(日本語版『CIA秘録 上・下』文藝春秋、2008)で「岸信介はCIAのエージェントであった」ことを暴露した。

画像の説明
  《ジラード事件判決を報じた朝日新聞1957・11・9夕刊》

 (世論構造研究会代表・オルタ編集委員)

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